④
一日を空けて俳句甲子園の日となった。電車で市に出てから地下鉄に乗り換え、副都市とでも呼ぶべきか、第二に人口の多い街に出た。会場までの十五分の道を、揃わない靴音で歩く。悠希はあくびを堪えるように口元を緩めた。
「寝不足でしょうか」
「ちょっと長々と話してたら遅くなっちゃいまして」
「ご家族の方とですか?」
「いえ、ネットを使って……友人と」
携帯電話が普及し始めた昨今とはいえ桜はその手のものに疎く、目を白黒とさせている。
「えっと、SNSって言って、今はネットで人と手紙みたいにやり取りできるんです」
「そうなのですか、最近の技術は凄いですね」
「一応昔からできることですけどね」
悠希は微笑んで、もう一度あくびをする。彼女の眠たげな表情がどこか瑠璃に似ていたからか、桜はいつかの瑠璃の言葉を思い出した。自分は他人の変化に疎いのだと。意識して見てみれば、隣には明確に変化した人間がいる。
「そういえば、竹柴さんは初対面の頃より随分と明るくなりましたよね」
「ああ、あれは」
悠希は気恥ずかしそうに笑う。
「ただの人見知りです。高校に入って右も左も目新しいものばかりで、緊張していたと言いますか、どうにも居場所を見つけられずにいたんです。今は文芸部の皆さんとか、クラスの皆が受け入れてくれるので、安心していられます」
「なるほど、そういうことでしたか。やはり新しいものに馴染むのは難しいですよね」
談笑が南風に掬われると、会場が目の前に見えてきた。川辺に立つそれは、図書館や託児所、コンサートホールなどを内包した市民センターだ。体育館や公園が隣接しており、サッカーをする小学生や、ジョギング中の夫婦が見受けられる。選手はもう会場で試合の打ち合わせ、あるいは開会式の準備をしている頃だろう。
建物に入ると、目的の会場は四階の視聴覚室と書いてあった。桜はエレベーターを使うか迷って、階段を上ることにする。一秒でも、会場に着くのを遅らせたかった。
階段を上りきると、正面に視聴覚室、その前に受付のテーブルがあった。既に開会式が始まっているようで、スタッフが中を覗き込むように立っている。
「以上五名の先生が審査を担当します。先生方、本日はよろしくお願いします」
そう聞こえたと思うと、まばらな拍手が鳴る。スタッフの隙間から室内を覗くと、桜はようやく昨年と同じ会場だと気づいた。
視聴覚室とは言うが、さながら学校の教室が縦に広くなったような部屋だった。観客席として、長机とパイプ椅子が部屋の中央から後方まで並ぶ。その後方には保護者が、前方には生徒が座っており、保護者と生徒の間には溝のように一列、誰もいない席があった。天井に整列する冷たい蛍光灯が、生徒の緊張を高めている。
「なんだか見たことない制服もいますね」
悠希が小声で言う。
「羽蔵高校でしょうか。隣県の学校ですし、見慣れないとは思います」
座っている制服は四校分。橋枝の不在を除けば、面々は去年と変わらない。廃部寸前だと言っていた羽蔵高校、お嬢様学校と名高い双葉女学園、高偏差値の来山高校、そして地区大会六連覇を誇る政涼高校。全国大会に出場できるのはこの中の一校だ。
開会式が終わると、生徒たちは打ち合わせのため廊下に出て行く。桜は逃げるように保護者の波に紛れた。
「今更なんですけど、俳句甲子園って地方と全国の二つなんですか」
「そうですね。東京や名古屋、出雲などそれぞれの会場から勝ち抜いた学校が、八月の松山で戦います」
桜は人波の奥に政涼の佐伯を見つけていた。こちらは制服ではないため、簡単に向こうから視認されることはないだろうと思いつつ、彼女の死角を選んで立つ。キャプテンでもある佐伯はチーム四人それぞれに指揮をしているようだ。
「会いに行かないんですか?」
「今は……集中していると思うので」
当初の予定では、試合前に声をかけようと思っていた。せめて応援の言葉を届けるつもりだった。応援に来てほしいと言われていたのに、足がすくむ。自分は何をしているのかと、葛藤することしかできない。
せめてここにいるべき理由を考えたところで、隣の悠希がここにいる理由──桜が誘ったからなのは言うまでもないが──に気づいた。彼女はここに、俳句を見に来たのだ。恐らく公募に出す句を詠み終えてはいないのだろう。桜もまだ詠み終えていない現状、それは新たな言い訳として飲み込めた。
試合が始まったのはそれから間もなくのことだった。一試合目は政涼対来山。昨年を鑑みると、橋枝のいない今、事実上の決勝戦とも言える。
会場の前方には赤と白の布を被った机が、ハの字に向き合っている。机と机の間には二つの垂れ幕。それを捲れば二校の熱戦が始まる。佐伯は緊張を落ち着かせるためか、大きく伸びをしていた。
「それでは対戦を始める前に、両チームの意気込みを聞いてみましょう。先に赤チーム政涼高校、代表の方、一言お願いします」
行司の指示があると、五人の中央に座る佐伯が堂々と立ち上がった。マイクを片手で持って胸を張る。
「こんにちは、政涼高校です。私達は昨年の全国大会で惜しくも四位という結果に終わりました。あの時の悔しさを今でも生々しく思い出せます。負けが決まった瞬間、氷水でも飲み込んだかのように血の気が引く瞬間を、何度も何度も夢に見ます。そんな苦しい思い出を抱えて、この一年間必死に練習を重ねてきました。私たち五人は全員三年生で、次はありません。今年こそ一花咲かせたいと思います。皆様、本日は応援よろしくお願いします」
割れんばかりの拍手が鳴り響く。立ち見の観客の中には地方テレビの中継まで来ていた。
「続いて白チーム来山高校、代表の方、一言お願いします」
誰もが政涼の勝ちを信じているだろうこの場で、来山の選手が立ち上がる。
「こんにちは、来山高校です。僕ら五人は俳句の知識ではきっと政涼の方々に太刀打ちできないと思います。ですが、俳句を楽しむ気持ちでは負けるつもりがありません。それどころか、その勢いで勝ちたいとまで思っています。いきなりの強敵に、今も手が震えていますが、目一杯楽しんでいきたいです! よろしくお願いします!」
拍手は先ほどより小さく聞こえた。恐る恐るマイクを置く彼を、隣の席の二人が小突いていた。
「両校とも素晴らしい意気込みをありがとうございます。それでは試合を始めます。この試合の兼題は『陽炎』です」
行司の形式的な、しかし試合への期待が隠しきれない声が響く。俳句甲子園は先鋒、中堅、大将の三本勝負。初戦を勝てるかどうかは大きく戦況を左右するだろう。だからこそ、一句目は出来の良い句が置かれやすい。いきなりの大勝負だ。
「まずは赤チーム代表の方、ご起立の上、二度俳句を読み上げてください」
政涼高校の句を誰もが期待していた。息を飲む音が会場中から聞こえる。瑠璃の語っていた、見どころでもある披講。悠希は両手を祈りの形に繋いで見守っていた。
『陽炎や路上ライブに猫の寄る』
読み上げると同時に垂れ幕が捲られ、悠希の手に力が入る。桜を窺うが、私語のできる空気ではない。
「続いて白チーム代表の方、ご起立の上、二度俳句を読み上げてください」
『陽炎と校舎と僕の写真かな』
悠希が「あっ」と声を上げた。この句には悠希を疼かせるものがあったのだろうと、桜は微笑む。好きな句と出会った時に無意識に声が出る。それは桜もよく知る感覚だった。
「それでは赤チームの句に対して、白チームの方、質疑をお願いします。質問のある方、挙手をどうぞ」
ここからは質疑応答が始まる。桜が恐れたそれが。
手が二本挙がり、早かった方の男子が指名される。
「陽炎や路上ライブに猫の寄る。景としては分かりやすいと思うのですが、陽炎と路上ライブというのはちょっと意味が近いのではないでしょうか」
政涼からは四本の手が上がる。最初に挙げた佐伯が当てられる。
「意味が近い、そうですかね。確かにどちらも外の様子ではありますよね。そして、近いと言うからには、きっとライブが陽炎のように、熱気に包まれているものだと感じていらっしゃると思います。しかし、下五の『猫の寄る』が妙に和やかだとは思いませんか。そう、このライブは猫が寄り付くくらい、落ち着いたものなんです。だから近いという指摘は当たらないと思います」
会場が拍手に包まれる。全国の舞台を経験していることもあって、返しが上手い。相手の指摘を否定した上で、句の深いところを見せていく。それは簡単なことではない。
「落ち着いたライブと言いましたね。だとすると、陽炎という季語は合わないと思います」
一本上がった政涼の手に、行司の指名が入る。
「もう少し季語と向き合ってほしいんですよ。陽炎っていうのは激しい季語じゃない。ゆらゆらと揺れて、視界がぼやける。そういう部分を見ていくと案外猫と似通っているくらいの柔らかい季語だって、僕は思うんですよね。そこの視点を持っていただけたら、この句の良さってものが見えてくると思います」
「では何故路上ライブというものを詠んだのでしょうか」
桜が肩を震わせる。どうして、と声を漏らした。俳句の基本は目に映る光景を詠むことだが、この質問はその基本を否定するものだ。だというのに。俳句甲子園ではこの手の質問がやけに多い。競技である以上、選手は論理的な回答を求められるため、景色の整合性が必要になってしまう。この季語はどういう季語だから、こういう景色と合うのだと、質疑応答のために俳句が論理的な景色を得てしまうのだ。
桜は聞いているだけでも苦しかった。もしこの言葉が自分に向けられたら、果たして俳句を好きでいられるのだろうか。自分が詠みたい故郷の景色が、論理性の前に否定されてしまったら。膨れ上がる恐怖に対抗すべく、桜は胸を強く押さえていた。
しかし。その時、待ってました、とばかりに佐伯が立ち上がる。
「それは私が、私たちが詠みたかったからです!」
挑戦的に笑う佐伯。会場の保護者も、引率の先生も、相手校も、政涼のチームメイトも、桜も、全員が耳を疑った。論理性の欠片もない、前代未聞の発言だった。
どよめき。今まで私語を慎み、選手の一言一言に拍手を投げるばかりだった一同から、言葉が生まれていた。そのどよめきは桜の脳内にこびりついて、それ以降の試合を、覚えてはいられなかった。
午前の試合が終わると昼休憩になった。会場前の公園で鳩を見つつ、サンドイッチを食む。悠希はずっと、動脈が切れたように喋り続けていた。
「来山の句もすっごく好きでした。陽炎と校舎と僕の写真かな、写真のピントが徐々に合っていく感じと言いますか、敢えて写っているものを一個ずつ見せていく感じがとても上手だなって思ったんです。でも政涼さんの、語順が不思議だっていう指摘も確かにって思って、見えている順番は多分、『僕』が最初なんですよね。人のいる写真って、そこから見ちゃいますから」
でもそれがまた良さでもあって、と語る悠希だが、「でも」の言葉と共に笑っているような、困っているような表情になる。
「でも、あの句が勝ったのは、ちょっと分からないかなって思いました。遠山先輩はどう思います?」
作品点での差はほとんどなかった。やや政涼が勝るかどうかだったが、鑑賞点、つまりディベートの評価で政涼が負けた。後の二句を政涼が制したためチームとしては政涼の勝ちだが、誰もが納得しきれない一敗だった。
「好きな句なのに、勝ったことが不満なのですか?」
「不満と言うと違うんですけど、俳句としては粗があると思いますし、きっと俳句としては政涼さんの句の方が優れているんじゃないかなって思うんです。勿論私の審美眼が正しいわけでもないと思いますけど、遠山先輩も分かりませんか?」
それは……と言いかけたところで、二人の肩を叩く者があった。
「やあ。応援来てくれたんだね、嬉しいよ」
佐伯だった。歯を見せて笑う彼女はひまわりのようで、桜の目には眩しい。
「すみません、こちらから挨拶に伺うべきだったのですが」
「良いよ良いよ、来てって言ったの私だから、来てくれただけで十分。それより、聞いてくれたかな」
何を、とは聞かない。あのディベート、詠みたいから詠んだという回答だ。あの言葉が桜の胸の中で何度も鳴っていた。
「聞きました。とても、驚きました」
「ありがとう。聞いてくれるって信じてた。あれは橋枝に対する供養だよ。本当は橋枝との試合で言ってみたかったなあ。あの子、変な子いるじゃん。富山さんだっけ」
「苫屋です、苫屋瑠璃」
「ああ、そう。苫屋さん。あの子がどう返してくれるのか、聞いてみたかった。勿論、あなたに聞かせたかったのが一番」
「私に、ですか」
「俳句甲子園を変えたいって気持ち、私が預かりたい。あれはその意思表明。あなたの分まで戦うよ」
桜は何も言えなかった。佐伯の言葉で肩が軽くなっていることだけを感じつつ、どう返せば良いのか分からぬまま呼吸だけが続く。
桜の無反応に手持ち無沙汰なこともあったのだろう、佐伯は不意に気になって、悠希の顔を覗き込んだ。彼女は会話の始終、顔を隠すように俯いていたから。
「ねえ、もしかして君が参加しないって言った子?」
「あ……えっと……」
視線を逃がし続ける悠希を不思議に思う二人。桜はやがて、悠希が人見知りだったことを思い出す。
「そちらは竹柴悠希さんで、うちの新入部員です。人見知りが強いそうなので、あまり……」
「竹柴、悠希さん?」
「え、あ、はい」
悠希の顔を、腕を、服を、足を見て、佐伯は首を傾げた。
「あの、聞いて良いのか分からないんだけど……もしかして、男の子?」
違いますよ、と桜が言った頃にはもう遅く、悠希は血の気のなくなった顔で大粒の涙を落としていた。嗚咽混ざりの泣き声は、普段の声の高さではない。
「私……ちがう、男じゃ……ない」
震える肩を佐伯が支えようとすると、悠希はその手を振り払った。
「ああ、そっか。これだから、来ちゃダメだったんだ」
悠希が走り出すと、一時のチャイムが鳴った。昼休憩はここで終わり。佐伯は何も呆然としたまま、桜に促されてチームの元に帰っていった。
「文字っていうのは、すごく便利なんです。だって、私の声なんて、今になってしまえばどんなに頑張っても本物の女の子とは違う。でも、文字だけなら私だって喋っていられる。文字の上だけなら私だって本物の女でいられる。だから先生が文芸部を勧めたのは正しくて、私も声を上げて良いんだって思えたんです。でも、俳句甲子園は、そうじゃなかった。本当の声を出す必要があるんです、それは私が俳句をする意味とは矛盾していて、ダメなんですよ。だって、声を出したら私が偽物だってバレてしまうじゃないですか。そんなの、また喋れない場所に戻されるみたいで、怖いんです、はい」
桜がようやく見つけた時、彼女は既に泣き止んでいた。誰に話すでもない独り言は、まるで誰かと話しているかのようだった。見かけ以上に広い公園を走ったため、桜の喉は渇ききっている。だが、涸れるまで泣いたのであろう悠希を見てしまえば、そんなことも忘れてしまった。
「どんな言葉を掛けるべきか、果たして私には分かりません。慰めのつもりで竹柴さんの心を傷つけてしまう可能性も十分に分かっていますから、滅多なことは言わない方が良いのだと思っていました。ルリちゃんや文月さん、吉松さんも似たような気持ちで、一切何も言わなかったのだと思います。でも、今は敢えてはっきりと言葉を伝えるべきだと思いますから、拾いたい言葉だけ拾ってください。私は竹柴さんのことを女性としか思っていません。それは配慮の結果ではなく、例えば私がルリちゃんを女性としか思えないことと同様なのだと分かってください。その上で、今回は不慮の事故だったのだと、割り切ることはできないでしょうか」
悠希がスカートの端を掴んで俯くと、ミディアムの黒髪が顔を隠す。
「割り切ってます。割り切ってるんですよ。だってあの人に悪意はなくて、違和感を口にしてしまっただけなんでしょうから」
「でしたら、佐伯さんともう一度話をしてみませんか。彼女もきっと……」
口をつぐんだ。かつて瑠璃が抜け殻になった時の、あの目を思い出したから。悠希は黒髪の隙間から、虚ろに桜を見つめる。もう、良いんですよ、と。そうして、顔を上げて髪をかき上げた。
「もう、こんなの慣れちゃってますから。悪いのはこんな体に生まれた私で、皆は普通の反応を返しているだけなんです。それを理解しちゃったら、割り切るしかないじゃないですか。全て悪いのは私で、私の存在が不慮の事故なんです。分かってるけど、悔しいし辛い。それだけのことですから、大丈夫です、私のことなんか気にしないで良いですよ。試合、始まってますよね。ほら、早く戻りましょう?」
桜は彼女のことを初めて「怖い」と思った。いつもの表情で笑っている、彼女を。
試合はすぐに終わった。政涼は優勝を果たし、佐伯は地方テレビの取材を受けている。観客も他校の生徒も皆帰った中で、桜と悠希だけが残っていた。もう一度話をしてほしい、という桜の言い分を受け入れたからだ。勿論、悠希に何か心境の変化があったわけではないが、ただ話の途中だったという事実だけを許容したに過ぎない。
佐伯は取材が終わるや否や、二人の元へ歩いた。
「やあ、遅くなってごめんよ。ここじゃ何だし、歩きながらで良いかな。悠希さん」
「……はい」
会場を出て、公園の散歩道に沿って靴音を鳴らす。
「私はさ、あんまり言葉を選ぶのが得意じゃないんだ。そう言うと皆して、俳句やってるのに? って聞いてくるんだけど、関係ないんだよ。もしかしたら伝わるんじゃないかって思うから言うけどさ、言葉を選ばないから俳句なんだよね。言いたいことそのまま言って良い場所って、ここにしかない」
「それは私も、分かります」
桜は二人の一歩後ろを歩くように努める。何かあれば口を挟むが、極力見守ろうという態度だ。
「そんな不器用な私を、まず許してほしい。その上で言いたいことをもう少し言わせてほしいんだ。私は悠希さんのこと、びっくりするくらい綺麗な人だと思ったよ」
桜には、悠希が拳を固く握り締めたのが見えた。
「それは私が、男だからですよね。皆言います、男に見えないって。普通に可愛いよって。男とは思えないくらい綺麗だねって。その言葉が私たちを一番傷つけるんだって、貴女は知らないからそんなことが言えてしまうんですよ」
「ううん。違うよ。女の子だって、そんなに綺麗な子滅多にいない。私は悠希さんが本物の女の子だったとしても、綺麗だって思ってたよ」
「じゃあなんで!」
声が崩れていた。元々喉に引っ掛けるような裏声で話していた彼女は、大きな声など出したことがなかった。涸れきった涙を押し出すような声。
「じゃあなんで、私に、あんなこと聞いたんですか。関係ないって言うなら、聞かなくて良かったじゃないですか」
佐伯は桜を一瞥して、こう答えた。
「私が、聞きたかったからだよ。俳句ってさ、詠みたいものを知らないと詠めないんだ。よく見て、よく聞いて、よく匂って、よく食べて、よく触って、相手のことを端から端まで知らないと、詠めない。だからいつの間にか、観察力では誰にも負けなくなったんだ。悠希さんはそれ、化粧してるよね。私は化粧とかしたことないから聞きかじりの知識しかないんだけど、それだけ自然に見えるのって大変な努力が必要なんでしょ? 後ろに立った時、私の安っぽいシャンプーとは全く違う優しい香りがした。声の出し方がすごく珍しかった。そして肩に触れた時、筋肉の付き方が違うって思った。もしかして、とは思ったけど、確証がなかったから聞いたの。聞きたかった。そんなに綺麗になろうと頑張れる理由が知りたかった。あなたが戦っているものを知りたかったんだよ」
何、それ。と聞こえた。悠希が足を止めるのに従って、二人もその場に留まる。
「そうですよ。私は男だから、こんなに頑張って綺麗になるしかないんです。満足したら、もう一人にしてください」
悠希は踵を返すと、桜の隣を抜けて一人、夕焼の方へ歩いて行く。それを追い掛けることは誰にもできなかった。しかしそれでも、佐伯は声を上げた。
「あなたなら大丈夫だから! 私は信じてるから!」
真っ赤な空。血を流したような空が、桜の目に眩しかった。
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