第三章 猫耳コンプレックス 3

「ふぅ」

 トオルは用意された湯船の中で重くなったお腹をさすった。

 ――ムリして食べなきゃ良かった

 三人分の夕食を完食したため……正直、息をするのもしんどかった。

 保子莉と一緒に地球に戻った後のこと。

「はい。あーんしてくださいなぁ。ほら、あーん」

 右手にスプーン。左手に箸を持ち、トオルの口にせっせと食事を運ぶクレアに、保子莉があきれかえっていた。

「まるで雛鳥が、親鳥に餌を与えておるみたいじゃのぉ」

 男子高校生が幼児からご飯のほどこしを受けていれば、そう見られてもおかしくないだろう。もっともこの場合、体の小さいホオジロがカッコウの雛に餌を運んでいると言ったほうが正解かもしれない。

「たくさん作りましたのでぇ、遠慮しないでぇ、いっぱいいっぱい食べてくださいねぇ」

 腕によりをかけたというだけあって、どれもこれも文句なしにおいしかったのだが……問題は加減を知らぬその量だった。ちゃぶ台の上に所狭しと並べられた手料理。しかも、どのおかずもテレビの大食い大会で観るようなてんこ盛り状態。きっとふたりとも大食いなのだろうと思っていたのだが、いざ食べる段階になってみれば保子莉はちょこちょこと摘まむ程度の少食家で、クレアにいたってはまったく手を付けないでいた。訊けば、なんでも料理中に味見をしてしまい、すでに満腹状態とのこと。結局、出された料理のほとんどをトオルひとりで食べる羽目となってしまったのだ。

「甘くて美味しいのぉ」「ですよねぇ♪」

 食後のアイスクリームに舌鼓を打つふたりを尻目に、ちゃぶ台の足下でだらしなく横たわっていたのが、つい先ほどのことである。

 お腹いっぱいでもう食べられない。と正直に言うべきだったのだろうか。でもクレアの喜ぶ顔を見てしまうと、言い出しづらいのも事実だった。

 ――しかし、この体……本当に義体なんだろうか?

 満腹感や消化具合を含め、普通の体となんら変わりないのだ。それだけに宇宙人の医療技術は相当進んでいると考えていいだろう。そんな、かりそめの体に感心していると、浴室の扉が景気良く開いた。

「トオルさまぁ。お背中、お流しいたしますですよ♪」

 予告なしに突撃してきた素っ裸の幼女。色気のないその子供に、トオルが驚くこともしないでいると……

「あれぇ? リアクション薄いですねぇ?」

 つまらなそうな顔をして小首を傾げるクレア。小学生くらいまで妹の智花も同様のことをしていたのだ。ゆえに今更、未発達な子供が乱入してきたところで珍しくもなんともない。

「ふーん、そうだったんですかぁ」

 幼女は気のない受け答えをしながら、バスタブの縁を跨いで狭い湯船に足を浸け入れた。

「うーん。気持ちいいですぅ♪」

 トオルの胸に背中を預け、手足を伸ばしてリラックスするクレア。トオルもそんな不安定な幼女の体を支えながら、妹と一緒に入浴していた子供の頃の思い出を重ねた。常にアヒルのオモチャを持ち込み、ひとり芝居ならぬアヒルごっこをして遊んでいたっけ。と当時を懐かしむトオル。……が、幼女の小さな手に握られているモノに目が奪われた。

「クレア。えーと、それはいったいなにかな?」

「エヘヘ。ご覧のとおりぃ、携帯端末ですよぉ」

 と天使のような微笑みで応える幼女。しかし、なぜ風呂場に宇宙人御用達の万能端末を持ち込んでくる必要があるのだろうか。保険業務における執務のためか、それとも習慣的にいつも持ち歩いているだけなのか。

 どちらかと言えばアヒルのオモチャのほうが、お似合いだろう。と考えていると幼女が「うふっ」と小悪魔のような笑みを浮かべた。

「どうしたの、クレア?」

「トオルさまがぁ、喜ぶもの見せてあげますですよぉ」

 と幼女が端末画面をクリックした刹那。目映い閃光が放たれ、バスルーム全体を薄桃色に染めた。

 ――まさかフォームチェンジ? こんなところで?

 気づいたときにはすでに遅く、幼女と入れ替わるようにして一糸まとわぬ呉羽副担任が顕現した。不意打ち同然の悩殺フォームチェンジ。直に触れる女性の裸体。肌を通し、男とは造りの違う扇情的な肉体を感じた瞬間、義体の心拍数が一気に跳ね上がった。

「ちょ、ちょっとクレア!」

 溢れかえる湯船の中で副担任の豊満な体を抱えてパニくっていると、クレアがトオルの両手を取り、自らの胸に押し当てた。

「へっ?」

 柔らかい感触が手の中でポワンっと弾んだ。大きさの違いはあれども男の誰もが憧れ求める異性の胸。もちろんトオルも、そのひとりだったが……本人の意思とは関係なく、義体がガクガクと大きく痙攣し始めた。一気に頭に上っていく血流。激しい鼓動は耳鳴りとともに、頭の中を容赦なくガンガンと打ち鳴らす。

 ――ヤバイヤバイヤバイっ!

 息苦しいまでの体の変調に、命の危険を感じた。同時に大量の鼻血をぶちまけ、クレアの背中を真っ赤に染めた。

 ――なんとかしなくちゃ!

 慌てて鼻を押さえた。……が、鼻血は収まらず、次第に視界が黒く霞んでいく。

「トオルさまぁ? トオルさまぁぁ……」

 血だらけになったクレアの呼びかけに、トオルは応えることもできないまま、薄れゆく意識とともに血の池と化した湯船に沈んでいった。


 目覚めると、そこは見覚えのない部屋だった。

 天井からぶら下がる和風造りの蛍光灯は消され、オレンジ色の常夜灯のみがポツンと点いていた。

 ――どこ、ここ?

 お日様の匂いが仄かに残る敷き布団と掛けられたタオルケット。着ているTシャツと下着以外は見覚えのないものだった。

 ――なんで僕は寝てるんだっけ?

 鼻孔に残る血の匂いが、うつろだった意識を呼び起こす。

 ――そうだ。お風呂で鼻血を出したんだっけ

 しかし出血後のことは、まるで記憶がなかった。

「気が付いたか?」

 不意に掛けられた声に枕元を見れば、保子莉が団扇でトオルのことをあおいでいた。トオルは薄暗い部屋を見渡し……そして、ここが保子莉宅の客間だということを知った。

 ――とにかく、起きなきゃ

 理由はともかく、人様の家でだらしなく寝ているわけにはいかない。と上半身を起こそうとした途端、平衡感覚を失う酔いに襲われた。

「今は起きれる状態ではないのじゃから、そのままおとなしく寝ておれ」

 トオルは「うん」とだけ応え、フカフカの羽毛枕に頭を預けたまま、入浴中に起きた異変を訊ねた。

「どうやら、おぬしの極度な興奮状態が義体に伝達され、義体の制御が効かなくなったとクレアから聞いておる。その影響で血圧上昇に伴い、血流量が増加したようじゃ。しかも熱い湯船という悪条件も加わって大量の鼻血を出し、そのまま急性貧血になって倒れこんでしまったようじゃ」

 そして、さらに怖いことを付け加える。

「まだ鼻血を出していたから良かったものの、もしそうでなければ、行き場を失った血液が脳を圧迫し、脳内出血を起こして本当に死んでしまうところじゃった。もしそのような惨事になっておったら、我ら宇宙人でも蘇らせることはできんのでな、正直、事情を聞かされたときには、流石のわらわも肝が冷えたわい」

 まかり間違えば命を落としかねなかったことを知らされ、トオルも身震いした。

「……それでクレアは?」

「ひとりで勝手に滅入って、一階でしょげておる」

 いつも陽気で渾身的なクレアが落ち込んでいるのだから、相当ショックだったのだろう。

「それって、もしかして僕のことを気に病んで?」

「最初はな。しかし脳に異常がないと安心した途端、今度は自分のやらかしたことを悔やんでオロオロと泣いておったわい。まぁ明日になればケロッと忘れておるじゃろうから、そんなに気にせんでも良い。それよりもわらわとしては、おぬしにも原因があったと思っておるのじゃが?」

 その指摘にトオルは自身の耳を疑った。特に問題があったようには思えないのだが。

「僕のどこに?」

「うーん……こういうことを言うのも筋違いかもしれんが、少しクレアに振り回されすぎてはおらぬか? あやつの場合、ハッキリ言わんと、ずーっとあの調子じゃぞ。極端じゃが、自分中心に世界が回っていると言っても良いくらいの性格じゃからのぉ」

 猫目を光らして苦笑する保子莉に、トオルは否定することができなかった。

 断ることも叱ることもできない自分の性格。曖昧で流されやすく優柔不断。こればかりは今すぐというわけにもいかず、どうしようもないことだと諦めていた。

 そんなことをたどたどしく口にすると、保子莉が深いため息を吐いた。

「どうしておぬしはいつもそうやって後ろ向きなのじゃ? もっと前向きに物事を楽しんだらどうじゃ?」

「でも僕は地球人であって、宇宙人じゃないから、そんな風に振る舞えないし、考えられないよ」

「そうかのぉ? では訊くが、もし長二郎がクレアと一緒にお風呂に入っておったらどうじゃったかのぉ?」

 その引き合いに、トオルは押し黙るしかなかった。もし長二郎が同じ立場だったら、きっとクレアと一緒になって入浴を楽しんでいただろう。そのように比較してしまうと、自分がいかにネガティブ思考な人間なのかを知らされた。しかし、それは個人の性格差であり、こればかりはどうにもならない気がした。

「その様子では、またくだらぬことで悩んでおるようじゃな」

 猫の眼で見透かされてしまい、トオルはこれ以上、本心を悟られまいと片腕で顔を覆い隠した。

「それと、これは伏せておこうかと思っておったのじゃが、おぬし、川でクレアを助けたあと、死ぬつもりでおったらしいのぉ?」

 思わず呼吸が止まった。なぜ彼女がそのことを知っているのか。もしかしたら、あの日の夜、クレアに心を読まれたのかもしれない。

「クレアから聞かされた時には、正直、びっくりしたのじゃが……まさか、今でもそんな愚かなことを考えておるのではあるまいな?」

 腕を下ろして目を開ければ、保子莉の悲しげな顔が眼前にあった。その滲ませる哀傷に、胸がギュッと締めつけられた。

「いや、もう考えてないよ」

 それは嘘でもなく、また偽りでもなかった。あの時の自分は交通事故にあったどころか、義体の存在すら知らなかったのだから。

「そうか。まぁ、わらわもこれ以上、余計な詮索はせんが、人生は一度っ切りじゃ。何事も謳歌したほうが得じゃとだけ言っておくわい」

 その諭す言葉にトオルは頷くことも否定することもしなかった。同時にトオルは彼女が持ち続けていた猫耳コンプレックスを思い出した。

「ひとつ、訊きたいことがあるんだけど?」

「なんじゃ?」

「保子莉さんは、今まで生きてきて、なにか良いことあった?」

 すると彼女は団扇をあおぐ手を止めて……

「あったぞ。おぬしがわらわの耳を可愛いと褒めてくれたからのぉ。わらわは、それだけで充分幸せじゃ」

 灰色の猫耳を触って嬉しそうに微笑む保子莉に、トオルは自分の器の小ささを思い知らされ、目元を手のひらで覆い隠した。

 自分が素直に猫耳を可愛いと言ったことが、彼女にとっては笑みを浮かべるほど幸せなこととは思いもよらなかったからだ。そんな些細なことで前向きになれる保子莉に対し、自分はなんて後ろ向きでちっぽけな人間なんだろう。大人たちからすれば、おとなしく聞き分けの良い子供に違いない。しかし、それは同年代の少年少女たちからすれば存在感が薄く覇気のない人間なのだ。そしてそれと同じように保子莉からすれば、きっと自分はつまらない人間に映っているのかもしれない。そんな思いを巡らしていると、不意に保子莉が立ち上がった。

「さて、わらわもお風呂を頂くとするかのぉ。それと、おぬしの携帯から『長二郎の家に泊まる』と親御さんのほうにメールをしておいたから、今夜は気兼ねなくゆっくり休んでいくと良い。嫌なことや難しいことなどは全部忘れて、明日を迎え入れると良いじゃろう。それも前向きに進むことのひとつじゃて」

「……うん。ありがとう」

 自分の中で答えが出ていない以上、それしか言えなかった。

 その真意を確かめることなく、保子莉はおもむろに頷くと、静かに部屋を出ていった。

「もっと前向きにならなきゃ」と、トオルは自身の性格を見つめ直し、静かに瞼を閉じた。



 日付が変わった深夜。不意に部屋の蛍光灯がついた。

「なんでぇお嬢さまがぁ、トオルさまのお布団の中にいるんですかぁぁぁぁあ!」

 瞼を持ち上げれば、枕元で大きな羽毛枕を小脇に抱えた幼女とパジャマ姿の猫娘の姿があった。

「わらわは介抱のために、添い寝をしておっただけじゃ!」

「トオルさまの介抱は私がしますからぁ、お嬢さまはぁご自分の部屋にぃお戻りになってくださいなぁ!」

「い、や、じゃ! 今夜はここで寝たいのじゃ!」

 断固拒否する猫娘に、キーッと地団駄を踏んでナイトキャップをかなぐり捨てる幼女。その修羅場に、どうして良いのかわからないまま、いがみ合う二人の会話を聞けば……どうやら眠っているトオルの寝床に保子莉がこっそりと忍び込んで一緒に寝ていたらしいのだが、そこへ同じことを考えていたクレアが客間に潜入して布団に潜り込み、トオルを挟んだ川の字状態で保子莉と鉢合わせしてしまったようだ。

「お布団一枚でぇ三人は狭いんですからぁ、わがまま言わずに出て行ってくださいなぁ!」

「狭いのならば、クレアが出ていけば良かろう! 元々、わらわのほうが先におったのじゃから、おぬしにとやかく言われる筋合いはないぞ!」

 早い者勝ちを主張する猫娘に、幼女も負けじと張り合う。

「私のほうこそぉ、お嬢さまにぃ指図される覚えはありませんしぃ、添い寝する権利はあると思いますですぅ!」

 一歩も譲らず、真っ向から睨み合う二人。その目は真夜中にもかかわらずギンギンに冴え渡っていた。

 結局……二人の縄張り争いは朝方まで続き、寝ることもできないまま人生初の朝帰りをすることとなった。

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