第一章 黒髪転校生 5
「ホント……ツイてない」
川から少し離れた藪の中、トオルは膝を抱えて息を潜めていた。
表彰されてもおかしくない人命救助。それなのに、表に出られなくなってしまった体の異変。なにがどうなって、こうなってしまったのか、まったくもって意味が分からなかった。
――もう死んでしまいたい
生きる気力を失い、首を吊って死んでしまおうかと考えた。だが遺書を書くための筆記用具も無く、またポケットの中のスマホも水没して壊れていた。
――とりあえず、家に帰って遺書を書こう
そのためには、人目がつかない夜を待つしかなかった。
何をするでもなく時間を過ごし、夜を迎えた頃……なぜか正常な体に戻っていた。
――それでも、僕は普通じゃない
一時的な回復。また同じように発病する可能性がある以上、とてもじゃないが楽観視できなかった。そんなことを考えながら裸足で道を歩き続け……我が家に辿り着く。
財布から鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。普段、何も感じなかった当たり前の動作。……なのに、今日に限っては手が震えていた。汚れた足そのままで廊下に上がり、居間の電気をつけた。いつもテーブルの上に置いてあるメモ帳とボールペン。その隣には母が用意した手料理があった。
『ハンバーグはチン。冷蔵庫の中のサラダは食べる分だけ取り分けて。みそ汁はちゃんと温めるように』
これが人生最後に食べる晩餐になることを考えると、自然と涙がこぼれ落ちた。家族みんなで囲った食事。そんな団らんを思い浮かべ、感傷に浸っていると、上の階から物音が聞こえてきた。
――誰かいる?
だが父は仕事。母は町内会の集まりでいないはず。だとすると、妹の智花だろうか。
壁掛け時計を見れば、7時を回っていた。
――塾をサボったのかな?
と階段下から上を覗き見る。どうやら物音の発信源は自分の部屋のようだ。
まさか泥棒? いや、子供部屋で盗むような金目のものはないはず。あるとするならば、せいぜい小銭が貯まった貯金箱くらいだ。そうなると、うっかり戸締まりを忘れた窓から猫か鳥が迷い込んだのだろうか。
――蛇とかだったら、イヤだなあ
自分の部屋で這いずり回る細長い爬虫類に怯えながら、ドアノブを掴み、音を立てないように部屋を覗き見れば……もっとも会いたくない人物がいた。
ユニタードのようなものを着たまま、アヒル座りをしてスマートフォンをいじる幼女。そしてもうひとり。言わずと知れた黒髪の転校生だ。彼女もまた、スカートがめくれてパンツが見えているのも気づかず、ベッドの上で漫画を片手にくつろいでいる。
――なんで、あのふたりが僕の部屋にいるんだ?
考えられることは、ただひとつ。言うまでもなく、人間離れした体のことだ。
――でも、なんのために?
「世間にバラされたくなければ、黙ってわらわの下僕になってもらおう」
悪魔のように笑う転校生が目に浮かんだ。
――地の果てまで逃げよう。そして誰も知らない土地で生きていこう
とドアを閉めようとしたときだった。
「あ、トオルさまぁ!」
不覚にも幼女に発見されてしまった。
「くそっ!」とトオルはきびすを返し、階段を駆け下りた。が……
「わらわたちから逃げるとは、まったくいい根性をしておるのぉ」
……あっけなく捕まってしまった。しかも幼女相手に瞬殺で。
「まったくぅ、困った人ですねぇ」
無垢な笑顔でトオルを羽交い締めする幼女。年端もいかない子供のくせに、なんて馬鹿力だ。
「不法侵入で訴えてやる!」
ベッドの上で、あぐらをかく転校生を睨みつけると……
「それは困る。それにわらわたちは、おぬしに対し、危害を加えようと訪問しにきたわけではない」
「じゃあ、なんで僕の部屋にいるのさ?」
「そうじゃのぉ……どっから話をして良いものかのぉ」
と腕組みをして悩む転校生。勝手に人の家に押し入って、なにをそんなに悩む必要があるのだろうか。
「説明するにはぁ、込み入った事情が諸々ありましてぇ」
なんのことだがわからないけど、逃げなきゃいけない気がした。
「ムダですよぉ。私たちの説明を聞いてもらわないかぎりぃ絶対にぃ逃がしませんですからぁ」
「ふざけるな! ……って、なんで僕の考えていることがわかるんだよ?」
「クレアは相手の心が読める能力があるからな。ゆえにクレアにとっては、おぬしの考えなどガラス張り同然じゃ」
鼻を持ち上げて威張る転校生。心が読めるなどとバカげたことを平気で言うくらいだ。正直、アタマがイカれてるとしか言いようがない。
「お嬢さまぁ。またトオルさまがぁ、アタマ膿んでるって思っているようですよぉ」
幼女の告げ口に、転校生のこめかみがヒクついた。
「ほぉ。1度目なら笑えるが、2度目となると流石に見過ごせんのぉ。まぁ良い。寛容なわらわじゃ。今回は大目に見て許すとしよう」
まるで姫さまのような口調と態度。やっぱりアタマがおかしい。と思った瞬間、転校生の足の裏が顔面に炸裂した。
「なにすんだよ! なにもしてないのに蹴ることないだろ!」
「わらわのことを変人扱いしたからじゃ」
もしかして転校生も心が読めるのか? と疑いの目を向けていると、幼女がいう。
「お嬢さまは読めませんよぉ」
「じゃあ、なんで?」
「きっとぉ、お顔に出てたんでしょうね」
言われてみれば、トランプゲームのポーカーフェイスで勝った試しはない。それはともかく、この非常識な窮地をなんとかしなければ。
「トオルさまが思っているほど、ちっとも非常識じゃないですよぉ」
「勝手に僕んちに上がりこんでいること自体、非常識じゃないか?」
そもそも心を読めること自体、非現実的でバカげている。
「ほぉ、バカげているとな。言っておくが、今日一日、おぬしの行動を監視しておったから、何でも知っておるぞ。例えば、おぬしが誰を好きであり、そして今朝、その誰かさんと何があったとか、すべてな」
そして咳払いをしてから……
「お主の好きなおなごの名は一里塚深月と申すそうじゃな。それだけに、今朝の誤解は難儀じゃったのぉ」
人を惑わすような笑みを見せる彼女に、トオルの脳裏に忌まわしい記憶が色鮮やかに蘇った。
――なんで今朝のBLのことを知ってるんだ? さては長二郎が喋ったのか?
親友の裏切りにトオルが訝しんでいると、幼女が困った表情を浮かべた。
「お嬢さまぁ。トオルさまはご友人から聞いた話だと思い込んでぇ、私たちの話を信じておりませんですよぉ」
「従順そうなわりには、疑り深いやつじゃのぉ」
転校生は思慮し、今一度トオルに訊ねる。
「ならば問うが、おぬし、体のほうはどうじゃ? 川での泳ぎもずいぶんと速かったしのぉ。普通の人間では、ああも速く泳げるものではない」
そう思わぬか? と核心を突いてきた転校生に、トオルは目をそらした。
「泳ぎ? ぼ、僕には何のことだか、サッパリわかんないなぁ。あはは……」
演技力が果てしなく下手くそなトオルだった。
――川から上がったときの姿を見られてたか?
しかし遠見からの確認だ。ましてや手や腕をめくられ、直に見られたわけではない。だとすれば、この幼女が話したのかもしれない。
――なんて、お喋りな子供だろう
と疑いの目を向けるた途端、幼女が反論の声を上げた。
「言ってませんしぃ、それに子供じゃないですぅ」
「どこから、どうみても子供じゃないか! それにその変な格好、お父さん、お母さんが見たら、きっと泣くよ」
だいたい、この子の親もなにを考えているんだ。こんな時間まで子供をほったらかすなんて。とトオルがあきれかえっていると……
「なんじゃ、まだ気づいておらんのか? おぬしが子供じゃと思っている目の前の相手は、副担任の呉羽クレアじゃぞ」
もっともらしく話す転校生に、トオルは二度あきれた。
「なにいってんの? 呉羽先生は、もっと背が高くって、胸だってこんなにぺったんこじゃない」
男女の認識の違いを差し引いても、幼女と異国の副担任が同一人物なわけがない。すると幼女が真っ平らな胸を張った。
「こう見えても立派な大人でぇ、これが本来の姿なんですぅ」
「そうじゃ。人を見た目で判断していると、痛い目にあうぞ」
いろんな意味を含めて、いろいろとアタマがおかしいふたり。特に子供のほうは救いようのないレベルだ。
「信じられるもんか」
バカらしい。とトオルが鼻であしらうと、幼女の眉がキリリと引き締まった。
「もぉ頭にきましたぁ。わかりましたですぅ。そこまで言うのでしたらぁ、今すぐ、実証してあげますですよぉ!」
幼女クレアは立ち上がり、スマートフォンを頭上へと掲げた。
「瞬きしないでぇ、しっかりぃ見ていてくださいねぇ」
そういって端末画面をクリックする幼女。同時に端末機から強烈な閃光が放たれ……光はピンク色に変化しながら渦を巻き、幼女の体へと収縮していく。
――いったい、なにが起きたんだ?
次の瞬間、トオルは自分の目を疑った。
幼女の代わりに立つ異国の女性。豊満な胸。悩ましく括れた腰。日本人離れした長い脚。扇情的な体を包むインナーウェアと栗色の髪だけが、幼女との共通のものだった。その魔法少女の変身ぶりに、トオルが言葉を失っていると……
「事実を目の当たりにした感想はどうじゃ? 信じる確証としては必要十分じゃと思うがのぉ」
否定する言葉が見つからなかった。自身に起きた異変に加えて、そのことを周知している転校生と、奇妙な変身を遂げた幼女。それらの現実を受け入れるには、あまりにも唐突すぎるのだ。
「おや、肯定も否定もせぬか。まぁ、無理もない」
眼光を怪しく揺らす転校生に、トオルは寒気を感じた。
「それよりも、おぬしにはもっと恐ろしい事実を教えねばならんのでな、覚悟してもらうぞ」
「恐ろしい?」
「そうじゃ。例えば……おぬし、一昨日はどこで何をしておったか覚えておるか?」
転校生の陳腐な質問に、トオルは首をかしげながら一昨日のことを思い浮かべた。
確か、長二郎と遊んだあと、門限に遅れて母親に怒られたような。……が、なぜだか絶対と言い切れる自信がない。混濁した記憶。それはまるで霞がかかったように曖昧で、自身の存在が忘却の彼方へ押しやられるような感覚だった。
「そうじゃろ、そうじゃろ。そこでじゃ、今からおぬしの身に起こったすべての出来事を見せるでな。クレア。例のやつを、この者に見せてやってくれ」
「了解しましたですぅ」
副担任は子供の姿に戻って正座をすると、トオルと向かい合わせになって微笑んだ。
――いったい、僕になにを見せるつもりなんだ?
「ありのままの事実を見てもらうだけですからぁ、そんなに身構えなくても大丈夫ですよぉ」
屈託のない笑顔でいう幼女。だが相手は大人へと変身する人間。そんな得体の知れない相手を前に、安心しろと言われても無理だろう。
「きみも一緒に見ないの?」
幼女に畏怖の念を持ちながら、ベッドの上でくつろいでいる転校生に訊ねてみれば……
「わらわは顧客じゃからの。ここで高みの見物じゃ」
いったい何様のつもりなのか。そもそも顧客ってなに? と転校生を恨めしく睨んでいると……
「それではぁ、早速始めましょうかぁ」
そう言って、端末機をトオルの額に押し当てるクレア。
「気をしっかり持っててくださいねぇ。そうでないとぉ、ショックで脳が混乱しますからぁ」
「ちょ、ちょっと待って! 今なんて……」
聞き捨てならない言葉に、体を引きかけた瞬間、眉間に強い光が放たれた。遠退く意識と急激に押し寄せてくる睡魔に意識が保てなくなり、目の前の幼顔がぐにゃりと歪んだ。
「あ、それからぁ、お嬢さまの記憶も一緒に編集してありますのでぇ、加害者さまの経緯も合わせてご覧くださいなぁ」
――記憶? 加害者ってなに?
遠ざかる幼女の説明を聞き終える間もなく、トオルの意識は奈落の底へと沈んでいった。
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