③
文化祭を終えて、文芸部は以前の明るさを取り戻していた。瑞姫は宗谷と手を繋いだまま新しい小説を書いている。原稿用紙に鉛筆を走らせる彼女は生き生きとしていて、アップルティーが冷めても手を止めることはなかった。
めっきり暑くなり始めた六月、しかし、部室で出されるお茶は熱い。水出しのお茶は、それはそれで美味しいのだが、慣習的にお湯で沸かすことにしている。
「熱いからこそ代謝を上げて汗を掻き、気化熱で体を冷やすのです。食道を冷やしても体は冷えません、これだから文明の利器に頼る現代人は困るです」
そんなことを言いつつ、瑠璃はパックの緑茶を飲んでいた。それも冷たい、購買で買ったもの。説得力の欠片もないそれに、慣れていない悠希だけが笑う。瑠璃の言動を一年以上見ている他の部員は、もはや違和感を持つことさえない。
「竹柴くん、嘲笑は遠慮なのです」
「竹柴……くん?」
その呼称に反応したのは、悠希ではなく瑞姫だった。悠希は艶のある瞳を揺らしながら、瑞姫と瑠璃との間で視線に迷う。
敢えて言うなら悠希は美人だ。幅のある二重、鼻の高さ、薄くも瑞々しい唇、どれを取っても見目麗しい。ミディアムの髪は毛先まで芯の通ったような黒で、日頃の手入れを怠っていない。女子の、特に瑞姫の理想に近い悠希に対して「くん」という敬称を付けることは、いくら瑠璃の感性とはいえ許されない。
「大丈夫ですよ、苫屋先輩ですから」
苦笑いをする彼女。まだ何かを言おうとする瑞姫。その袖を引いて諌める宗谷。
「ほら、本人も言ってるし良いじゃないですか。ルリはそう呼びたいんです」
不満を残しつつ鉛筆を取り直す瑞姫に、もう慣れましたから、と悠希が笑顔を足す。瑞姫は恐る恐る背を戻した。
「それにしても、ルリちゃんは言葉の使い方が独特ですよね」
桜がそう言ったことで、場の空気は一旦落ち着きを見せる。
「そうですよね。私は姫ちゃん。宗くんは宗谷くん、桜先輩はさくらん、先生は先生さん。何なら私と宗くんを合わせて宗姫ペアって呼ぶのも」
「小原先輩のことは、まりちゃん先輩って呼んでましたっけ」
元気にしてますかね、と宗谷が足した。唯一面識のない悠希が、机に身を乗り出す。
「あの、小原先輩ってどんな人だったんですか。あ、いや、あれは読んだんです。『てふてふや』は。でも、本に書かれる部分ってきっとその人の一部に過ぎなくて、本来と言いますか、核心のようなものは実際に接していないと分からないのだと思うんです、はい」
自信なさげに語る彼女に、最初に答えたのは瑠璃だった。
「子供っぽい人でした。良くも悪くも、すごーく感情的です。例えばですね、俳句甲子園の句を用意してた頃ですけど、一人一句まず用意するようにと、先生さんが言ったです。まりちゃん先輩は当時恋沙汰に現を抜かしている真っ最中だったので、思わずそんな話も忘れて、ぼけーっとしてたんです。当然句なんか用意してませんから、いざ句を見せ合おうとした時になって思い出したようで、急に泣き出したんです。物事の優先順位も決められないなんて部長失格だーなんて言ってましたか。責任感ばっかり強かったんでしょうね。別に日程に余裕もありましたから、何の問題もないのに。そんな話が、似たようなのが幾つかあるです」
悠希は相槌を打ちながら聞く。同時に、瑠璃とは対照的だったのだろうと思った。悠希から見た瑠璃は無鉄砲で、しかし合理的な割り切りが得意な人間だった。瑠璃が話と同じ状況だったなら、最終的に間に合えばそれで良いだろう、と言いそうなものだと。
「子供っぽいですか。私はむしろ逆で、小原先輩はそういう人だからこそ年上なんだって思わされましたね」
瑞姫が話し始めると、瑠璃がへえ、と意地悪く笑う。
「先輩は信念の強い人だったと思います。だってそうです。先輩の先輩、当時の三年生が引退してから、一人で部を続けていたんです。半年以上ただ先生の言葉だけを信じて戦うなんて、簡単なことじゃないですよ」
先生の言葉とは、「小原が大人になれば分かる」のことだ。引退試合を終えた三年生が悔しさ一つも見せない笑顔だったことについて、彼女は納得しきれなかった。以来の彼女は、俳句甲子園に出ることであの笑顔の理由を知ろうとしていた。
「そんなことができるのは小原先輩しかいないと……」
がたり、と椅子が強く引かれた。瑞姫は唐突に思い立って、帰ろう! と言い出した。宗谷は、何か小説のアイデアでも閃いたのだと察すると、荷物をまとめて駆け出す。お先に失礼します、という声がしたのは既に廊下に出た後だった。
残った三人が目を交わす。悠希はまだ話を聞きたがっている様子だったので、桜が語る番となった。
「信念のある方、というのは確かだったと思います。小原先輩は恋の句を好んで詠まれる方だったのですが、ある時、恋の句というのは恐らく俳句において最も難しい分野だと、そうお伝えしたのです。恋と言いますと各人の背景や現在の仲など複雑な情報が必要ですから、とても十七音で伝えきれるものではありません。それでも恋の句に執着したのは彼女なりの意志の表れだと思いますし、尊敬すべきことです」
まるで故人を語るような口ぶりだったと、桜は眼鏡の曇りを拭く。悠希はそれぞれの話を聞いて、咀嚼するように頷いていた。
「本を読んでも伝わらない部分っていうのは、こうして話したところで伝わらないものですけどね」
「そう、ですよね。でもありがとうございました。本当に皆さんに愛された方だったんだなって伝わりました、はい」
瑠璃は頬杖をついて、ストローの先を齧っている。その目の先の戸棚には、ティーカップが一つ、忘れられたように残っていた。桜はその視線を追っていると、話がひと段落ついたことに気がついた。
「お二方とも、週末はお暇でしょうか」
悠希だけが頷く。瑠璃はその先を聞こうが聞かまいが、興味はないと言いたげだった。
「俳句甲子園を見に行きませんか」
どうしてそんなことを思ったのか、桜の胸中には固形物がなかった。嫌いなはずの俳句甲子園を、敢えて見に行こうと言っていることさえ、桜は認知しきれていない。
強いて理由を書き出すなら、消化不良だった。戦うことなく諦めたという事実が、最後まで溶けきらずに桜の胃を歪めていた。そんなところで、文化祭に来ていた彼女、佐伯の応援というものが上手な口実になってしまった。かの先生は「楽しいか楽しくないか」で選択しろと言うが、楽しいとも楽しくないとも言えないのだ。だから、楽しさとは無縁の動機が与えられたことは、桜にとって都合が良かった。
「それなら、吉松先輩と文月先輩も誘いますか?」
「二人は既にお誘いしましたが、どうにも難しいようで」
緑茶を飲み終えた瑠璃が、パックをくしゃりと潰した。バスケットボールの仕草でゴミ箱を狙い、放り投げる。縁に当たって床にぺとりと落ちたそれを気だるげに拾っては、捨て直した。ゴミ袋と触れる音を始めとして、夕暮れを告げる鐘が鳴る。
鐘の音を聞いてから、悠希は壁掛けの時計を見て目を瞬かせた。「時間だ」と言って、急ぎ足に帰り支度を済ます。
「用事があるので、お先に失礼します」
スカートの端を摘んで膝を折る、女学生の姿があった。美しいまでの黒髪が、頭を下げた際に束を降ろす。夕日の差し込み始めた部室を、彼女は綺麗に立ち去った。
「いま……」
「はい?」
「竹柴くん、首筋に痣がありました」
「それがどうかしましたか?」
「いえ別に……何でもないです」
瑠璃が鞄から眼鏡ケースを取り出す様子を、桜は目で追っていた。
「眼鏡なんて持っていたのですか」
「伊達です。さくらんの真似でもあります、ほら」
同じメーカー、同じフレーム。ただ色が違うだけのそれに、桜の鼓動は高鳴った。何か悪戯のつもりだと分かりつつも、その頬の緩みを本に隠すばかりだった。
「それにしても、嘘が下手ですよね、さくらんは」
「やっぱり、分かりますか」
「前と一緒じゃないですか。宗姫ペアが泣きますよ」
「すみません」
私に謝られても、と瑠璃は胸リボンを弄り出す。
桜は、宗谷と瑞姫を誘ってなどいない。俳句甲子園の観戦は元々一人で、あるいは悠希と行くつもりだった。瑠璃がきっと来ないことも、桜には分かっていた。
「文月さんがまた小説を書けるようになったというのに、私の一存で余所見をさせてしまって良いものか、果たして分からないのですよ」
それは以前、俳句甲子園に出ないのかと、瑠璃に聞かれた時の言葉に酷似していた。瑞姫は小説を書きたくて入部した。その事実を延々と、当人を超えて引きずっている。
「さくらんは、人間の変化に疎いんです。時間が経てば様々のことが変わるものです。童は恋をしますし、少年は俳句に興味を持ちますし、少女は小説以外の創作を志します。さくらんは、他人をもっと信じた方が良いのです」
結局のところ、桜の思いやりとは独り善がりに近い。しかし、元々両者は似たものでもある。それらを完全に区別できる人間というものは少ないが、少なくとも桜は区別に疎い側だった。
「まあ、ルリには関係ないのでどうでも良いんですけどね」
帰りましょうか、と差し出された手が、桜には卑怯だった。
それから二日間、悠希のいない部室があった。三日目に現れた悠希は先生と共に入ってきて、いつものように「こんにちは」と言う。軽い夏風邪だったと言うが、嘘だと分かっていた。その左手首には正方形のガーゼが、手首を一周回るテープに留められている。テープと皮膚の間はやや赤くかぶれていた。
「……大変でしたね」
「いえ、慣れてますから」
悠希は天使のような笑みを浮かべる。先生は悠希の頭に手を置いてから、彼女を部室に差し出すように背中を押した。
「何か飲みましょうか。いつもの紅茶でよろしいですか」
悠希が頷くと、先生は安心したように職員室へと帰って行く。
「何か、聞いた方が良いでしょうか」
「話せる時に話しますので、はい」
紅茶を蒸らす間、彼女はテープにかぶれた手首を掻いていた。ここに瑞姫がいたなら、せっかくの綺麗な体が勿体ないとでも言ってしまっただろう。そうして悠希は、ごめんなさい、でも慣れていますから、なんて返すのだ。
誰も言葉を発さない中、悠希は二人の顔を窺ってから口を開いた。
「あの、週末のことなんですけど。私、よく考えたら俳句甲子園のこと全然知らなくて、どういうものなのかとか、見所とか、聞いておきたいと思いまして」
「ああ、そうですよね。剣道をイメージしていただければ分かりやすいでしょうか。兼題に沿った句を事前に提出して、先鋒、中堅、大将の三本勝負で戦います」
試合ではお互いの句を見せ合ってから、質問と応答を繰り返す(これをディベートとも呼ぶ)。俳句そのものの出来、作品点に加え、質疑応答の上手さに応じた鑑賞点の合計で勝敗が決まる。
そこまでの説明が終わる頃に、紅茶が注がれた。内側の白いカップは、紅茶の水色を繊細に見せてくれる。悠希は揺れる水面を見ながら、気品ある香りに胸を落ち着かせていた。
「でも、五人制ですよね。三本勝負ってことは、二人分使わない句があるんですか」
「そうですね。どの句を使うか、どの順番で戦わせるかという戦略も大事になります」
昨年は話し合いの末に、三つの兼題でどれも瑞姫の句を使わないということになった。五人で戦うのだから全員の句を使おうと言う小原に対し、全員で戦うからこそどの句も五人のものだと言う瑠璃。最終的には瑞姫が、ディベート担当という形もまた俳句甲子園においてはチームの在り方だと主張して、五人が結束したのだ。桜は懐かしむように、自分用の紅茶を注いだ。
「見所はそうですね、披講と言いまして、お互いに俳句を読み上げる場面があります。読むと同時に句の書かれた垂れ幕が捲られるのですが、俳句が目に入る瞬間の迫力は見ものですね」
「あとはあれです。勝敗の旗が上がるとこです。審査員が五人くらいいるんですけど、それぞれが赤か白の旗を上げるんです。どっちが勝つかの瞬間は会場も静まり返って雰囲気あるです」
桜の解説を瑠璃が補足する。悠希が「良いなあ」とこぼしたのは、二人が如何にも「仲間」だったからだ。もし一緒に戦えたなら、そこに自分も混ざれたのかもしれないと、悠希はカップに笑みを落とした。
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