第四章 奪還 1

 休み明けから数日後。

 ――困ったなぁ……

 数学のミニテストのプリントを凝視したまま、トオルは重いため息を漏らした。決して問題が難しいわけではない。その証拠に回答欄のすべてを埋め尽くし、見直しまで終わっている。

 ――どうやって一里塚さんを誘おうか

 保子莉と約束した勉強会。

 相手は成績優秀な委員長。それだけに何かしらのメリットがなければ、誘いにはのってくれないだろう。

 ――なにか、いい方法ないかなぁ

 と決め手となる口実を求め、無い知恵を絞りだそうとしていた。

「はい、そこまで。筆記用具を置いて答案用紙を前の者に回して」

 テスト終了を告げる教師の回収指示に、トオルは前席の長二郎に答案用紙を渡すと、授業そっちのけで窓の外を眺め見た。

 ――こんなことなら、あんな約束、するんじゃなかった

 刻一刻と迫る期日に焦りを感じていた。しかし、結局のところ具体的な大義名分が思い浮かばないまま、四限の終鈴が鳴ってしまった。

「ハラ減ったぁ。トオル、メシ食おうぜぇ」

 日課である長二郎の誘いに、トオルがお弁当を取り出していると、保子莉が巾着袋を片手に、隣の深月に声を掛けていた。

「のぉ、深月。たまには、わらわたちと昼を一緒にせぬか?」

 日頃から委員会出席か、もしくは仲の良い友達と昼休みを過ごすことが多い深月のことだ。保子莉が誘ったところで、きっと断られるだろう。

「うん。今日は予定も入ってないし、そうしようか」と気さくに応える深月。予想外の快諾。同性の誘いだからなのか、それともたまたまなのか。

「と言うことで、トオル、長二郎。参るぞ」

 まるで付き人のように命令する保子莉。もちろんトオルたちもいつものことなので気にすることもなく、保子莉たちと教室を後にした。

 好きな人と過ごす初めてのランチタイム。会話はもちろんのこと、彼女が手にするお弁当の中身など、気になることがいっぱいだった。

「このあたりが良いじゃろ」

 晴れ渡る青空の下、屋上の昇降口脇を陣取って猫柄レジャーシートを広げる保子莉。その上を、上履きを脱いで腰を降ろすトオルたち。右に長二郎、左に保子莉。そして正面に深月が座る形となった。こうなるとお弁当よりも、深月ばかり目がいってしまう。

 ――一里塚さんと一緒に食事ができるなんて、僕はなんて幸せなんだろう

 と、白米の甘みとささやかな幸せを噛みしめ、箸を動かしていると……

「しかし、今日も暑いのぉ」

 フォークで無印缶詰の具を突き刺して、だらしなく舌を出す保子莉に害されてしまった。

「確かに今年は暑いよね。もしかして保子莉さん、暑いの苦手なの?」

 ミニハンバーグに箸をつける深月に、保子莉が口に入れた具を咀嚼しながら答える。

「今日のような夏日になると、ちょっと苦手じゃな。ましてや真夏などは体が溶けるんじゃないかと錯覚するくらいじゃ」

「それはいくらなんでも大袈裟過ぎだよ」と笑い……

「私は、夏、大好きだけどね」

「おや。委員長らしからぬ発言じゃのぉ」

「委員長とか関係ないよ。そもそも夏の風物詩と言えば、海水浴とか夏祭りとかイベント盛りだくさんじゃない。正直、今から楽しみだよ」

「海のぉ……。確か、塩味のする大きい湖と聞いてはおるがのぉ」

 フォークの先を咥えながら呟く保子莉に、全員が驚いた。

「まさかと思うけど、保子莉さんって海に行ったことがないの?」

 目を丸くして訊ねる深月に、保子莉が恥ずかしそうに目を泳がせた。

「内陸育ちじゃったし、それに海水浴場は芋洗いのように混み合うと聞いておるぞ」

「うーん、まぁ、場所によっては混んでるよねぇ。そっかぁ、海を知らないんだ」

 と深月は不憫な眼差しを向けて一考した後……

「そうだ! いい場所があるんだけど、今年の夏、みんなでそこに行ってみない? もちろん、人もほとんどいない穴場の海水浴場だよ」

 目を輝かせ、同意を求める深月。当然のことながらトオルに断る理由などあるはずもなく、仮に予定があったとしても、すべてキャンセルだ。

 ――一里塚さんと海かぁ

 浜辺で深月と肩を寄せ合う夏の夕暮れ時。波の音に耳を傾けながら愛を囁き、キスを交わすふたり。

 ――そんなことになったら、いいなあ

 リアリティーの薄い願望を想像をしていると、隣でも妄想を繰り広げていた。

「クレアたんと海かぁ」と長二郎が虚空を見上げて感極まっていた。きっと白い砂浜で、幼女と戯れている妄想でもしているのだろう。

 そして夢想から現実に戻った長二郎が、快諾のひと声を張り上げた。

「行こう! いや、死んでも絶対に行くべきだ!」

 死ぬのはともかく、反対する理由などひとつもない。しかし……

「いや、今のままではダメじゃ」

 浮かない顔をして水を差す保子莉に、三人の表情がどんよりと曇った。

「なにがダメなの?」

 落胆する深月の問いに、保子莉が空になった缶詰の底に視線を落とした。

「実は恥ずかしい話、今日のミニテストの出来が悪くてのぉ。半分以上白紙で提出してしまったのじゃ。ゆえに、このままでは夏休み前の期末試験も危なげでのぉ、赤点の可能性も否めんのじゃ」

 沈んだ表情でダメ出しする保子莉に、トオルは持っていた箸をポロリと落とした。

 彼女の期末試験の結果が赤点では、必然的に追試を受けることになるだろう。しかもミニテストを白紙同然で提出するほどの低学力。それだけに追試のクリアは難しく、当然、夏休みに行われる補習も免れない。そうなれば海など行っている暇など無く、深月の誘いも台無しになってしまう。一瞬にして企画倒れになってしまった夏休みの計画に、長二郎が食べ欠けのおにぎりを握り潰し、指の隙間からツナマヨをひねり出した。

「待望の水着回を潰させてなるものかぁぁっ! ゆえに追試は絶対に許さんぞぉ! 保子莉ちゃんには死ぬ気で赤点を阻止してもらわねばならん! いざとなったらカンニングも辞さない覚悟でやってもらうかんな!」

 意味不明の『水着回』はともかく、保子莉が行けないとなれば、クレアも同行しない可能性が高いのだ。それだけにトオルも力一杯賛同の拍手を送っていると、深月が保子莉の手を取って向き合った。

「男二人は放っておいていいよ。そんなことよりも、保子莉さんって勉強ついていけてないの? 少なくとも授業をちゃんと聞いていれば、問題ないはずなんだけど?」

 私立の進学校ゆえ、授業カリキュラムが組まれているのだから当然のことだった。しかし……

「わらわも、そう思っておったのじゃが……」

 眉根を寄せてトオルを一瞥する保子莉。その目配せにトオルはすぐに彼女の意図を汲み取った。どうやらこのタイミングで勉強会の話を切り出せということらしい。もちろんトオルも、そのチャンスを逃すはずはなく、意を決して便乗する。

「だ、だったら、み、みんなで勉強会をしたら、ど、ど、どうかな?」

 自信のない発案だった。だが意外なところから支援の声が上がった。

「それ、いいな! と、言うことでみんなで勉強会をやろうぜ!」

 膝詰めでにじり寄る長二郎に、保子莉と深月が後ずさる。

「それって、私も出なきゃダメの?」

 不参加を前提とする深月に、長二郎が目を血走らせ、なおも迫る。

「俺たちの中で、勉強を教えられるのはボブ子しかいないんだ!」

「まぁ、言われてみれば確かにそうかもね。あなた達、テストはできても、人に教えられるようなタイプじゃなさそうだし……」

 悪意のない率直な意見だった。

「じゃあ、参加してくれるんだな?」

「それが人にお願いする態度かしら?」

 意地悪な笑顔を浮かべる深月に、トオルと長二郎がすかさず土下座を決め込んだのは言うまでもない。

「一里塚深月様! 是非とも御参加のほどを!」

 恥も外聞もかなぐり捨て、頭を下げて拝み倒す男二人……が、そこで長二郎が余計な一言を付け足した。

「おバカな保子莉ちゃんのために!」

 すると保子莉はおもむろに立ち上がり、長二郎の後頭部に足を乗せ、グリグリと押し捻る。

「そうじゃ。わらわは貴様に頭を下げてもらわんと、お勉強ひとつ満足にできんおバカさんじゃからのぉ。ほれほれ、まだ頭(ず)が高いぞ。もっと誠意を込めて深月に頭を下げんか」

 猫柄レジャーシートが捩れて渦巻くその屈辱的な仕打ちに、長二郎がワナワナと肩を振るわせていた。

「ど、どうか……どうかお願いしますっ!」

 どうやらプライドよりも、クレアとの海水浴のほうが勝ったらしい。その証拠に、ググッと涙を滲ませていた。

 結局、その甲斐あってか勉強会における深月の参加も決定し、場所も日時も保子莉の計画通り、トントン拍子に決まったのだった。


 放課後。

 深月は委員会の出席。長二郎は校則違反を犯して職員室へ出頭。そのためトオルは保子莉と二人だけで帰宅することとなった。

「でも数学が苦手だったなんて意外だったよ。宇宙では数学の勉強とかしないの?」

 土手沿いの遊歩道を歩きながら昼休みの話題を投げかけると、不意に保子莉の歩みが止まった。

「おぬし、もしかして本気でわらわが、おバカさんだと思っておるのではあるまいのぉ?」

「そうは思ってはいないけれど、ただ頭のいい保子莉さんらしくないから」

「あのような問題など幼稚園のときに、お遊戯ついでに習ったものじゃ。ちなみに言うておくが、わらわは常に花まる二重丸じゃったぞ」

 誇らしげに話すところをみると、あながち嘘ではないようである。

「じゃあ、なんで白紙で提出するような真似をしたのさ?」

「おぬしがいつまで経っても深月を誘わんからに決まっておろう。だから、わらわが恥を晒してきっかけを作ったのじゃ。それに明日の授業で戻ってくる答案が満点じゃと、折角の勉強会という計画が台無しじゃろ」

 全ては筋書き通り。そんな彼女の企てに、トオルは頭が下がる思いだった。

 ――僕なんかのために、そこまでして

「保子莉さん。そのぉ……ありがとう」

「礼なら深月との仲が進展してから言って欲しいものじゃ」

 そう言って、彼女は再び歩き始め……

「それからのぉ、夏休みの海水浴の件じゃが、わらわは一緒には行けんぞ」

 唐突に告げられたその言葉に、トオルは歩みを止めた。自ら劣等生を演じ、勉強会までするというのに、今さら海水浴の不参加とはどういうことなのだろうか。まさか地球の海水が宇宙人の体質に合わず、死にいたってしまうのだろうか。そんなことを真面目に聞いてみると、保子莉が黒髪を靡かせ、肩越しに苦笑した。

「縁起でもないことを申すな。地球の海に入ったところで何の問題はないわい。ただ単に夏休みまで地球におれんだけの話じゃ。この星は惑星保護区域に指定されておってな、特別な申請もなしに長いこと地球に留まっておると、惑星保護団体から目を付けられてしまうのじゃ。そうなると仕事にも支障をきたすのでな、長居もしておれぬのじゃ。それに今回の長期に渡る滞在目的の申請はコスモ・ダイレクト社による被害者への対応という内容でのぉ。よって、おぬしの体を元通りにした暁には一旦、地球を離れなければならんのじゃ」

 その就労ビザのような説明に、トオルは呆然と立ち尽くした。深月との仲を取りもって勉強会まで企画してくれたのに、夏休みには肝心な立役者がいなくなってしまうのだ。もっとも、それはそれで本来あるべき日常生活に戻るだけの話。……なのに、どうしても釈然としなかった。

「わらわの言っている意味が解らぬか?」

 心配そうに顔を覗き込む保子莉に、トオルは首を横に振った。

 理解はできているつもりだった。気になるのは今後……つまり二度と彼女と会えなくなるということなのだ。交通事故の件はともかく、こうして出会ったのも何かの縁だ。このまま永遠に別れてしまうには、あまりにも切な過ぎる。

「大丈夫じゃ。仕事で立ち寄った際には必ずおぬしの顔を見に来るから、そんなに気落ちするでない。それとも、わらわがおらぬと何もできんというわけではあるまい?」

「も、もちろんさ。大丈夫だよ」

 そう言うしかなかった。多少の不安はあれど、いつまでも彼女の手解きを受け続けているわけにもいかないのだ。

「うむ、そう言ってもらわんと困るでな。さすがにわらわとて、おぬしたちのデートの面倒までみきれんしのぉ。まぁ、そう言うわけじゃから、海水浴はおぬしらだけで楽しんでくると良い」

 慈愛に満ちた表情をして言う彼女に、トオルも「そうするよ」と頷くしかなかった。名残惜しいことだが、この出会いは忘れることのできない思い出となるのだろう。

「ありがとう。保子莉さん」

 と、もう一度、心の底から感謝するトオルだった。



「ほうほう。なんじゃ、簡単ではないか」

「そうだよ。数学は公式を覚えてしまえば、自ずと答えが導き出されるから簡単なんだよ。それじゃあ、次はこの問題を解いてみようか」

 週末の勉強会当日。

 居間の丸ちゃぶ台を囲んで保子莉に勉強を教える深月。もちろん闇雲に教えるのではなく、相手の理解のほどを確認しながら進めていく勉強法。その優秀な指導っぷりに、トオルが感心していると保子莉も同様の感想を口にする。

「深月は教えるのが上手じゃのぉ」

「上手ってことはないよ。ただ普段から弟の勉強を見ているからね。たぶんそのせいじゃないかな」

 ――弟がいたんだ

 とっておきの新情報に、トオルは焦りを感じた。

 いつかは彼女の弟と顔を合わせることになるだろうし、姉の彼氏が低学力では格好が悪く示しがつかないだろう。そんな未来像にあおられるように、気合いを入れて勉強に打ち込むトオル。ちなみに長二郎と言えば、まるで漫画を読むかのように床に寝そべって教科書を眺め見ているだけ。これで成績が良いのだから、筆記用具とノートを使って必死に勉強しているトオルとしては納得がいかなかった。

 やがて副担任のクレアが帰宅し、夕食の準備に取り掛かり始めた頃、保子莉がシャーペンを置いた。

「ところで深月よ。もし今夜、用事がないのであれば、今日はうちに泊まっていかぬか?」

 保子莉の誘いに、トオルの耳がピクリと動く。深月を見やれば、虚空を見上げて勘案していた。

 ――泊まっていくのか? それとも帰るのか?

 彼女の返答次第によっては、トオルも覚悟を決め、今夜の内に親睦を深めなければならないのだ。それだけに返事を聞き漏らすわけにはいかなかった。

「特にこれといった用事はないけれど。うーん……どうしようかなぁ?」

 深月が悩んでいると、割烹着を羽織った呉羽副担任が、流し台越しに顔を覗かせた。

「深月さん、別に無理しなくてもぉいいですからねぇ。でもぉ私の作ったご飯は食べていって欲しいかなぁ。とぉっても美味しいんですよぉ。ねっ、トオルさまぁ♪」

 これ見よがしに手料理を自慢するクレア。すると深月の返事を待たずして、長二郎が威勢良く手を上げた。

「クレアたん! 俺、泊まってくぅ! 一生、家に帰らなくても問題ないから安心してくれ!」

「いや、おぬしに居座られては迷惑じゃから、是非ともお帰り願いたいのじゃがのぉ」

 宿泊希望を申し出る長二郎と露骨に嫌がる保子莉の二人を見ながら、深月が言う。

「とりあえず夕食にお呼ばれするとして、泊まっていくかどうかは、お母さんに聞いてみるよ」

 深月は保子莉に耳打ちして、いくつかの言葉を交わすと、白いケースのついたスマートフォンを持って、廊下へと出ていった。

 果たして母親から外泊の許可が降りるのか、それとも帰宅を促されるのだろうか。

 ――どっちかな?

 仮に許しが出ないとしても、トオルには駅まで送り届ける役目があるだけに、どっちに転んでも失敗のないよう心掛ける必要があった。そんなことを考えていると、クレアが出来上がったばかりの料理を運び始めた。

「はーい、みなさーん。お料理が参りますからぁ、勉強道具をしまってくださいなぁ」

 3人がちゃぶ台の上を片付けると、入れ替わるようにしてクレア自慢の手料理が並べられていく。

「どれも美味しそうじゃのぉ。ところでクレアよ。深月が戻る前に聞いておきたいのじゃが、深月はトオルに対して脈ありなのか?」

「それがどういうわけかぁ、まったくぅあの子の心が読めないんですよねぇ」

 本人が退席していることを良いことに、あからさまな会話をする2人。もし本人に聞かれでもしたら、どうするつもりなのだろうか。と思いつつも、トオル自身も関わる大事なことだけに、つい耳を傾けてしまう。

「本当じゃろうな? おぬしの先ほどの横槍な言い草からして、疑わしくも思えるのじゃがのぉ?」

「別にあのくらいいいじゃないですかぁ。でもぉ心が読めないのは本当なんですよぉ」

「ほぉ。クレハ星人の読心能力にも相性があると耳にしたことはあったが、どうやらその類かのぉ?」

「うーん、それとはちょっと違うんですよねぇ。なんて言うかぁ、そのぉ何かに阻まれているって言うかぁ……」

 結局、良く分かりませんですぅと、追求する気のないクレアだったが、トオルとしては深月の心情が気になって仕方がなかった。

 そんな時だった。

 不意にどこからともなく聞き慣れない電子音が鳴り響いた。

「もぉ。こんな時にぃ、いったい、なんなんですかぁ?」

 クレアは割烹着のポケットから万能端末を取り出し、画面に見入って首を傾げた。

「あれぇ、変ですねぇ? そんなはずはないんですけどぉ?」

「どうしたのじゃ? 何か問題でも起きたのか?」

「えぇ、実はトオルさまの再生中のお体なんですがぁ……」

 何とも歯切れの悪い物言いに、保子莉が訝しげに眉根を寄せた。

「自己覚醒をするようなぁ設定をしていないのにぃ、医療カプセルを壊してぇ逃げ出したみたいなんですけどぉ……」

 眉を八の字にして悩むクレアに、保子莉が手のひらを仰いで笑った。

「そんなことがあるはずなかろう。仮に目覚めたとしても、トオルの再生体じゃぞ。医療機器を破壊できるような腕力など持ち合わせておらぬはずじゃ」

「そうですわよねぇ」

 呑気に笑う宇宙人二人に、医療状況を知らない長二郎までが便乗して笑っていた。

「な、なんだよ。みんなして僕のことを貧弱みたいに言ってさ」

 確かに体の線は細めだが、これでも人並みに力はあるつもりなのだ。そんな周りの酷評にトオルが不満を募らせていると、突然ドンッと家全体が激しく揺れた。その地震とは異なる揺れ方に、保子莉が訝しむ。

「まさかとは思うが……」

「もしかしてぇ、その、まさかかもしれませんねぇ」

 ただならぬ静寂が満たす中、今度は深月の悲鳴が家中に響き渡った。

「一里塚さん?」

「トオル、行くぞ!」

 迷いのない長二郎の掛け声に、トオルも反射的に腰を持ち上げた。しかし……

「動くでない!」

 保子莉の制止にトオルは声を荒げた。

「なんでさ? 一里塚さんの身に何かが起きたかもしれないのに、なんで止めるのさ?」

「駆けつけたい気持ちは良く分かる。じゃが、おぬしら地球人では手に負えぬ不測の事態が発生している可能性が大いにあるのじゃ。ゆえに事の真相が判かるまで、おぬしらはここで待っておれ。安全と判るまで、決してこの部屋から出るでないぞ、良いな?」

 保子莉は端的にそう告げると、クレアとともに居間を飛び出していった。

「……って、言われてもなぁ。ボブ子の悲鳴を聞いちゃった以上、見に行くきゃないよな?」

 もちろん好きな人の危機を放っておけるわけがなく、ましてや置いてきぼりなどもってのほかだ。

「行こう、長二郎」

 保子莉に怒られることを覚悟し、長二郎とともに悲鳴の発生源である廊下の突き当たりへと向かった。するとトイレの前で茫然と立ち尽くす保子莉とクレアの姿が。二人の足元を見れば、散乱する扉の破片や『お花畑』のプレートが転がっていた。

 ――一里塚さんは? 一里塚さんはどこ?

 狭い廊下。……なのに深月の姿はなく、代わりに彼女が持って出たスマートフォンが床に転がっていた。

 ――何がどうなってんだ?

 状況がまるでわからなかった。宇宙船に繋がるトイレの扉。それが跡形もなく粉砕され、トイレの代わりに宇宙船に繋がる通路が伸びていた。

「なぁ。これはいったいどういうことだよ?」

 眉をしかめて状況説明を求める長二郎に、保子莉が声を尖らせた。

「居間でおとなしく待っておれと言ったであろう」

「そうですわぁ。何が起きたかも判らない状況で出てこられるとぉ、足手纏いになるだけですからぁ、言うことを聞いてくださらないとぉ迷惑になるだけですぅ」

 邪険に言い放つ二人に、長二郎が不貞腐れた。

「せめて何があったか、教えてくれてもいいんじゃねぇ?」

 不機嫌な親友を横目に、トオルは床に落ちている深月のスマートフォンを拾い上げた。

 ――いったい、一里塚さんに何があったんだ?

 すると保子莉が重い口を開いた。

「信じられぬことじゃが、深月が……連れ去られたようじゃ」

 とんでもない事態に、トオルはスマートフォンを握りしめたまま声を張り上げた。

「なんで一里塚さんが攫われなきゃならないのさ?」

 そもそも犯人は誰で、何を目的としているのか。するとクレアが端末情報を読み取りながら説明する。

「どうやらぁ主犯はトオルさまのお体……つまり再生体ですぅ。ただし目の前の扉の破壊力から推測できることですがぁ、現状の再生体は通常状態でないことが伺い知れますですぅ」

「はぁ?」と、長二郎と一緒になってマヌケな声を上げてしまった。まさか深月を攫った犯人が自分の体だったとは。とは言え、この超人的パワーは、いったいどういうことなのか? どう考えても普通の人間が成せる力ではない。

 ――何かの間違いじゃないのか?

 だが2人の宇宙人はそう思ってはいないようだ。その証拠に、それらを踏まえ、保子莉が辛辣な表情をしたまま耳抜きをしていた。どうやら身体能力の高い猫娘になって追跡しようという魂胆らしい。

「再生体はぁ深月さんを拉致した上でぇ、船内に潜伏している模様ですぅ。これはこちらからのぉ位置情報によってぇ確認ができておりますがぁ、再生体の異変及び行動心理については不明ですぅ」

「それについてじゃが、原因究明はできそうか?」

「はい。培養カプセルのログを元に解析が可能ですぅ」

「頼むぞ。再生体の身体能力がどれほどのものか判らぬと、対処のしようがないからのぉ」

 保子莉はそう言って、地球人2人を睨み据えた。

「聞いてのとおりじゃ。再生体の暴走以外の詳細は極めて皆無に等しい。ゆえに間違ってそんな相手と出くわそうものならば、どう対処して良いのかも分からん上に、最悪の場合、死を伴う危険も大いにありうるじゃろう」

 熊と出くわすような説明に、トオルは身震いした。

「ぼ、僕の体はともかく、一里塚さんはどうなるのさ?」

「それが判れば苦労はせん。それを今から確認しに行ってくるから、おぬしらはおとなしく部屋で待っておれ」

 そう言って猫目で宇宙船内を凝視し……

「クレア。奴の現在地は?」

「はい。船尾のエンジンルームに留まっていますですぅ」

「うむ。ならば、その付近の隔壁を閉塞しておけ。もっとも施術室やこのドアをぶち壊すくらいじゃから、足止めなどという期待は見込めんじゃろうがな」

 予防線の指示をしつつ、険しい表情をする猫娘。手に負えない危険な相手。それだけに、この場は宇宙人である彼女たちに任せるのが妥当だろう。だが……

「なぁ、俺たちにも手伝わせろよぉ」

 ――俺たち?

 協力を申し出る親友の言葉に仰天した。確かに深月を魔の手から救い出したい。しかし相手は猛獣のように気の荒い生物に違いなく、取り押さえるにしても無傷で済むはずがないのだ。

「ダメじゃ。生身で対抗手段を持たぬおぬしらでは、なんの役にも立たん」

 頭ごなしに否定する保子莉に対し、長二郎がなおも食い下がった。

「武器になるような道具とか、ねぇのかよ?」

 その問いに保子莉が押し黙った。

「あんだろうよ。だったらそれを使わせろよ」

 武器を使って闘う気満々なのはいいけど、犯人相手に通用するかどうか分かったもんじゃない。

「長二郎。無茶を言わず、ここは保子莉さんの言うとおり、部屋で待っていようよ」

 と猛る親友の腕を掴んで説得していると……

「力も能力もない地球人のくせに、なぜおぬしはそうまでして手を貸そうとするのじゃ?」

 伏し目がちに訊ねる保子莉に、長二郎はトオルの手を払った。

「はぁ? そんなこともわかんねえのかよ! 仲間だからに決まってっからだろ。仲間が攫われて、おとなしく部屋で待ってられるか。いいか、良く聞け! 仲間ってのはなぁ……」

 その言葉に、トオルの心は揺さぶられ、保子莉も猫目を見開いた。普段はテキトーでチャラい親友。だが義理人情が絡むと話は別のようだ。が……

 拳を作って熱弁を振るい始める長二郎の隣で、クレアがおもむろに服を脱ぎ始めた。豊満な肉体美を包み込むボディウェア。眼前でプルンっと弾ける巨乳。その目のやり場に困る一張羅姿を前に、長二郎の気が次第に削がれていく。

「なか、仲間はなぁ……ア、アニメやマンガでいうところのぉ……だなぁ……」

 目の前の嬌姿(きょうし)に当てられ、だんだん歯切れが悪くなっていき、やがて……

「えーっと、そのぉ……なんだっけ? 俺、今、なんか大事なことを言ってたよな?」

 鼻の下を伸ばしながら、自分の発言内容を他人に訊ねる親友に、トオルは胸を熱くしてしまったことを悔やんだ。……と言うより、何が言いたかったのだろうか。

「もう良い。どうせ待てと言ってもおぬしのことじゃ、黙ってついてくる気なのじゃろ?」

「当然だ。なぁ、トオル」

 同意を求める長二郎に、トオルは眉をひそめた。何しろ不明瞭な事態に対し、手練れた宇宙人がこうして臨戦態勢を整えているのだ。危険な捕物騒動。それだけに、まかり間違えれば大けがどころでは済まないだろう。

 ――いくらなんでも無茶だ

 この場はひとつ彼女たちに任せるのが妥当だ。……と、留守を預かることを申し出ようとした時だった。白いボディウェアを漆黒へと染め上げたクレアが緊張の一声を唱えた。

「お嬢さまぁ、戦闘態勢が整いましたぁ! 私のほうはいつでも戦えますですぅ!」

「はぁぁあっ?」

 鼻息を荒くして、やる気満々なバトルモードクレア。見れば、変色したブラックウェアに幾筋ものレッドラインが這うように輝いていた。その仰々しい出で立ちに、トオルが言葉を失っていると……

「良し! こうなったら全員で力を合わせてヤツを捕えるとするぞ!」

「もちろんですともぉ、お嬢さまぁ!」

「見てろよぉ、再生体。俺たちの友情パワーを見せつけてやるぜぇ!」

 一斉に調子付く三人。猫目をギラつかせる保子莉に習い、ボディウェアの具合を確かめるようにストレッチを始めるクレア。両腕のシャツを捲り上げて意気込む長二郎。ゆえに辞退表明など、とても切りだせる雰囲気ではなかった。もし歩調を合わせず、留守番することを願い出れば、場の空気はシラけ、盛り上がっている三人の士気は一気に下がるだろう。

「では、長二郎とトオルはわらわについて参れ。クレアにはしんがりをまかせる!」

「了解だぜ!」「後ろはおまかせですぅ」

 大胆不敵な親友とは対象的に、トオルが尻込みしていると

「心配しなくても大丈夫ですよぉ。私がトオルさまをお守りいたしますのでぇ、安心してくださいなぁ」

「いや、でも……」

「ほらほらぁ、早く行きましょぉ」

 クレアに後押しされるがまま、宇宙船へと足を踏み入れるトオルだった。

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