俳句甲子園から数日、公募の締め切りまで数日。桜はいよいよ自分の俳句と向き合う時間が来たと感じた。桜の俳句は、常に故郷の写し絵だった。ダムの底に眠る生まれ故郷を偲んだ俳句。それを誰よりも知っているからこそ、俳句が詠みたいです、と言う桜の言葉に、瑠璃は無言で答えた。

 電車を終点まで乗ると、バスに乗り換えて一時間。街が町になり、一面の田んぼになるまでの車窓を、瑠璃は楽しそうに眺めていた。ようやくバスを降りると、草の香りが鼻を抜ける。

「一年振りですか。ここは変わりませんね」

「そうですね。この様子なら、開発もしばらくは手付かずでいてくれるでしょう」

 ふうん、と道端の雑草を眺める瑠璃。麦わら帽子に白のワンピース、その露骨さは何か本の真似でもしているのだろう。そう分かりつつも、桜が見惚れてしまうには十分だった。

「行きますよ。日差しもありますから、水はしっかり摂ってくださいね」

「む。分かってるです、母親みたいなこと言わないでください」

 くすくすと笑い合って、山道を上り始めた。自生する雑多な植物に目を輝かせながら、とてとてと歩く瑠璃。虫に刺されないと良いのですが、なんて思いながら、その姿に心揺らす桜。目的地に着くまで、時間はあまりに早く過ぎた。

 青。あるいは緑。ダムは空か木々を映して、底が見えない。桜はともすれば泣きそうな目で、水底を見ようとしていた。ここに来たら、いつも自然と俳句が詠めたはずだった。それが叶わない理由を探ろうとは思いつつ、直視できなかった。故郷が遠い存在になってしまったことを、桜自身も気付いていたから。 

「ルリちゃんは、俳句って何だと思いますか」

「また、難しいことを聞きますね」

 瑠璃は帽子を脱いで首を左右に振った。髪の居心地を整えてから、答えを考えている。

「遊び道具のひとつ、ではなくなってしまったのは確かだと思うです。同じおもちゃも使い続ければ特別な愛着が湧くというものですが、それとも違う。これをさくらんに言うのは申し訳ないのですが、ルリはもう俳句を詠まないと思うです」

「そう、なのですね」

 ダムが村を沈めたように、誰かが大切にしているものは、いつか大切ではなくなる。瑠璃にとっての俳句は、もう過去のものなのだ。桜も薄々気付いてはいたが、認めることだけができずにいた。

「ルリがそれに応えることはできないですけど……さくらんの気持ちなら、多分分かります」

 瑠璃は足元の砂をひとつまみ取ると、焼香のようにダムに放した。

「さくらんは、俳句がないと生きていけないんです。育ての親を忘れることなんて、できないんですよ」

「それは確かに、その通りなのだと思います。そして私も、ルリちゃんの気持ちなら分かる気がします。ルリちゃんにとっての俳句は、あの俳句甲子園で終わってしまったのですよね。ルリちゃんがいて、私がいて、小原先輩、文月さん、吉松さん、あの五人で挑む舞台だけが、ルリちゃんにとっての俳句だったのではじゃないでしょうか。だって、私もきっと、そうだからです」

「おかしなことを言うんですね」

 桜は自嘲気味に笑うと、こう続けた。

「そうですよね、おかしいですよね。でも、どうしてでしょうね。自分にとって俳句とは何かと考えたとき、浮かぶのは部室でのあの日々なのです。ここに来ても俳句が詠めないということも、その証明なのだと思います。もう私の俳句は上書きされて、故郷よりも大切な思い出を抱えてしまったのでしょう。でも、そう気付くのが怖かったのです」

「…………」

 瑠璃は無言で桜の手を取った。涙を耐えきれなくなった彼女を支えるように。共に過去と向き合うからと、大丈夫だと言うように。

「こんなことなら、もっと、もっと皆と一緒にいたら良かった。意地を張って、部室に行かなかった。だって怖かったんです。小原先輩がいない部室を直視してしまえば、あの頃の日々はなくなったんだって、そう言われている気になるんだって、確信めいた予感に苛まれていたんです。……そんなことをしている間に、高校生活も終わろうとしている。何もできないまま、何かしたいと思うばかりで、私はこれからどうしたら良いのでしょうか」

 桜の涙が瑠璃の手の甲に落ちて、桜の手に伝う。

「さくらんは不器用ですけど、過去と同時に今を大切にできる人間です。だから、大丈夫ですよ。さくらんは進学しますよね、そうしたら、そこで一緒に俳句をする仲間を探したら良いんです。大切なものを見つけたら、きっとまた俳句が詠めると思うです。今は大切にすべきものを見失っているだけ。だから、大丈夫です」

 そう言って離された手を、桜は咄嗟に掴み直した。何をしたか、何をされたか、お互い理解が追いつかないまま目を合わせる。桜は思考が追いつかないまま、頭の中にある感情をそのまま言葉にした。

「ルリちゃんと一緒が良い」

 言ってしまってから、言ったことを理解しては顔を赤らめた。否定に走ろうとするも、本心なだけに否定したくなかった。それを知ってか知らずか、瑠璃は首を横に振る。

「ごめんなさい。一緒には行けないです」

「どうしてですか」

 瑠璃は言葉に迷って、桜の手を払い除けてから背を向けた。後ろに手を組んで、口笛でも吹きそうな態度で返答を考える。桜には、それが嘘の用意であることも伝わっていた。

「旅に出るからです。遠いところに行こうと思うので、また会うのはいつになるかも分からないでしょう」

「どうして、そんな悲しい顔で言うのですか」

 顔が見えなくても、桜には伝わる。この二年、瑠璃のことを誰よりも見てきたのだから。

「私だって、怖いものは怖いからですよ。でも大丈夫です、ルリはさくらんのことを忘れませんし、さくらんも私のことを忘れないでいてくれるって、信じてますから」

 嫌だ、とは言えなかった。その手を取り直すこともできなかった。ほんの一メートルの距離に、果てしない孤独を覚えた。触れてしまえば、しゃぼん玉のように壊れてしまうかもしれない。言葉を届けようとすれば、陽炎のように揺らいでしまうかもしれない。変わってしまうことが怖かったのだ。他人の変化に疎いのではない、桜はただ、他人の変化を認めたくなかった。瑠璃がもう一度いなくなることが嫌だった。

 何か、何か声を出そうと思った。行かないで、と言うことは簡単なはずだった。それでも、湧き出た言葉はもっと簡単な、十七音だった。


 花は葉にさよならを言うことが愛


 頭の中で二回読み上げると、桜は去年のことを思い出した。瑠璃と共にここに来た、去年のことを。ダムの向こうに並ぶ木々の中にある、遅咲きの桜のことを。

「ルリちゃん」

「何ですか」

 瑠璃は振り向かない。

「去年ルリちゃんが言ったこと、今更思い出しました。開花直前の桜の樹皮からは本物の桜色が取れるのだと。桜が散ってから一年間、桜が咲く短い期間のためだけに力を蓄えているのだと。それを聞いた時、私は次の俳句甲子園に向けて頑張ろうという意味だと思っていました。でも、違ったのですね。だって私の人生、ルリちゃんがいるだけで桜色の毎日でした。私の桜は、まだ散ったことさえなかったのです。これから、寂しくなると思います。泣いてしまう日もあるでしょう。それでも私は待っています、桜の名に誓って」

「ふふ」

「笑わないでください」

「ごめんなさい、なんだか可笑しくて。でも、ありがとう」

 瑠璃は桜に向き直り、目を合わせないまま距離を詰める。泣いている顔を見せたくなかったのだ。そのまま桜の胸に頭を置くと、さようなら、と口を動かした。

「さようなら、ルリちゃん」

 ダムに背を向けて歩き始める。お互いが相手の歩幅に合わせようとして、一歩の小さい帰り道だった。

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