074 魂の回廊

 石鹸を乾燥させてから数日が経った頃。

 僕達は、自作の木箱から中身を取り出して確認して見る。


「やはり、固形状になるのは難しいか...」


 木箱の中身の物体は固形にはならず、糊(のり)状のままだった。

 つまり、作成した時から進展が無いと言う事だ。


「ねえ、ルシウス?これで、完成なの?」


 さくらは石鹸の実物を見た事が無い。

 その為、これが完成した状態なのか解らなかったのだ。


「これは...石鹸としての効果はあるけれど、僕が求めている形には、ならなかったかな」

「じゃあ、失敗したの?」


 さくらは表情では無く、その声で悲しさを表す。

 視線がずっと木箱の中身に夢中の為だ。


「大丈夫だよ、さくら。これはこれで失敗では無いから。僕達が作成した石鹸は、もともと材料的に固まる事が難しい物だからね」

「そうなんだ!それなら良かった」


 さくらは、胸に手を当てながら息を吐く。

 一生懸命作成した物が失敗した訳では無い事を知って、安堵した様子だ。


「何故、僕が石鹸を作ったかと言うとね、教会や孤児院の皆を病気から守る為に作ったんだ。それに、“におい”が無い事が重要だったからなんだ」

「においが...無い事が重要なの?」


 普段生活をしている上で、“におい”は切っても切れない関係

 さくらは、その理由を教えて欲しそうだ。


「それは、“におい”には、良いにおいの“匂い”と、悪いにおいの“臭い”があるからだよ」


 教会にも、様々な“におい”が溢れている。

 但し、それは悪いにおいの方の臭いになるのだが。


「え~っと、お母様達は、良い香りの匂いで、トイレとかは嫌な香りの臭いって事かな?ルシウス、これで合っている?」


 僕の親であるアナスターシア、さくらの親であるアプロディアは、自然と良い匂いが香っている。

 それは香水のような物でにおいを誤魔化しているのでは無く、彼女達が持つ天然のフェロモンによるものだ。

 もしかしたら、これはゲーム時代には無かった、“におい”に関するスキルがあるのかも知れないが。

 そして、嫌な臭いのトイレは汲み取り式のトイレ。

 現代のような水洗式では無く、所謂(いわゆる)ボットン便所と呼ばれている物。

 これの特徴は、深い穴の中に排泄物を溜める事。

 それゆえに、強烈なアンモニア臭が漂っているのだ。


「そう。だから“におい”は人によって好みが分かれるもの。さくらも自分が好きな“におい”があるでしょ?」

「うん!好きな、“におい”はお母様の匂いでしょ。それから、森の匂いに、太陽の匂い。この間食べた鶏肉さんの匂いも...」


 さくらは頭の中で、そのものが放つ匂いを想像しながら指を折っては好きな匂いを確認していた。


「...でも、一番好きな“におい”は、ルシウスの匂いかな!」


 さくらが前屈みになって僕の顔を覗きながら(においを嗅ぎながら)言葉にする。


(えっ?僕のにおい!?うそ!そんなに、におうのかな?...もし、これが汗のにおいだったら...嫌だな)


 自分の“におい”は自分には解らないものだ。

 僕自身、臭いには気を遣っているつもりではあるけれど。

 でも、好きと言われているくらいなので、臭いと言う訳では無さそうだ。

 (えっ、そうだよね?)と、疑問に思いながらも勝手に良い解釈として捉えた。

 僕は一瞬、視線が宙を浮きながらも、直ぐさま、さくらへとお礼を伝える。


「ありがとう。僕も、さくらの匂いが一番好きだよ」


 アナスターシアにアプロディアと言ったお母様達は、確かに良い匂いがするが、僕はさくらの匂いが一番好きだ。

 一緒に居ると心が落ち着くラベンダーのような花の香り。

 僕がそう伝えると、さくらは顔を伏せてモジモジしていた。

 この言葉に出来無い照れている感じが、とても可愛いと思った。


「でも、においは人によって感じ方が変わるものなんだ。だから、においのついていない石鹸は誰もが使える物。これなら皆が欲しくなるでしょ?」

「うん!だから匂いや、臭いがしない事が重要なんだね」


 においが無い事が万人受けをする。

 例えば、魔法を使用して洗浄や消臭が出来るなら別だが、教会では、そのような魔法が使用された事が無い。

 これは、街でも一緒だ。

 洗浄や消臭が出来るのならば、街の至るところで臭いが充満している筈が無いのだから。

 それならば、石鹸は商品として十分に価値を持つ物だ。


(石鹸があれば、汚れだけでは無く、臭いも落とせるからね)


 最初はにおいの無い石鹸を販売して、後から匂いのついた石鹸を販売するつもりだ。

 僕は現代の知識を利用した上で、それらを商売へと活かす。

 何故なら、これから先の事を考えれば、何をするにしてもお金が必要になるからだ。

 お金があれば教会の生活を、しいては街や国の生活を豊かに出来る。

 僕達、親のいない孤児が、望んだ未来を選べる世界に出来るのだ。

 生まれ(血筋)や能力(技能)によって断定的に決められた未来(運命)では無く、個人が望める(選択出来る)未来を求めて。


(そう言えば、現実化したこの世界では、僕が所持していたものはどうなったんだろう?アイテムや武器に、それからホーム拠点...ゲームのシステムと切り離されたこの世界では存在しないものなのかな?ホーム拠点があれば、すぐにでも改善出来る事が一杯あるんだけど...)


 ホーム拠点があれば、その設備を利用して、所持アイテムを利用して、物作りが出来る。

 現状、教会に足りない物、その全てが補えるのだ。

 だが、魔力はあっても魔法の使えない僕。

 拠点に帰還する魔法が使用出来無い。


(それに...アルヴィトルは、どうなったのか?)


 僕専属のNPC、アルヴィトル。

 ヴァルキュリーと呼ばれるクラスに就いた、最強のパートナー。

 もし、アルヴィトルがこの世界にいるのなら、その保有する能力だけで世界を牛耳れる支配者になれるだろう。

 でも、それは僕の憶測に過ぎない。

 今、僕がいる世界は、一度世界が崩壊した後で新しく時を重ねた世界。

 ホーム拠点は異空間に設置されている拠点(ゲーム設定)なので、世界が崩壊しても別に存在をしているとは思うけれども。


(魔法が使えれば、ホーム拠点には戻れる筈?だけど、魔法が使えるならば、ホーム拠点に行く必要も無くなる...よね)


 魔法が使えるならば、ホーム拠点の設備に頼る必要が無く、自力で望む物を作れる。

 石鹸作りも、魔法を使用したら楽に出来るのだ。

 オリーブオイルなら、より純度の高い物を。

 木灰よりも、高性能な苛性ソーダも、雷魔法の応用で電気分解して作れる。

 ミネラル水なら、水魔法で精製する事も出来る。

 何なら、ハーブや果汁から匂い成分を抽出した製油も作れてしまうだろう。

 魔法さえ使えるならば、道具に頼らなくても、それらが作成出来るのだ。

 だが、魔法が使えない僕だからこそ、ホーム拠点の設備が必要になるのだ。

 そして、そのホーム拠点に行く為には、魔法が必要になると言う矛盾。


(僕は、ずっと無い物ねだりばかりだな...それにしても、生まれ付き僕が欲しい物は簡単に手に入らないようだ)


 基本的に欲しいものは、何かを積み重ねる事でしか手に入らない。

 それは“力”も、“お金”も、“もの”もだ。

 だが、生きる事が難しかった転生前の僕とは違う。

 いずれ望むものを全て手に入れる為に、僕が今出来る事を一生懸命に積み重ねて行く。

 それは、地道に。

 確実に。

 僕の心の根底にある、生きる喜びを再認識した瞬間だった。

 そして、さくらとの会話に戻る。


「これで、においが無い事が重要だと伝わったかな?」

「うん!流石、ルシウスだね!」


 さくらの声には、感情が乗る。

 それは、歌だけでは無く、言葉にも。

 その気持ちが乗った言葉で、褒められると余計に嬉しいものだ。

 心の中で拳をグッと握る。

 後は、石鹸の品質を向上させて行くだけだ。


「サボン草を使ってから、教会の衛生環境はだいぶ良くなった方だけど、教会全部を洗浄する為には、サボン草が大量に必要でしょ?でも石鹸なら、サボン草の量よりも少なくて済む。それに洗浄の効果を比べても、石鹸の方が効率は良くなるからね」

「確かに、石鹸の方が汚れが落ちるよね。それに石鹸作りも慣れれば、もう少し簡単に作れそうだもんね」


 石鹸作りの工程は、さほど難しいものでは無い。

 魔法が使えない子供の僕でも、簡単に石鹸を作る事が出来るのだから。


(...そうか。僕達で作る事が出来るなら、素材さえあれば孤児院の皆でも作る事が出来るんだ!)


 今、僕達が作成している物は軟石鹸と硬石鹸の中間。

 僕が望む最低限の硬石鹸を作成するには、その材料や道具を集めるのにお金が必要になる。

 更に、それを作成する為の専門の技術者と人員がだ。


(孤児の皆に手伝って貰えば、石鹸を量産する事が出来る!そうすれば商売につなげる事が出来るんだ。そして、お金があればちゃんとした硬石鹸が作成出来る!人員は孤児で賄えるとして...後は、それを扱う技術者か?)

『マスター。それならば、技術者をマスター自身が育ててみては、いかがですか?』


 プロネーシスが頭の中で助言をくれた。

 人を雇うのでは無く、孤児の中から技術者を育てるのだと。


(そうか!足りない知識はプロネーシスが持っているんだもんね。それだったら僕でも育成が出来る!)

『はい。マスター。マスターが望む事は私が全て助力致しますので』


 僕がこの世界に転移・転生をした中で、一番の幸運はプロネーシスがいる事だ。

 それは、知識に情報は簡単に入手出来るものでは無いのだから。

 ましてや、人間の記憶なんて曖昧なもの。

 完全記憶を持っている人間ならまだしも、正直、僕は周りでそう言った人を見た事が無い。

 それに、僕はゲームが上手いだけの少年に過ぎない。

 一つの事をやり抜く意思の強さは僕の中で一番の長所かも知れないけど。

 だけど、これは人によっては頑固と捉えられる短所なのかも知れない。

 そんな事を考えながら、次回にでも孤児院長であるアナスターシアにお願いして、孤児に手伝って貰う事を了承して貰おうと思っていた。


「ルシウス?今日は、これからどうするの?」


 僕はいつも通り、さくらと一緒に行動をする。

 石鹸の確認が終わったので、此処からが今日の活動の始まりだ。


「そうだな。これから山に行って、岩塩と蜂蜜を採りに行こうかなって思ってるんだ」


 出来れば一度に胡椒も取りに行きたかったが、時間的にも二つが限界だろう。

 また帰りが遅くなって、メリルやメリダに怒られる事は避けたいからね。

 なので、その二つだけに絞って採集をする事を決めた。


「がんえん?はちみつ?」


 さくらの辿々しい言葉が、その疑問を表していた。

 岩塩と蜂蜜。

 この教会(街)では基本、素材のまま食事を召し上がる。

 味が濃いのも健康上問題だが、薄すぎるのも問題だ。

 教会では、ほぼ毎日、代わり映えの無い同じメニューの食事を摂る。

 こうした何の代わり映えの無い食事は、とてもつまらないものだ。

 味気の無い食事程、寂しいものは無いだろう。

 ただ、食べられない事が最も辛い事ではあるが。

 転生前の僕にとっての食事は栄養補給の点滴が常だった。

 食べられない。

 味も無い。

 常に一人で、独り。

 だから、僕は今、皆と一緒に食事が出来るだけでも嬉しいのだが、もっと美味しいものが食べてみたいのだ。


「岩塩も蜂蜜も、調味料になる物なんだ」

「調味料?」

「さくらは、確か...鶏肉が随分、気に入っていたよね?」

「うん!凄く美味しかったね!」

「調味料があれば、その鶏肉をもっと美味しくする事が出来るんだ。岩塩は、しょっぱい物で鶏肉の美味しさを引き上げてくれるし、蜂蜜は、甘い物で鶏肉を柔らかくする事が出来るんだ」

「えっ!?あんなに美味しかった鶏肉が、あれ以上に美味しくなるの?」


 さくらは、嬉しそうに驚いている。

 鶏肉を食べた時の、あの雰囲気を思い返せば当然だ。

 あんなに蕩けた表情で鶏肉の味を噛み締めていたのだから。


「そうだよ。それにその二つは、さくらのその綺麗な髪の毛にも役立つ物なんだ」


 どうやら、さくらは髪の毛を綺麗と言われた事が嬉しいみたいだ。

 口には出していないが、恥らいながらも照れている事が解る。

 そして、岩塩と蜂蜜はどちらも調味料になるものだが、シャンプー作成に必要な素材でもある。

 この世界に住む人々は髪の色が千差万別で、とてもカラフルな色をしている。

 ただ、水だけで髪を洗っていた時は、その髪の毛の艶が失われていた。

 一応、石鹸が出来た事で汚れは落とせるが、髪の毛の艶までは補えない。

 このままでは、折角の髪色が勿体無い事になってしまうのだ。

 アナスターシアに、メリルにメリダ、アプロディアに、そして、さくらの髪の毛がだ。

 皆が皆、美しい髪色をしていると言うのに、髪の艶を失っている所為で、そのポテンシャルが最大限発揮されていない。

 そこで、それを解決する物が(リンスイン)シャンプーになるのだ。


「サボン草で髪の毛を洗った時に、汚れは落ちたけど、何だかゴワゴワと軋んだでしょ?」

「うん。髪の毛は、さっぱりとしたけど、乾いたら髪の手触りが悪かったかな?」


 これはサボン草では、髪の毛の油分まで余計に落としてしまうからだ。


「新しく出来た石鹸で洗っても同じ結果なんだけど、もし、そのシャンプーが作れれば、髪の毛の汚れを落とした上で、髪の艶を保つ事が出来るんだ」

「つや?」

「こればかりは、実際に試す事が出来たなら、直ぐに違いが解るのだけれど、言葉だけだと、少し説明が難しいかな?シャンプーが出来たら試そうね」


 僕は、さくらにそう伝えて笑った。

 それを見たさくらが一緒に笑ってくれる。

 ああ...

 人と笑い合える事は、こんなにも楽しい事なんだと理解する。

 この気持ちは一人の時では知り得なかった感情だ。

 お互いに共有する事で、その気持ちが何倍にも膨れ上がるのだから。

 さくらと共に成長出来ている事が、一番嬉しい事だ。


「じゃあ、岩塩と蜂蜜を取りに山へと向かおうか?」

「うん、楽しみだね!」


 僕達は、背中に小型の篭を背負って山へと向かった。

 目的の岩塩は地中深くに眠っている物だ。

 地中深く掘る為の道具や機械は無いけど、代わりに魔力を代用して掘る。

 もう一つの目的である蜂蜜は、そのまま蜂の巣から搾取するだけだ。

 その際、蜂は倒さずに蜂の巣だけを貰うつもりではあるけれど。

 僕達は、何気無い会話を交わしながら山を登って行く。

 だが、前回登った時と比べて森の環境が変化をしていたのだ。


(何だろう?森の中の生物の数が...増えている?)


 森の中に生存する、小さな微生物から大きな動物を含めて、その数が増えている。


(それに、周りの植物も成長しているのか?何だか、広場の桜の樹も大きくなっているみたいだし...)


 周囲に植生している木々が、前回来た時よりも青々しく樹径が太くなっていた。

 そして、広場の中心にある桜の樹も急激に成長をしていた。

 それは、幾年もの時が、幾年もの時代が経ったかのような、急激な成長を遂げて。


(マナが増加しているのか?この変化は...一体何なんだ?)


 僕が生まれた時から恵みの森全体は魔力で満たされていた場所。

 それは、昨日まで一切変わり無くずっとだ。

 それが突然、今日になって急激な変化を遂げていたのだ。

 この急激な成長は何故起きたのか?

 その要因が全く検討つかなかった。


「わあ!恵みの森が大きくなっているね!光が...濃くなっている」

「っ!?...やはり、さくらもそう思うよね?この森に...一体何が起きたんだろうか?」


 さくらは、その成長ぶりを全く気にしていない様子だ。

 何故なら、森の普通や常識と言った事が解らないのだから。

 現代知識がある僕とでは、常識の概念も異なり、その思考がとても柔軟なものだ。

 それもそうか。

 此処は魔法がある世界。

 ましてや、そう言った知識を勉強する環境も無い。

 子供の発想は限界が無く、壁を一切作らないのだから。


「山の中♪森の中♪光の中♪」


 さくらのテンションが上がり、適当なメロディが付いた言葉を口ずさんで行く。

 それは一目瞭然で、さくらはこの状況を楽しんでいるのだ。

 一日で急成長を遂げた山。

 昨日よりも今日の方が森は生い茂り、山の中の空気が一段と澄んでいた。


(すーっ...空気が美味しいな)

「♪♪♪~」


 ああ、段々と感情が歌に乗って来ているみたいだ。

 そのさくらの感情が乗った歌が森の中で反響をして行く。

 その音は何処までも遠くに、際限無く響いて行きそうな程に。


(今日の歌には、いつも以上に動物達も反応をしている?何だか、精霊の動きも活発なようだし)


 さくらの歌に合わせて動物達も鳴いている。

 様々な動物や生物の鳴き声が重なり、まるで合唱をしているみたいに。

 妖精達は踊っているのか?

 さくらの周りを光を発しながら漂っている。

 それはスポットライトが当たったように、さくらの周囲を光の渦が巻きつくように。


(この光景を独り占め出来るだなんて、全く最高の贅沢だな。きっと元の世界なら、この光景を見る為に見た事も無いようなお金が動くんだろうな...)


 音楽と言うものが、世界も、次元すらも超えて感動を与えてくれる事を知った。

 そうなると、元の世界のように、さくらの歌を消費されるだけのものにはしたく無い。

 元の世界では、これだけ人を感動させられる歌ならば、本人が望む望まないにしろ、否応無しにお金が絡んでは無駄に消費をさせられるものだ。

 でも、此処は元の世界とは違う異世界。

 僕は、元の世界の良い部分、悪い部分を参考に音楽の力を、そして歌い手である個人の力を守る。

 知識や情報を、こういう事に使うのが正しい事なのだと信じて。

 そうして、さくらの歌に聞き惚れていた僕は、感動を噛み締めたままに山道を登った。

 途中で休憩を挟みながら目的地を目指して。


「ねえ、ルシウス?目的の岩塩は...何処にあるの?」


 地道に進みながら目的地の場所へと辿り着くと、さくらが不思議そうに周囲を見渡して僕に尋ねた。


「それはね。“ここ”にあるんだよ」


 僕は、地面を指しながらさくらの方を見た。

 すると、さくらは下を見て驚く。


「えっ?...地面?...土?ねえ、ルシウス?“ここ”には何も無いよ?」


 僕が指した“ここ”には、地面があって土しか無いのだから。

 それに対して僕は、無駄に格好をつけて拳から突き出した人差し指を「チッチッチっ」と横に振りながら答える。


「表面じゃ無いんだな。地面の下の、もっと下にあるんだ」

「えっ?地面の下って、どう言う事?う〜ん、土しかないけど?」


 さくらは、地中に岩塩があるとは思っていなかった。

 畑の手伝いで土を掘った事はあるが、地面を掘っても土しか無いのだから。


「その土を、もっと下に掘ったところに岩塩があるんだ」

「もっと下に?...でも、それなら道具が無いのに、どうやって掘るの?」


 それはそうだ。

 僕達が持っているのは、篭だけなのだから。

 地面を掘削する為の道具を何一つ持っていないのだから。


「えっと、さくらはこの力が見えるんだよね?」


 僕は魔力を形状変化させて、手の先端にドリル状の魔力を形成して行く。

 ゲーム時代にマナブレイドと言う無属性魔法があった。

 これはそれと同じで、属性変化をさせる必要が無い魔法だ。

 僕はそれを参考にして魔力を収束し、凝縮する事で作り上げた魔力変化。


「うん。ルシウスの周りから、特に、手の先で光っている力だよね?」

「そう。その通り。この力は、さくらも使っているものなんだけど、自覚はしていた?」


 さくら本人は、無自覚な上での魔力操作をしていた。

 それは歌う事によって、感情の高鳴りよって引き出される能力。

 もしも、これを意図的に使用出来るならば、歌に属性を纏う事が出来る筈なのだ。


「私も?う~ん、いまいち解らないかな?」

「...そうなんだね。でも、これが見えているなら、さくら自身、魔力を自覚する事が直ぐに出来るようになるよ」


 僕の周囲を纏う光。

 この魔力が見えているならば話は早い。

 それに、さくらの魔力総量も順調に増えているのだから。

 このまま一緒に成長が出来るならば、その魔力量がどうなって行くのか想像つかないものだ。


「で、今回は、地中深くを掘る為に、この力を使うんだ」

「手の先が尖っていて、形がギザギザしたもの?」


 やはり、さくらは目が良い。

 それは視力を指すのでは無く、魔力の些細な機微に気付けると言う目の良さだ。


「そう。これを回転させれば...ねっ?簡単に地面が掘れるでしょ?」

「凄いね、ルシウス!!こんなに簡単に地面に穴が開いて行くだなんて!」


 この作業は僕の魔力量に依存するが、魔力で出来たドリルは伸縮自在。

 それは大きさも、長さも、どちらを含めてもだ。

 そして、魔力で作ったドリルとは別に、魔力を自分中心に円形に広げる。

 こうする事で、地中の成分をプロネーシスのデータと照合して貰う為だ。

 そうして解析をした結果、このまま地中深くまで掘り進めれば、岩塩がある事が確認出来た。

 本当にプロネーシス様々だ。

 だが、僕達はこの時。

 作業に夢中になるあまり、周りの状況が全く見えていなかったのだ。

 これから僕達に訪れる危機に対して、あまりにも無防備だったのだ。

 それは、僕は魔力を変化させて地面を掘る事に夢中で、さくらは初めて見るその作業に夢中になって。

 そして、プロネーシスも、元の世界とは異なるこの世界の地中成分から岩塩のデータを照合する事に、その大半の思考が捉われてしまって。


「ぐあっ、ぐあっ、ぐあっ!!」


 低く口ごもった鳴き声が、突然、聞こえ出した。

 普段の僕(プロネーシス)ならば、周囲に近付いて来るものに対して敏感に反応が出来ていた筈。

 なまじ、これまでの経験が僕の危機管理意識を低下させたようだ。

 それは、子供の身体で森にいても無事な事だったり、山を簡単に登ってしまった事で。

 これから僕達に訪れるものは、様々な要因が重なった事で見落としてしまった最大の危機。


「えっ!?」


 僕が気付いた時には、既に遅かった。

 僕達の目の前に、3mを超える巨大な熊が走りながら現れたのだ。

 どうやら熊は四本足で勢い良く森の中を駆けて来たようだ。

 熊が通った道は草や枝をなぎ倒し、森が左右に掻き分けられていたのだから。

 それも、僕達が全力で逃げ出しても間に合わない速さでだ。


「何で、こ!?」


 僕は、不意に驚きの声を上げた。

 だが、その言葉は全部言い切る前に遮られてしまった。

 熊が、森の中を駆けて来たその勢いのままに、僕に体当たりをして跳ね飛ばしたのだから。


「がはっ?」


 僕の身体からは言葉が、声にならない音が漏れていた。

 それは内臓を圧迫され、肺から空気が溢れる音。

 もしも、車に跳ねられたら、このような衝撃を受けるのだろうと頭の中を過ぎった。

 その突進された痛みは、僕の表面(胸)から裏面(背中)を突き抜け、アバラにヒビが入り内臓が潰されてしまった。

 胃の方から口に向かって、勝手に血が込み上げて来る。

 その苦い鉄の味が喉元を通る時、呼吸がし辛くて、とても苦しいものだった。

 痛みと言う痛みが、僕の感覚全てを支配していたのだから。


「ルシウス!!」


 さくらの悲痛な叫びがこだましていた。

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