064 国

「今日から、あなたの名前は、ルシウスです」


 この世界の僕の母親、アナスターシアが僕に命名してくれた名前だ。

 その時の優しい微笑みは、時が経った今でも鮮明に記憶している。

 僕が文字でしか知らなかった聖母と言う言葉。

 それは、アナスターシアがそうなのではと感じてしまう程に。


(お母様...アナスターシアさん...アナスターシア様...やはり、僕の立場を考えると、一番しっくり来るのはアナスターシア様になるのかな?...本人はそう呼ばれる事を嫌がるんだけどさ)


 見ず知らずの赤児を拾い、本当の母親のように接してくれるその姿。

 それも僕だけでは無く、他の親のいない孤児達全員に対してだ。

 教会とは別に増設されている孤児院で、全員の面倒を見てくれていた。


(でも、僕だけアナスターシア様と同じ部屋で住まわせて貰っているのは何でなんだろう?...それに教会だって、裕福な訳じゃ無いのにさ...)


 教会は、決して裕福では無い。

 だと言うのにだ。

 打算の無い無償の愛を僕達に施してくれている。

 転生前の世界では、孤児や孤児院に対して国からの補助金が出ていた。

 僕が関わった施設では、そのお金目当てで孤児を預かる事が殆どで、このように孤児達を分け隔てなく育ててくれる事なんて稀な事だった。

 何故なら、生活を(させる)して行くには、お金が掛かるからだ。

 それも孤児の人数に合わせて、必要金額が倍々と増えて。

 だが、きっと。

 その打算有り気で無ければ、施設そのものを維持する事が出来無いのだから仕方無い事なのだろう。

 全員が全員、お金(稼ぎ)を生み出せる訳では無いのだから。


(聖母と言う言葉を表す人物は、ああいう人の事を言うんだろうな...感謝してもしきれないよ...僕が、アナスターシア様から受けた恩に対して、お返し出来る事って何だろうか?)


 僕はまだ5歳で、世間から見ればただの子供。

 だが、僕には転生前の記憶と、プロネーシスの記憶(情報)がある。

 プロネーシスは転生前の世界の情報全てに、ゲーム世界であったラグナロクRagnarφkの情報を全て記憶している。

 転生前の世界の情報は、ネットワークを通じて世界各国の情勢から軍事に医療、生活から趣味嗜好に至るまで、幅広くその全てをだ。

 ラグナロクRagnarφkに関しては、ゲームのシステムから、アイテム、武器、魔法、戦技(アーツ)、スキル、魔物の詳細データと、現実化するまでの世界の情報全てをだ。


(僕とプロネーシスが持ち得る情報を駆使すれば、この世界を思い通りにする事だって出来るだろうし...)


 正直、情報を独占しているだけで自分の思い通りの世界を創る事が出来るだろう。

 情報を活用すれば、僕の意のままに相手を誘導する事、操る事が簡単に出来るのだから。

 相手が困っている事を、僕達が記憶している情報で解決したら?

 相手が望んでいる事を、僕達が記憶している情報で提供したら?

 この世界に有効な資源を、先駆けて独占したら?

 そして、世界の市場を、その全てを僕が独占したら?

 このように情報を制すれば、一国の王にも、世界の支配者にも、なる事が出来るだろう。

 だが、僕が目指す理想は困っている人を助ける英雄だ。

 テレビや漫画、映画などで活躍している主人公のように、弱きを助け強きを挫く、そんな英雄なのだ。

 だからこそ僕は今、教会の役に立てるようにと、この世界を知る為に勉強をしていた。


「プロネーシス?聖典によると、この世界は、九柱の大神によって支えられているって書いてあるけど、これだとゲーム時代から変わっているよね?」

『はい。マスター。ゲーム時代は主神オーディンを筆頭に、アース神族が統治していた世界でした。ですが、聖典によりますと、この世界は、“白の女神ヴァイスエイル”。“黒の神シュヴァルツヴァーリ”。“火の神ファイソール”。“水の女神ヴァッサニョルズ”。“風の女神ヴィンダールヴ”。“土の神フレイラント”。“時の女神ツァイトヴァーレ”。“空間の神フォルセラオムティ”。“生命の女神エイレーベンフレイヤ”。この九柱の大神が世界を支えているそうです』


 僕が読んでいる聖典の内容はこうなっていた。

 “白の女神”と、“黒の神”が、お互いに別々の場所で同時に生まれた。

 その両方の神が惹かれ合うように、お互いに導かれて行く事で、触れ合って混じった結果、世界が創られた。

 その時一緒に生まれたのが、“時”、“空間”、“生命”の三柱の神。

 三柱の神が生まれた事で、世界に時が刻まれるようになり、世界の空間が広がり、世界に生命が誕生した。

 そして、世界に生命を維持する為に、“火”、“水”、“風”、“土”の四柱が、三柱の神によって生み出された。

 土の神が世界の基盤となる自然を作り、火の神がそれを成長させる。

 風の神が実りを与えて、水の神が休みを与える。

 これが四季と呼ばれる季節を生み出し、生まれて来る生命が誕生出来る環境を創った事が、世界の始まりなのだと。


「こういう話って、元の世界にもあったけど、聖典の内容は、この世界の始まりについての話だよね?これって...属性魔法が関連しているのかな?」


 聖典の内容から連想出来るのは、基本属性6種と特殊属性の3種。

 ただ、そうなると、「上位属性6種は何処に行ったのか?」と言う話だ。

 もっと細かく言うならば、精霊魔法や召喚魔法などの例外属性もあるのだけれども。


『はい。マスター。内容から推測致しますと、基本属性6種に、特殊属性3種が関係していると思われます』

「でも、この内容だと上位属性6種について記載が無いけど...」


 上位属性である、“炎”、“氷”、“雷”、“大地”、“光”、“闇”の6種。

 聖典に記載の無い、上位属性6種は知られていないのか?

 それとも、ワザと教えていないのか?

 それによってだいぶ意味合いが変わって来てしまう。

 知られていない場合は、そもそものこの世界の魔法レベルが低いと言う事。

 教えてない場合は、誰かが情報を食い止めていると言う事だ。


『申し訳ございません、マスター。現時点では解りかねます』


 そう。

 現時点では解らないのだ。

 プロネーシスが持っている記憶(情報)は、元の世界とゲーム時代までの情報。

 この現実化した世界(新しく生まれた世界)が、どれくらいの時が経っているのかすら僕達には解っていないのだから。


「少しでも情報を集めたいところだけど...正直、この国の事すら解ってないからね」

『はい。マスター。今現在の優先順位は、情報で宜しいかと思われます』


 僕は、魔力訓練や身体操作の訓練を毎日欠かさずに行っている。

 そのおかげか、確実に成長を遂げており、訓練については順調に進んでいると言えよう。

 だが、僕はこの世界の事をあまりにも知らなさ過ぎるのだ。

 かろうじて解っている事が、言語と文字ぐらいだ。

 どちらも、ドイツ語をベースとした全く新しいものになっていた。

 元の世界でもそうだが、国や地域によって、言語や文字、文明レベルの差があるものだ。


「ここが他の国や地域と比べて、文明の最低値なら?って考える事が出来るからだよね」

『はい。マスター。なにせこの世界には、魔力に魔法がある世界です。もし、私達の考えが違ったとしても、ゲーム時代から独自進化を果たしていても、おかしくありませんので』


 そう。

 情報を制する者は、支配者になる事が出来るのだ。

 もし、この世界に、既に支配者が誕生をしていたのなら、反対に情報を規制する事も容易いのだ。

 支配する側の何者かが、支配される側の優位を常に保つ事で、その地位を磐石にする訳だ。

 そして、この地域が支配される側の立場なら?

 そう考えれば、上位属性が知られていない事も、教えていない事も頷ける。

 まあ、可能性はゼロでは無いが、本当に、単純な話で、この世界の文明レベルそのものが低い事も考えられるけど。


「だね。それに今日は初めて、教会の外へと出る事が出来るから、そこで少しでも情報を集めておかないとね」


 今日は、アナスターシアと一緒に教会の外の街に出掛けるのだ。

 街に何をしに行くのかは聞かされていないのだが、ただ楽しみである事は変わらない。

 すると、教会の書物部屋で聖典を読んでいる僕の下に、アナスターシアの従者であるメリルが、わざわざ迎えに来てくれた。


「ルシウス、待たせたな。アナスターシア様の準備が出来たぞ」


 僕が初めてメリルを見た時は、成人をしたばかりの15歳。

 あれから5年の歳月が経ち、今では20歳になったところだ。

 ただ、メリルに関しては、そんなに見た目の変化が無い。

 身体は女性らしく曲線が増えた気がするけども。


「はい。メリル様。直ぐに参ります」


 僕は5歳になり、教会においての色無し(孤児)の状態から、灰色修道員見習いとなった。

 教会には、修道員としてランクが定められている。

 一番上が青色修道員。

 これは教会長である、アナスターシアだ。

 次に黒色修道員。

 教会には5名いるらしいが、未だに僕は、その5名の人物とちゃんとお会いした事が無い。

 次に灰色修道員。

 メリルとメリダが、このランクに該当する。

 次が灰色修道員見習い。

 僕と、さくらは、このランクに含まれているようだ。

 そして、最後が色無し。

 孤児院に住む孤児達の事だ。

 メリルは、僕の上のランクである灰色修道員。

 それも教会長の従者。

 灰色修道員の中でも優秀な人物でなければ、アナスターシアの従者に選ばれる事は無いのだ。

 そして、教会はバリバリの縦社会で上下関係が厳しくなっている。

 僕とメリルは一緒にアナスターシアの部屋へと向かうのだが、先にメリルが部屋へと入り、アナスターシアに報告を行う。


「お待たせ致しました、アナスターシア様。ルシウスを連れて参りました」


 この時。

 目下の者が目上の方へと挨拶を行う場合は、右足を地面に下ろして膝を着いた状態で左膝を立て、両手を胸の前で交差して、相手に自分が何も持っていない事を示さなければならない。

 こんな風に、教会には細かい取り決めがある為、少々面倒臭い事が多かった。


「ええ。メリル、ありがとう」


 それに対して、アナスターシアは丁寧に一礼をするのだが、何処かソワソワしている様子だ。

 心此処に在らずと言った感じか?

 僕はそれに続いて部屋へと入り、同じように挨拶を始めた。


「アナスターシア様。お待たせし...!?」

「ああ、ルシウス!待たせてごめんなさいね」


 アナスターシアは僕の挨拶を途中で遮り、人目を憚らずに抱き付いて来た。

 「ぐふっ!!」と声が漏れる程、衝撃が凄い。


「なっ!?アナスターシア様!!」


 咄嗟のその行動に驚くメリル。

 だが、瞬時に困ったように頭を抱えてその場で立ち止まった。


「お姉さま。ルシウスを前にした、アナスターシア様の前で何を言っても無駄ですわ」


 メリルの妹であるメリダが、呆れた表情でメリルに答えた。

 たぶん、この5年で一番変わったのは、メリダだろう。

 最初、僕が出会った頃は、まだ8歳だった。

 今は成長をして、13歳。

 身長も165cmまで伸びて、メリルにだいぶ肉迫していた。

 メリルと比べた時、自分の身長が小さい事がコンプレックスだったようだが、やはり姉妹と言ったところか?

 このまま成長を続ければ、メリルと同じくらいまで身長が伸びそうだ。

 ただ、メリルよりも身体付きは、より女性らしく成長を遂げていた。


「そうだったな。メリダ。こうなったアナスターシア様は止めようが無い...せめて、我々の前だけで済んでくれれば良いのだが...」


 メリルが額を押さえながら、天を仰いで何処か遠くを凝視めていた。

 教会には古いしきたりが蔓延している為、こう言った行為を快く思わない者も居るからだ。

 まあ、この教会にはそんな人物など居る訳が無いのだけれど。

 その当のアナスターシアはと言うと、謎に色気が増していた。

 相変わらず美しいままなのは変わらない。

 いや、増していると言った方が正しいのか?

 僕は、アナスターシアにちゃんとした年齢を聞いた事が無いので解らないが、見た目だけで言えば、メリルと、そう変わらない年齢に見える。

 この若さで教会長?と疑問は残るが、僕の恩人には変わり無いので、僕から年齢を聞く事が無かった。


「アナスターシア様。苦しいです...それに、メリル様達の前ですよ」


 アナスターシアに抱き締められている僕は、その豊満な胸に圧迫されていた。

 ボディラインはかなりの細めだと言うのに出るところは出て、引っ込むべきところは引き締まっていた。

 女性特有の丸みと柔らかさのある身体。

 この状態は、苦しいのは苦しいのだが、でも、この匂いは、とても落ち着くものだ。

 何故だろうか?

 石鹸やシャンプー、香水と言った物が無いと言うのに、清涼感のある甘い匂い。

 しかも、汗の臭いみたいな嫌な臭いが全くしない事が不思議だ。

 身体の至るところに体毛が全く無いからか?


「ルシウス。私は、あなたの母親ですよ。家族で抱き合って何が可笑しいのですか?」


 真剣な表情で、僕に語る。

 アナスターシアと僕は、“血の繋がりの無い”家族だ。

 それも、“僕を拾ってくれた”と言うだけで面倒を見てくれているだけの関係。

 だと言うのにだ。

 成り行きだから“仕方が無く”とは違って、しっかりと“愛情を持って”接してくれている。

 その行為の温かさ。

 気持ちの底から自然と温かくなる感情だ。

 現世では、決して感じる事の出来なかった“母親の愛情”。


「お母様...ありがとうございます」


 目頭が熱くなり、僕の知らず知らずの内に感情が零れていた。

 ああ。

 そうなんだ。

 ただただ、嬉しい時にも涙は出るんだな。


「...では、アナスターシア様にルシウス。そろそろ参りましょうか?」


 メリルが無粋な真似はせず、僕達の頃合を見て声を掛けて来た。

 主人の感情の機微に対応する事は、従者としての長い経験が無ければ決して無理な事だろう。

 僕はこの時、他人への思いやり、その絆と言うものを知った。


「あら?...もうですか?...ルシウス、ごめんなさいね。本当は一日中こうしていたいのだけれど...」


 アナスターシアが抱き締めていた力を解いて、僕と一緒に立ち上がった。

 僕が着ている服の地面に触れていた場所を「パンパン」と手で払い、その汚れを落としてくれて。

 僕の事なんて放っておけば良いのに、自分よりも先に汚れを払ってだ。


「そう言えば、ルシウスは、街に出掛けるのは初めてになるのかしら?」

「はい。アナスターシア様。とても楽しみでございます」

「もう。また、ルシウスは言葉を戻して...全く仕方ありませんね。ですが、教会の中では私の事は母と呼んで下さいね?」


 アナスターシアは、優しく微笑んでそう告げた。

 この教会には孤児院があり、僕以外にも母親の居ない子供は沢山居る。

 だが、決して僕だけを贔屓して、そう言っている訳では無い。

 アナスターシアは、孤児に対して全員の母親でいるのだ。

 誰に対しても分け隔て無く、皆に平等の愛情を持って。


(この人は、本当に凄いな。皆を照らしてくれる太陽のような人だ)


 “平等”。

 これが、どんなに難しい事か、僕は身を持って知っている。

 それは人には感情があるからだ。

 元の世界で、僕がいた施設では子供達の優劣によって大人の態度が違った。

 見た目が良いか、悪いか?

 痩せているか、太っているか?

 運動が出来るか、出来無いか?

 勉強が出来るか、出来無いか?

 先生に対しての態度が良いか、悪いか?

 言う事を聞くか、聞かないか?

 これ以外にも、どんな些細な事にも優劣を付けられて、それで判断をされてしまう。

 それがどんなに悪意がある事なのか?

 どんなに心を傷付けている事なのか?

 大人は気にも留めず、その本能のままに行動をしている。

 自分の利害だけを考えて。


(人は醜い...それは...僕も同じか)


 自分が生きる為に、今の環境を最大限利用している。

 人の善意に甘えている。

 態度には出さないが、僕だって自分の事だけで精一杯で、他人を気にしている余裕など無い。

 現に、他の孤児の子に対して、全くの無関心なのだから。

 僕が成長をする過程で、孤児院の子達は、既に何人か死んでいるみたいだ。

 僕はその亡くなった原因すら知らない。

 いや、知ろうともしないのだ。

 自分が生きる事には必死なのに、他人の生き死には関心すら持っていない。

 流石に、見知っているアナスターシア、メリルにメリダ、アプロディアと、さくらに対しては別になるのだが、知らない人物に対しては、とことん無関心なのだ。

 万人を助ける事が出来る、英雄になりたいと言うのにだ。

 だが、これには少なからず思う事があって、僕自身に能力が備わっていなければ英雄になる事が出来無いと考えているからだ。

 だが、それも今日この時までの考えだ。


(...変わらなきゃ。英雄になる為に、心から)


 アナスターシアの心意気に触れ、僕は新たに決意を胸に刻んだ。

 英雄になる為の能力だけでは無く、心もそうなるのだと。


「はい...お母様。ですが、メリル様にメリダ様をお待たせしております。そろそろ街へと参りましょう」


 そうして僕達は、教会の外に出て街へと出掛けて行く。

 結局、その目的は解らずじまいだったが、少しでもこの世界の事を知れると思い、気持ちが舞い上がっている事は確かだ。

 ただ、街までは結構な距離がある筈なのに、馬車などの移動設備は無く、歩いて目的地まで向かうみたいだ。


(馬車が...移動手段そのものがまだ無い世界なのか?)


 僕達が目指す目的地の街は、教会から5km程離れた場所にあった。

 標高の高い所から平地に降りて行く道で、ようやくその全貌が見えた。


「わあ!おおきい街ですね!」


 僕は、街の規模を見て驚く。

 教会の生活環境から考えれば、街の発展は、あまり期待出来るものでは無かったからだ。

 皆が街と言っていたが、僕の中では田舎の町レベル。

 もしくは、村レベルだと思っていた。

 だが、確かに此処は街だった。

 その街は、分厚い外壁で囲まれた長方形の形で造られていた。

 しかも、街の中の区画がきっちりと整備されており、実際は違うのかも知れないけれど、住み分けがしっかりと出来ていそうに見えた。

 すると、アナスターシアが僕の方を見て口を開いた。


「あそこが、この領地の領都、イータフェストです」

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