俳句甲子園の一件以来、文芸部は歯車を一つ失ったようにぎこちなかった。小説を書いていない瑞姫、瑞姫と離れて座る宗谷、やけに元気な瑠璃。当然、瑞姫は常に小説を書いているわけではないし、宗谷は常に瑞姫の傍にいるわけではないし、瑠璃の明るさは日替わりなのだが、昨日の今日ということもあり、違和感を覚えずには居られなかった。

「遠山先輩、この句ってどうですか」

 そんな中で、悠希は俳句に傾倒し始めていた。俳句甲子園への参加を拒んだからだというのに、それでも俳句に興味はあるというのが桜には嬉しかった。俳句甲子園への忌避も、俳句への愛も、どちらも共有できている気がして。

 さて、悠希が見せたのはこのような句だった。


 草苺らしく触れられない私


 俳句甲子園に向けた句作の頃から、悠希の句は一文続きのものが多かった。本来俳句とは切れ字などを利用し、任意の箇所に「切れ」を生じさせるのが定石だ。それをしないのは、どうにも彼女の拘りであるとのことで、桜はそこに干渉しようとはしなかった。昨年、瑠璃の句を初めて見た頃の彼女は、定石外れの姿勢に苦言を呈していたものだが。

「触れられない、とはどういう意味でしょうか」

 悠希は表情を作らないまま視線を右に逸らして、戻して、答える。

「そのままです。あれに触れるのは小学生ですとか、学者とか、評論家とかの好奇によるものであって、普通の人は触れるものではないですよね、はい」

 桜は相槌を打って、誰かの意見を求めようとした。だが、誰も興味をこちらに示してはいないと見るや、一人で向き合うことにした。他人の俳句を見る時は多数の意見が欲しいものだが、仕方ない。

「でしたら、むしろ触れられる、とするのがよろしいのではないですか? 草苺めく触り方……いえ、そうですね、竹柴さんの作り方ですと」


 草苺みたいに触れられる私


 桜が、如何でしょう、と言う前に彼女は首を振っていた。

「違うんです。触れられないのが一般だと言いたいんですよ。世の人間を詠みたいんです」

「そうなのですか、それは難しいですね」

 桜はできるだけ、俳句においては難しいというニュアンスを込めて言った。俳句は写生や写真のようなもので、そこにないものを詠むには適していないからだ。それは例えば、蜻蛉のいる村とは言えても、蛙のいない村などとは言いづらいことを指すのだが、それを今言っても仕方のないことは、悠希の目を見れば分かることだった。

 桜はこんな時、瑠璃なら何を言うだろうかと考えて、その本人が隣にいることを忘れていた。

「難しい、ですね」

 ぽつりと言い残して、今日の部活が終わった。


 後日、学年集会があった。進路担当でもある西村先生が語る。

「俺は長らく、失敗しろと言ってきた。どんなことにも挑戦しろ、責任は俺たち教師に押し付けろと、そう言ってきた。だが、お前たちはもうじき卒業し、俺たちの手を離れる。だからこそ、受験という大一番で失敗して良いなんて、無責任なことは言えない」

 先生は体育館に座る四百人を右から左まで見て言う。

「失敗を恐れても良い。時には逃げたって良い。だが、その結果後悔したとしたら、次を逃すな。それだけで良い。俺たちは挑戦しろとも、後悔して良いとも言わないが、その場その場で、お前らが正しいと思うことをしてほしい。それはこの学校でお前らが学んだことに他ならないと信じている。以上」

 先生がマイクを置いた時、桜はふと、先生と目が合った感覚を覚えていた。


 放課後になると、桜は一目散に部室に向かった。読みたい本があったのだ。授業中に読んでしまいたい気持ちを、桜は必死に我慢していた。冒頭が終わろうかというところに栞が挟まれているのは、HRの間こっそりと読んでいた名残。

 部室には悠希がいた。今日も俳句を見てくれないかと言う彼女に、桜はむず痒さを覚え、ついに切り出した。

「どうして、出なかったのですか」

 俳句甲子園に、とは言うまでもなかった。悠希は瞼を重そうに、戸棚の方に視線をずらした。

「……嘘だったんですよ、先生の。言いたいことを言える場所があるって、だから俳句をやれって言ったのに」

「どういうことでしょうか」

「ただ俳句を作るのと違って、あの大会は舞台に立つ必要があるそうじゃないですか。作った人間が分かるじゃないですか。それは……とても、不本意です、はい」

 桜にその意味は伝わりきっていない。ただ、どこかで似たような話を聞いたと、そんな気がしていた。一体誰から聞いたことだろうかと考えて、先日の瑞姫との会話を思い出す。ああ、そうだ。それは「彼」の言葉だ、と。

「同じ話かは分かりませんが、旧知がこのように言っていました。『俺の句だって分かると、途端に選を入れたがる奴がいる。意味の通らない句を投げても、俺の句だからって称される。そんなにつまらないことってないだろ』と。作者が評価に関わることが嫌だと、そういうことでしょうか」

「そうですね。別に評価が上がるわけではないですが、はい」

 悠希は二杯目の紅茶を飲み終えると、おもむろに立ち上がる。黒水晶のような瞳を揺らして、三杯目を注ぐ。

「逆に、遠山先輩はなんで出たくなかったんですか」

 悠希にそのような話をしたことはないのだが、桜の態度から彼女が勝手に読み取ったことだった。悠希は普段から他人の動向に敏感であったため、桜は驚くことなく答える。

「怖かったのです。俳句とは闘う道具ではありません。競技の名を得ることで、より親しみを持たせようという意図は分かるのですが、どうにも、私の知っている俳句とは異質な文化なのだと、思わずにはいられないのです」

 桜は手元の寂しさから本に目を落とした。

「あ、それ」

「ご存知ですか」

 桜の持つ本は、青羽悠の『星に願いを、そして手を。』だった。中学生時代に科学館で勉強会をしていた四人は、館長の訃報によって再会する。かつてとは変わったお互いに、それぞれが思いを巡らせる。

「私も読みました、はい。何て言うか、私の夢もきっと、そうやっていつの間にか忘れられて、無難な人生に落ち着くんだろうなって。すごく余計なことを考えてしまう本でした」

 作品の展開に触れなかったのは悠希の配慮。その本が、開かれた形跡の少ない、凡そ新品の本だったからだ。桜は敢えて本に目を遣ったまま、話を続ける。

「余計なこと、ですか」

「例えば遠山先輩が今したいことって、明日にはどうでも良いことになっているかもしれません。何事もそういうものなんだって思います、はい」

「それは……」

 桜が言い淀んだところで、瑠璃が部室の扉を開けた。

「それこそどうでも良いことではありませんか。ルリにとっては今が全てですし、明日は明日したいことをしたら良いんです。昨日したかったことがどうでも良くなったところで、それはどうでも良いことなのです」

 瑠璃は窓の鍵をくるっと開けて、もう一度閉めた。

「苫屋先輩、何か飲みますか」

「さっき買ったので平気です」

 そう言って瑠璃は抹茶オーレにストローを刺す。かと言って飲みはせず、机に置いてから窓の外を眺めていた。

「俳句って何なんでしょうね。あるいは小説って。自身の恋への憧れを投影したものだったり、故郷をなぞるものだったり、家族の一員であるための努力だったり、あるいは幼馴染と一緒にいる口実ですか。そんなことはどうでも良いですが、ルリは俳句が分かりません。俳句甲子園さえなくなった今、この部にいる意味さえ定かではないです」

 桜は、何を言っているのかと耳を疑った。面白ければ何でも良いのではなかったのか、最初から俳句に拘ってなどいなかったではないかと、言い出そうとして何も言えなかった。

「苫屋先輩、何かしたいことができたんですか」

「別に」

 抹茶オーレを乱暴に掴むと、パックを握り潰すように飲み干し、ゴミ箱に入れた。「夏バテです」と言い訳をされた。後になって宗谷から、瑠璃と二人で本を作っていると聞いた。




 桜が先生に呼び出しを受けたのは、文化祭の直前だった。職員室に入るとクラスと名字を名乗り、西村先生に用があると告げた。先生は職員室の奥、教務主任の隣の席で手を振っていた。

「よう、遠山」

「何かご用ですか」

 先生はその返事より先ず、ブラックコーヒーを一口啜った。先生の指輪が光を受ける。

「最近はどうだ。文化祭の準備で困ったことはないか」

 えっと、と間を置いて、ありません、と答える。教室展示は瑠璃が仕切っているし、本についても宗谷を主に、瑠璃が管理している以上、桜にできることなどほとんどなかった。瑠璃に任せておけば大丈夫だという確信もあり、全て一任している。当然、先生もそのことは承知の上で。

「なら丁度良いな。竹柴と一緒に出してみないか、これ」

「賞ですか。県の……」

 先生の渡した葉書は、県内で行われている俳句大会だった。大会とは言っても、それこそ俳句甲子園のように俳句で闘うのではない。俳句大会という名のただの公募だ。そしてそれは、中学時代の桜が賞を取ったところのものでもあった。

 桜が思い出したのは、瑠璃の言葉だった。

『俳句って何なんでしょうね』

 怯えたように肩を揺らした。眼鏡の度が合わなくなったかのように、視界がぼやける。桜は今、自分がどこにいるのかさえ見失っていた。

「竹柴のためだ、付き合ってやってくれ」

 そんな言葉で、桜に俳句の舞台が与えられた。桜はしばらく、その場を去れずにいた。


 部室に行ったものの、眼鏡を机に置いたまま、本の続きも読めなくなっていた。部では瑠璃を中心に、宗谷と悠希を交えて文化祭の話がなされていた。企画するはずだった俳句コンテスト──来場者の俳句を点数化し、点数に応じて景品を贈るというもの──についてだ。

「なくしても良いんじゃないですかね」

「どうしてですか」

「俳句の出来を審査するのは誰ですか。ルリかさくらんになるです。ずっとそこに居るとも限りませんし、それに──」

 さくらんはどう思いますか、と聞かれていた。桜は考え事、あるいは何も考えていない状態に耽っていて、その肩を叩かれるまで気づくこともなかった。

「さくらん、どうかしたですか」

「あ、いえ……すみません。もう一度お願いします」

 桜の様子に気づいているのか気づいていないのか、瑠璃は淡々と同じ説明を繰り返した。その後に桜は、不要でしょう、と答えた。

 桜の中で、俳句というものが何者にもなれずにいる。瑠璃と宗谷が本作りに行ってから、悠希はこのように尋ねた。

「俳句、詠まないんですか」

「今は少々、何も分からなくなっておりまして……」

 眼鏡を掛け直して、悠希の持つ歳時記を覗き見る。そのページで目を引いたのは、銀河という季語だった。天の川の傍題ではあるが、その関連には冬銀河という言葉もある。


 冬銀河ふるさとといふダムのこと


 桜が賞を取ったのも、こんな句であった。そう思い出して、桜は二度、この句を口に出した。

「綺麗ですね。ダムに反射した星々が、魚みたいに揺れていそうです」

「いいえ、あれは墓標のように水面に映っていたのです」

 桜は寂しげに言いきる。もう一度故郷を見に行こうと決めたのは、この時だった。何か変わってほしい、自分が見ていた「俳句」という存在を思い出させてほしい、そんな思いを故郷に託したかった。




 文化祭における桜は、勿論部長としての責任もあったのだが、他に行く宛てもないことが大きく、終始文芸部の展示教室を動かなかった。瑠璃はふらふらと出て行った。宗谷は瑞姫の説得に向かっており、悠希は友人らしき男子と遊びに行った。桜は一人、自分だけがここを離れられないことに、無力さを感じていた。

「お邪魔します、お一人?」

 突然の来客は、見たことのある顔だった。桜は彼女の名前を思い出せなかったが、昨年の俳句甲子園で戦った相手だということだけは理解していた。

「お久しぶり。佐伯だよ。ほら政涼の」

「ああ、佐伯さん。すみません、名前を覚えるのは得意でないもので」

 彼女は佐伯。昨年の橋枝を下した政涼高校、そのキャプテンを務めていた。彼女の俳句は群を抜いて優れており、政涼を全国四位まで引っ張った。彼女らは、いや、彼女は橋枝と同じく、俳句甲子園を変えたいと願っていた。その理由もその方法も違ってはいたが、確かな親近感はあった。そんな彼女の名前を忘れるなど、桜は自分を恥じた。

「ふーん、まあいいや。それよりさ、今年出ないんだって? 私びっくりしてさ。去年の橋枝は本当に面白いディベートしてたし、また聞きたかった。いや、また戦いたかった。それが出ないって言うからさ、直接聞こうと思って来たんだ」

「それは……」

 躊躇いつつも、桜は始終を話した。昨年の俳句甲子園が終わってから、一同が集わなくなったこと。瑞姫が句を用意できなかったこと。新入部員の悠希が参加を拒んだこと。そして、代わりに文化祭で消化しようとしたこと。

「そっか。まあ納得してるなら良いんじゃないかな。それで、もしかして貼ってあるのがその句たち? そうだよね、立夏にしゃぼん玉に陽炎、今年の兼題だもんね」

 あなたの句でしょ、と楽しげに指を差す彼女だが、桜の表情を見てその調子を落とした。桜は今にも泣きそうな、あるいは涙さえ出ないまま、悲しさ、悔しさを露わにしていた。

「ごめんなさい。本当は、俳句甲子園に出られなくて良かったなんて思っているのです。私たちは昨年、確かに俳句甲子園を変えようと意気込んでいました。相手を非難するようなディベートが嫌で、相手の俳句と真摯に向き合って、お互いの句の良さを引き出すようなディベートがしたいと、そう思っていました。しかし、それが叶わないことも分かっていたのです。今年こそはと思う反面で、きっと全国優勝でもしなければ、そのディベートが主流になることなどはなく、俳句甲子園は変わらないのだと思うと、途方もなく無謀に思えてしまうのです」

 佐伯はそれを、へえ、の一言で片付けた。代わりに、桜の手元にあった本──青羽悠の『星に願いを、そして手を。』──を手に取った。

「この本の作者、知ってる? 青羽悠。書いたのは中学の頃らしいけど、受賞当時は高校生。おかげでメディアは煩くてさ。高校生が新人賞、最年少で受賞、高校生とは思えない作品。何だってそんな、年齢なんてどうでも良いじゃないかって、不満で仕方なかったんだ。それはね、俳句甲子園についても一緒。私たちの句には高校生っていうラベルが常に付き纏う。どんな良い句を詠んだとしても、高校生の句でしかないんだ」

 佐伯は一息置いて叫んだ。

「甘く見るな!」

 廊下に背を向けて言いはしたが、近くを通っていた生徒が何事かと振り返っていた。

「私たちの句はそんなに甘くない。大人と肩を並べても何も問題ないんだ。それを、それを勝手に過小評価しやがる、そんな俳句甲子園が大っ嫌い! だから、私たちは、ううん、私は戦った。去年はダメだったけど、今年こそはやってみせる」

 拳を胸に構えて佐伯は笑う。そして、桜に拳を向けて言う。

「私はあなたの可能性を否定しない。全国優勝でもしないと無理? じゃあ全国優勝してしまえば良かったんだ。それを諦めた時点で、あなたは負けたんだ。あなたも、高校生だからって過小評価する人間と一緒。他人や自分を低く見た時点で、あなたは終わったんだよ」

「そう、なのでしょうね」

 桜は何も言い返せなかった。佐伯の言葉は質の悪い正論ではなく、桜が薄々感じていたものを言語化したものに他ならなかったからだ。佐伯は本を返すと、手を二回鳴らした。

「はいはい、ここまでね。別に説教したくて来た訳じゃないし、あんまり暗くならないで。用も済んだことだし、適当にどっか行くね」

「あの、佐伯さん!」

 教室を去ろうとする彼女を慌てて引き止めた。桜は今、彼女にならこれを聞けると思った。

「俳句って、何だと思いますか」

 瑠璃がぽつりと言った言葉であり、桜が見失っている言葉だ。佐伯はお気楽に笑って返した。

「自分にとって大切なものを俳句にするんだよ。だから、それを聞くってことは、何か大切なものを見落としてるんじゃないかな。じゃあね。当日暇だったら私の試合見に来てね」

 桜は呆然と彼女を見送った。大切なもの、と呟いたところで、瑠璃が帰って来た。「どうかしたですか」と聞く瑠璃に、いいえ、と返した。

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