第二章 長二郎VS黒猫 2
「遅い!」
駅に到着した途端、親友が改札前で仁王立ちしていた。昨夜の出来事が刺激的だったのだろうか、目の下に濃い隈を作り、充血した瞳は朝からギンギンに冴え渡っていた。
「まったく朝から騒々しいやつよのぉ」
あきれた調子で保子莉が言うと……
「朝からテンション上げてなにが悪いんだよ。それよりも、クレアたんは一緒じゃないのか?」
キョロキョロと周囲を見渡す長二郎に、保子莉がフンと鼻を鳴らした。
「仮にも教師じゃからのぉ。今頃はすでに学校じゃ」
「なんだよ。せっかく徹夜して作ったのに、それじゃあ、意味ねぇじゃん」
がっかりする長二郎の胸元を見れば、はだけた制服の下のTシャツに幼女クレアをモデルとした二頭身キャラが描かれていた。市販品とは異なる手書きのハイクォリティー。特に『クレアたんは俺の嫁』の筆書き文字は、書道の師範代も褒め称えるほどの出来だろう。
「なら、早く学校へ行こうぜ」
スクールバッグを引っさげて、改札を通過していく長二郎に続き、トオルたちも改札を抜けてホームに並んだ。
いつもと変わらない電車通学。
だが、今日はそんな日常とはちょっとだけ違っていた。
なにしろ紅一点の保子莉がいるのだ。見知らぬ他人からすれば、きっとリア充を満喫する高校生たちに見えていることだろう。正直、ちょっと嬉しい。
しばらくして、定刻通りに到着した電車に乗り込む3人。同時に車両後方の座席で本を読んでいる深月を見つけ、乗客越しにトオルが眺めていると、保子莉に脇腹を小突かれた。
「ほれ、チャンスじゃ。行ってこい」
「えっ? まさか告白しろってこと? いくらなんでも、それはいきなりすぎるよ」
心の準備もあるし、なにより大衆の面前だ。無理にもほどがある。
「最初っから、そんなハイレベルな芸当を期待しておらんわ。まずは朝の挨拶くらい、おぬしからせいといっておるのじゃ」
もっともだった。挨拶はこの世の常であり、万国共通の常識。しかし昨日の悪夢を思い出すと自然と足がすくんだ。あの強烈なビンタはともかく、なけなしの好感度をこれ以上、下げたくはないのだ。
「わらわも付き添うから案ずるでない。ほれ、参るぞ」
保子莉に背中を押され、渋々乗客たちの間をすり抜けていくトオル。その足取りは重く、さながら公開処刑場へと向かう気分だった。その背中をカルガモ親子のように保子莉と長二郎も連なる。
「い、一里塚さん!」
不意に呼ばれたその声に、深月が慌てて本を固く閉じ、おもむろに迷惑顔をトオルに向けた。
「やっぱ、警戒されてんなぁ」と吊り革を握る長二郎に……
「余計な心配などせんで、黙って刮目しておれ」
初めてお使いにやった我が子を見守る眼差しをする保子莉。
正直、緊張する。
「お、おはろう」
緊張しすぎて台詞を噛んでしまう大失態。たった四文字の単語すら、まともに言えない無様な挨拶をし、早々に保子莉の期待を裏切る形となってしまった。
――なにもかも終わった
だが意外にも、深月の反応は予想を反したものだった。
「おは……ハ、ハロー」
美少女優等生の面目躍如。発音の良いネイティブ英語と機転の良さ。なによりもトオルのミスを自分の聞き違いとしてフォローするあたりは、流石クラス委員長の成せる技といったところか。とトオルが感心しているところへ、頃合いとばかりに保子莉が割って入ってきた。
「おはよう。おぬしの隣に座っても良いかのぉ?」
「あ、はい。どうぞ」
深月が腰をずらして作った空間に品良く腰を埋める保子莉を見て、長二郎が下品な笑顔を浮かべた。
「あれれぇ? 夕べと違って、今日はずいぶんおしとやかじゃん?」
「たわけ。淑女のたしなみじゃ。年がら年中、チャラいおぬしと一緒にするでないわ」
間違ってはいないけど、酷い言われようである。
「深月殿。こやつは普段から、こんなアホな人格をしておるのか?」
あきれ眼で長二郎を指さす保子莉に、深月が困惑しながらも律儀に答える。
「えーっと……入学してまだ間もないので、私も良く知らないけれど、目立っているという意味ではいつもどおりかな」
「ふむ。今に始まったことではないということか。それで、ついでと言ってはなんじゃが、トオルもこんな感じで普段からおとなしいキャラなのか?」
唐突にトオルを指さし、質問の矛先を変える保子莉。隣に座ったときから何か余計なことを言うのではないかと不安を感じていたが、よりによって自分のことを訊ねるとは想定外だった。……が、同時に深月が自分に対して、どのような印象を抱いているのか興味がわいた。
「敷常くん? 敷常くんはいつもどおりかな? あんまり良くは知らないけれど」
悪意の欠片もない明答に、がっくりした。
――一里塚さんにとって、僕なんか、その程度の印象でしかないのか……
空気のような扱いにショックを受けていると、深月がトオルを見上げていう。
「でも、敷常くんは勇気のある人だと思うよ」
その他愛のない一言に3人がそろって首をかしげた。
「この僕がゆうき?」
「うん。土手の上からだったから、良くわからなかったんだけれど……実は昨日、敷常くんが溺れている子供を助けるために川に入っていくのを見たんだよ」
降ってわいた目撃情報に驚く保子莉と長二郎。トオルに対する好感度アップ。……が、当のトオルは顔面蒼白で狼狽えた。
――あの時の魚類肌が見られてるじゃん!
一番見せたくなかった相手に半魚人姿を目撃されたのだから、何の言い分けもできないだろう。これで好感度はゼロ。いや、むしろマイナスにまで落ち込んだに違いなく、告白する以前に失恋決定だろう。
――もう窓から飛び降りて死にたい……
絶望の二文字が頭の中で幾度となく木霊した。すると保子莉が、手にした携帯電話をチラつかせていた。いざという時には、記憶を消してやるとの目配せに、トオルはゴクリと固唾をのんだ。
深月から昨日の記憶を消すと、いったいどうなるのだろうか。もしかしたら、あの忌まわしいBL事件も綺麗さっぱり抹消されるのかもしれない。だが、そうなると今語られているトオルの武勇伝も、彼女の記憶から消えてしまう可能性が高いだろう。そんな不安を抱えたまま、トオルは黙って深月の言葉に耳を傾けた。
「それでね。私も友達と一緒になって、すぐに先生を呼びに行ったんだけれど、戻ってきたら、もう誰もいなくって……結局、そのあとのことは分からずじまいなんだよね」
「へっ? それだけ?」
余計な気を揉んで損したとばかりに胸をなで下ろしていると、深月が眉をひそめた。
「それだけって、どういう意味なの? あれって敷常くんじゃなかったの? もしかして私の見間違いだったのかな?」
いや、むしろ完璧なまでの目撃証言だ。
しかし、ここで違うと口にしてしまえば深月を否定することになるし、逆に認めてしまえば事の状況説明を訊ねられるだろう。限られた二択回答。果たしてどちらが正解なのか。とトオルが判断にこまねいていると、保子莉がフォローに入った。
「いや、助けたのは正真正銘トオル本人じゃ。実際、わらわもあの場におったから間違いないぞ」
「えっ。じゃあ、あそこで一緒にいた生徒って、時雨さんだったの?」
すると保子莉は眉間にしわを寄せて、ばつが悪そうに嘆息する。
「うむ。恥ずかしい話なのじゃが、右も左も分からぬ初めての土地で姉のわらわを迎えにきてのぉ、溺れたのはその帰り道のことじゃったのじゃ。とは言え、まさか深月殿にまで苦労をかけてしまったとは、本当に申し訳ないことをした。遅ればせながら、あらためて礼を言わせてもらう」
深月の両手を握りしめ、感謝の言葉を唱える保子莉。その即興で作った家族設定と演技力に、トオルはただ舌を巻くだけだった。
「それで、もし深月殿が迷惑でなければ、わらわの友達になってほしいのじゃが。まだこの土地に慣れぬゆえ、不安が多くてのぉ。しかもこの男連中ときたら、がさつで何の役にも立たんのじゃ。どうじゃろうか、友達になってくれまいかのぉ?」
心細い面持ちをして詰め寄る保子莉に、深月が慈愛に満ちた笑みで受け止める。
「私で良ければ喜んで。それから『殿』はやめてほしいかな。普通に深月って呼んでもらってかまわないよ」
「そう言ってくれるとありがたい。本当に深月は優しいのぉ」
満面な笑顔で嬉しそうに応える保子莉。その巧妙な話術と機転に、トオルは呆気にとられっぱなしだった。頭の回転が速いと思える反面、いずれは露見するであろう虚偽を平然と言ってのけたのだ。こういうことを目の当たりにしてしまうと、彼女の言うことをどこまで信用していいのか分からなくなってしまう。
『次はー、のべがわらー。のべがわらー。お降りの際は……』
目的の下車駅を告げるアナウンスに、深月がスクールバッグを担いで席を立った。
「じゃあ、行こうか。保子莉さん」
そろって電車を降りる保子莉たち。それを追うようにトオルたちもホームに降りて、いつものように改札を抜ければ……
「なぁなぁトオル。保子莉ちゃんの妹ってかわいいのか?」
昨夜、一緒にクレアの一件を聞いて同一人物だと知っているはずなのに、なんでそうなるのだろう。それとも単に『妹』という単語に見境がなく、敏感に反応しているだけなのだろうか。
――将来、誘拐事件とか起こさなきゃいいけど
と、学校に続く遊歩道を歩きながら、トオルは現場で溺れていたクレアの話をもう一度説明することとなった。
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