竹柴悠希

 この世に悪は存在しない。誰かが悪と呼ぶそれは、誰かにとっての救いなのだ。勿論、当人が救いだと思って縋るものが、果たしてその人を救うかはまた別の話である。竹柴悠希という女はまさにその救いを求めて、本人さえ半ば悪だと思っている行為に身を染めていた。

「ただいま」

 便宜的に発する挨拶に返事はない。両親はリビングで酒を飲みつつ、くだらないバラエティ番組にげらげらと笑っている。悠希がそこに顔を見せると、顔をしかめてから、何も無かったように笑い直す。

 悠希が「女になって」から、両親は彼女を放棄した。一人っ子の長男で、将来は家業を継ぐのだと言い育ててきた息子。それが男ではなくなったという衝撃が二人にはあまりに重く、目を逸らすことしかできなかった。二人が反対しなかったはずはないが、「邪魔をするならこの場で死ぬ」と言って首にナイフを向ける彼女に、何を言える人間がいようか。

 自室に戻った悠希は、貯金箱に詰め込んだ札束を一枚一枚と数えながら、狂ったように笑い声を上げた。

「大丈夫、大丈夫」

 貯金箱を机の奥に隠すと、鶴を折りながらベッドに入り込んだ。棺桶によく似ているベッド。それは悠希が小学生の時に作った、元は箪笥の引き出しだったものだ。競馬の騎手が身長を縮めるためにそんなことをしていると聞いて真似したもので、以来、悠希はそこで眠ること以外に安心感を覚えられなくなってしまった。


 ***


 ろくに通ってもいない中学を卒業するに当たって、悠希は進学先の高校を探していた。ただの進学先ではなく、女子として通える高校を。両親の協力もなく、ただその身一つで県内の高校を訪ね回り、事務室で怪訝な目を向けられ、校長から「温かい言葉」を貰う毎日。日に日に近づく卒業の日と、日に日に増える鶴の数。

 そんな悠希にとってインターネットは救いそのものだ。女だと言えば女でいられる環境、女だと認めてくれる人間、そんなものを与えてくれる。女じゃないだろうと指摘をされたところで、それを確かめる術は相手にない。現実に存在するあらゆる危険から守られた世界。そこに依存したのは当然のこととしても、それはどうしようもない空虚だった。

 女だと認めてくれる人間はいても女だと証明する手段はないし、実際に男が女の振りをしていることも珍しくはない。詰まるところ、インターネットにおけるコミュニケーションとは、一種のロールプレイングに過ぎないのだ。人形遊びで女役を喋らせているだけで、彼女が女である証明にはならない。

「……死にたい」

 限界と呼ぶには簡単すぎるだろうか、彼女はとうの昔に死んでいるようなもの、いや、生まれてすらいないのかもしれない。一体どこに、女を名乗ると親に殴られる女がいるだろうか。一体どこに、トイレを使うために通報を怯える女がいるだろうか。一体どこに、生きることが一つの選択肢に過ぎない女がいるだろうか。彼女はもう、限界だった。自分の生きる理由が明確でないと、生きない理由の方が今にも勝ってしまうところだった。

 虎穴に入らずんば虎子を得ずとはよく言ったもので、悠希は人形遊びだけではない、本物の証明が欲しかった。現実で女として見られなければいけなかった。

『明日の夜、会えませんか?』

 県内に住む、数回話した程度の男にそう送ると、悠希の初めての悪行が始まった。何を着るか迷って、できるだけ大人に見える服を選ぶ。以降のことはどうでも良かった。何をされようとも、仮に殺されても良かった。ポケットに忍ばせたカミソリは保険に過ぎないが、使うことはないだろう。いつ書いたかも覚えていない遺書が棺桶の底にあることを確かめると、夜の街へと歩き出した。すれ違う人は彼女のことを見ることもなく、フレアスカートが自慢げに風を含む。

「君がユキちゃん?」

 噴水の前で待っていると、それは来た。三十か、二十代後半といったところだろうか、煙草を吸っていそうな人間だと思った。道徳的な彼女が自己紹介をしようとするが、悪に染まろうとする今、そんな必要はないだろうと引っ込める。

「若いね、何歳?」

「十六」

 本当は十四だとか、早生まれだから年度末に十五なんだとか、頭の中には次々と会話が生まれていた。何も言えないのは、悪になりきれない彼女が怯えているからだ。

「緊張してるの? 借りてきた猫みたいだね」

「……あの」

「ん?」

「借りてきた猫っていうのは……本当に大人しいんですか? きっと落ち着かなくて歩き回ると思うんです」

「ああ、ユキちゃんらしいね。いつも難しいことを考えようとしてて、実は結構気になってたんだ。立ち話も何だし、どこか入ろうか。食べれないものある?」

 首を大きく横に振った。横髪が鼻をくすぐって、前髪が崩れたかもしれないと不安になりつつ、それに着いて行く。駅ビルの上層階、レストランフロアの洋食店に入る。赤いテーブルクロス、レモンの入った水、柔らかく香るソースの匂い、最初に浮かんだ言葉は「場違い」だった。僕が払うから気にしなくて良いよ、なんてそれは言った。オムライスが四桁の店など、来たことなんてないと思ってから、そういえば昔家族で来たことがあるかもしれないと思い出す。窓の外に見える夜景、遠くに海の見える街並みは確かに覚えがあって、鼓動がいくらか平常を取り戻したように思う。

「どうして会いたいなんて言ったの?」

「理由が要りますか? あなたがいて、私がいて、それだけじゃダメですか」

 それはウェイトレスに声を掛けると、オムライスを二人分頼む。渇いた喉に水を通すと、レモンの香りが鼻を抜けた。

「それだけでも良いとは思うよ。でもね、敢えて聞くってことは僕がそれを知りたいってことなんだ。ユキちゃんの普段言ってることを見てても、会おうだなんて言ってくるとは思わなかったからさ」

 悠希は適当な理由を言うかと思案してから、嘘ではないことを言った。

「両親と不仲で、寂しいから誰かに会いたかったんです、はい」

 友達は? と聞かれても首を振ることしかできない。やけに渇く口で唾液を飲み込みつつ、あなたは? と聞いた。それの返事を遮るようにオムライスが届いた。ふわりと香る玉子の甘さ、ソースの香ばしさが胃をくすぐる。

「会いたいって言われたから会ったと言っても、ユキちゃんは満足しないんだろうね」

「はい。というか会いたいとは言ってません」

「そういうところかな」

「はい?」

「君が普段考えていることが好きなんだ。そうやって、臆病さと大胆さを兼ね備えたような性格に惹かれたんだよ。良かったら僕と付き合わないかい?」

 耳が遠くなったのかと思った。言われたことがどういう意味なのか、理解するのに時間がかかった。そして、理解した途端に耳が熱を持った。

「あの、そういうのは――」

「返事は今じゃなくて良いから、熱いうちに食べよう。僕の一押しなんだよ」

 味なんて分からなかった。コンビニのオムライスとどう違うのか、それを判別できるほど舌が肥えていないなんて失礼な言い訳をしたと思う。突然の告白に動揺したのではない。ただ、自分は本物の女じゃないから付き合えない、なんて言いそうになっていたことが怖かった。何のために会いに来たのか、まるで分からないではないか。

 夕食を終えると、何か適当な世間話をしたと思う。若いのにインターネットを扱うなんて珍しいとか、学校は不登校で、たまに保健室に顔を出しているだけだとか、つまらない話をした。店を出ると、夜風が妙に温い。食後の運動ということで、駅の近辺を歩いていた。人が多いのは駅の正面ばかりで、角を一つ曲がれば人の影がない。

 お互いにそういう意識があったのだろう、それは悠希の手を取った。返事が欲しいという合図だと、彼女はすぐに察する。悠希は繋がれた手に力を込めると、今にも泣きそうな顔で告げた。

「良い……ですよ、はい」

「付き合ってくれるんだね?」

「いいえ」

 頭の中を巡る、悪の一文字。自分は今、それを騙しているのだという罪悪感。そして自分が今、彼の中では女でいるという事実が悠希の頬を緩めた。明かりの少ない道で良かったと思う、こんな醜い顔を見られるわけにはいかなかったから。

 欲望が満ちるには、悠希の傷は深すぎた。まだ足りないと、声に出しそうになる。繋がれていない腕をそれの胴に回すと、ビルの陰で二人の足が止まる。骨格で性別が明らかになってしまう可能性には怯えつつも、そんな不安で彼女は止まらない。

「何してくれても、良いですよ」

 口元は笑っていただろう、こう言えば何をされるか理解していて、そうされてしまう未来に涎が止まらない。駅を五分も離れればホテル街があるし、それも元々はそういう目的で来たのだろうことも理解していた。男というのはそういうものだ。そして、そういう男に性欲を向けられること以上に、女を自覚する瞬間はない。

 そっか、と言って頭を撫でられる。告白された時の比較にならないほど、鼓動が煩かった。この鼓動さえも相手に伝わっているだろう、溢れんばかりの唾液に吐息が熱を孕む。それは悠希の体を強く抱きしめた。ほうら、簡単。早く次を言えと、縋るように背中に掴まる。

 だが、それは悠希の期待には答えなかった。悠希の背中を二度叩くと、引き剥がして言う。

「それはね、ダメだよ」

「なんで?」

 思い出したように足元を風が抜けた。その冷たさが悠希の熱を冷まし、途端に涎が止まろうとする。

「女の子が簡単に体を許すんじゃない。焦らなくて良いから、僕と付き合おう」

「どういうこと? 私じゃダメなの?」

「君が良いから、順序を踏みたいんだ。分かってくれる余裕はないかな」

 それが言いたいことを、悠希が分からないことはなかった。分かって良いのかが分からなかった。だから、もっと単純なことを聞こうと思った。

「私としたいって思う?」

「思うよ」

「じゃあ、分かった」

 彼の言葉に涎が噴き出す。レモンでも食べたように口の中が唾液で満ちて、これ以上は喋れなかった。これが女なのだと、これで女なのだと、悠希の思考は喜びに満ちていた。後に改めて言われた告白を快諾すると、悠希に初めての恋人ができた。これで明日も生きていけると思って涙が出る。拭う代わりにキスをされて、二人の夜が終わった。名前を聞き忘れていたことに気付いたが、もう彼は見えない。

 後になって彼の名前と、二か月前に恋人と別れたらしい話を聞いた。そして、彼とは二度と会わなかった。

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