高校探しは前向きに取り組めた。彼との出会いが、女としての自覚が悠希を奮い立たせていた。どんな侮辱を受けようとも、彼女には救いがある。今日もまた、校長に頭を下げては応援を受ける日々。ニュースで見る就職難は、きっと同じくらい苦しいのだろうと思いながら。

『誰か、市内で会える人はいませんか?』

 掲示板で書き込むと、四箇所から返事が来た。元気なものだと感心しながら、一番返事の早かったそれと約束を取り付ける。日中の絶望を晴らすには、新しく、彼女を女たらしめる道具が必要だったのだ。先日の彼では満たされない、もう、女として認められてしまったから。彼女に必要なのは、女だと判定される瞬間なのだ。

「君、ユキ?」

「はい、そうです」

「ふーん。カラオケで良いよね」

 強引に手を惹かれて、存在しない子宮が疼いた。涎を我慢しつつ、頬をつねる。今にも緩みそうな顔に喝。

「十六なん? 童顔やね」

「よく言われます。妹の方が背も高いし、大人っぽいんですけどね」

 今更だから嘘を吐け、汚れるなら完璧に汚れて見せろ。

「いやいや、君の方が大人やん?」

「と言いますと?」

「だって、今からするんだぜ?」

 耳元で囁かれて、子宮が、鷲掴みにされたように疼いた。あまりの快感に立っていられなくなり、その場にへたり込む。犬みたいな呼吸をしているところを見られて、それの顔部分もにやりと歪んでいた。それに体を支えられて立ち上がると、カラオケルームへと連れて行かれる。

「ユキって結構変態やろ。その歳でこんなことしとるのもそうやけどさ、顔がエロいよ」

「何ですかそれ? 馬鹿にしてます?」

「だってそうやろ?」

 迫ってくるそれの顔を、避けようとはしなかった。彼とそれの、広義的な間接キスだなんて思いながら口を重ねる。皮膚が固い、無駄に大きい唇が不愉快。べちゃべちゃと口を舐めてくるのも気持ちが悪い。それで喜ぶ女はきっといない。だが、きっとそれの中では上手いキスをしているつもりなのだろう。カラオケの画面に流れる新人アーティストのMVを横目に、悠希は何も言わずに付き合う。歯と歯の間をこじ開けるように差し込まれた舌を、いっそ噛み切ってやろうかとも思った。そんなキスをしたのは初めてだったから、次はキスが上手いのを探そうと思った。

「こういうことするの、初めてでしょ」

「二回目です」

 こういうこと、が何を指すかは諸説あっただろう。誰かと会うのは二回目、性行為なら初めて、キスは二回目、こんなキスは初めて。それの目の部分が悠希の胸を見ていたから、きっと性行為の話だ。だから、二回目だと答えておく。気持ちの悪い男には、気持ちの悪い意地を張りたかった。

「脱がして良い?」

「お好きに」

 悠希のブラウスが開かれ、下着は上に引っ張られる。何も成長していない胸を見られるのは屈辱だった。だから、それが疑問を抱いてしまう前に、さも当然といった素振りで釘を刺す。

「ごめんね、小さいよね」

「良いよ、俺小さいほうが好きやけん」

 乳飲み子のように食い付く彼を見て、ようやく悠希は興奮を取り戻した。いくら小さくとも、乳房とは女の象徴。彼がそこに執着している間、死角となった顔面に涎が溢れる。抑えきれない笑いに震えていると、それを快感に耐えきれない様子と勘違いしたのか、彼は悠希を押し倒して舌遣いを荒くする。悠希はますます笑いが止まらなくなり、おぼろげな天井に手を伸ばした。天使を歓迎するように広げた両手は、何を掴むこともない。このまま女として死ねたら幸せだろうと考えていたら、意味のない前戯が止まる。

「そろそろ挿れて良い?」

 ズボン越しに彼の勃起した性器を触らされる。随分と固くなっているそれに興奮する一方で、自分にもこれがあるのだと虚しさを覚えた。返事を寄越さないでいると、催促されてしまう。感情の上では受け入れても良いのだが、生憎受け入れる器官がない。生理中なのだと言うと露骨に苛立ちを見せる彼だったが、思いついたようにこう言った。

「じゃあ、口でしてくれん?」

 涎の代わりに出たのは汗だった。冷静になると、他人の男性器を目の当たりにしたこともない彼女が、ましてやそれを咥えるなど、想像したこともなかった。もし自分に膣があったとしても、恐らく拒んでいただろう。膣がないからこそ、受け入れる余裕があると思い込んでいたのかもしれない。

 悩み、躊躇う彼女を見て、彼は察する。

「もしかして口は初めて?」

 こくりと頷いた。前戯の下手な男ではあるが、処女を抱いた経験くらいは幾らかあるのだろう。

「じゃあ、一万でどう?」

 足りない動機を金銭で解決できると思い込んでいるのも気持ちが悪い。直ちに断ろうとしたが、悠希は面白いことに気付いてしまった。自分の口に一万円の価値があるらしいということだ。男の口ではダメだ、彼は女の口に一万円を支払おうとしている。これほど愉快なことはない。相手の思考などは明確ではないのだ、相手が悠希を女と思っているか男と思っているかは、言葉だけでは真には分からない。だが、金銭は形ある証明。金を払うかどうかが、悠希を男か女か判断してくれる。

 そう気付いてしまった時、悠希は彼の性器を含んでいた。なまじ自分の体に存在する器官であるため、どこを触ったらどういう刺激が発生するのかも理解している。彼はすぐに射精した。突き刺さるような酸味、鼻に抜ける腐った海のような香り、喉にこびり付く粘性。どの方面から言おうとも吐き気のする液体を飲み干した。

 事後の彼は悠希に一万円を支払うと、小遣いにするように言った。次は最後までしようだなんて不可能なことを言うから、笑って頷く。

「あ、最後にもう一回キスして良い?」

 気持ちが悪い。




 高校を訪ねては断られ、男を呼び出しては金銭を受け取る日々。金銭を払わない人間にも出会ったが、そういう時は翌日一日を掛けて男と遊んだ。奴らは人間の形をしているだけなのに人間らしく振る舞うらしく、まるで個性があるかのように反応が多種多様だった。中には性欲の枯れた老いぼれで、行為なしに金銭を渡す男もいる。

 悪行も十回を数えたところで、悠希の高校探しに進展が見られた。家に近い高校は中学の人間がいる可能性を考慮して避けていたのだが、女としての自信が支えられている今、そんな人間に同一人物だと思われることはないだろうと思えた。その先に辿り着いたのが橋枝高校。家に近いだけあって通学は楽だろうという程度の考えだったが、悠希はここで先生と出会うことになる。

 本来は事前にアポを取るべきなのだろうが、悠希にその手の常識はない。ろくに学校に行っていなければ、ろくに現実の人と関わってこなかった。人形遊びばかり得意になった彼女に現実の地面は固い。実は今まで事務室で追い返されたうちの半数は、そういったアポの都合なのだが、それに気付いてもいない。

 玄関チャイムを鳴らすと、インターホン越しに入学に関する相談だと伝える。資料を渡そうかと言われるが、特殊な事情だと伝えると事務室に通される。ここまではいつも通りの流れだった。

「女子として入学させてくれる高校を探しています」

 そう言った時、不可解な目を向けられるのは当然だった。悠希は見た目も声も、簡単には男だと思わせない程度に完成していた。しかし、事情を説明するとやはり難しい顔をされる。そして校長に相談するという流れもいつも通りだった。

 校長室に案内される最中で、先生とすれ違った。先生は用事の途中だったが、悠希の目を見るや否や立ち止まる。

「そちら、他校の生徒ですか?」

「いえ、入学希望の方だそうですが、事情があるようなので校長に」

 先生は同行すると言い出した。長身で体躯もしっかりとした男性に、悠希は怯えを感じたが、その左手の指輪を見て安堵する。薬指に輝く銀色。不思議と安心感があった。

 校長室に入ると、丸みのあるグラスにお茶が注がれる。天井周りには歴代の肖像画が並び、目の前では茶色スーツの校長が気難しい顔をしている。

「竹柴悠希さんだね。聞いた限りでは戸籍上男子ということだけど、どうして女子として通いたいのかな」

「それは……私が女だからです。女が女として生きてはいけませんか」

 どういう訳か、悠希は先生が何か助けてくれるような気がしていた。部屋の隅で腕を組んでいる先生に視線を送るが、二度頷くばかりで何も言わない。

「女子として生きたいというのは竹柴さんの意志だから尊重するよ。でもね、学校には他にも人がいるんだ。その人たちもそれぞれ意志を持って生きているわけだから、どう擦り合わせるかは考えないといけない」

「どういう意味ですか」

「その手の病気には知識がないけれど、体は男子なわけでしょう。例えばトイレや更衣、後はプールなんかも困るんじゃないかな。竹柴さんは勿論、他の生徒も。そこはどう考えているかな」

 悠希は怯んでいた。今まで、きちんと向き合ってくれる人間がいなかったから、具体的な質問に答えを考える機会がなかった。何も言えないながら、何か言わないといけないという焦りが汗を垂らす。口ばかりぱくぱくと動き、金魚のよう。女かどうか以前に、人間として惨めだった。聞かれたことに返答を出せないまま、時計の針と呼吸音が耳に煩い。せめて視線を校長に向けたところで、穏和な笑みが返って来るばかり。虚しくて、泣きそうだった。

 その時、悠希は水の音を聞いた。川のせせらぎにも聞こえたが、丘の上に立つこの学校にそんなものが聞こえる訳もない。それは幻聴であり、光だった。先生が歩いて、悠希の隣に座った。味方をするかのように。

「この容姿で男子として扱う方が難しいのではないですか? それに、橋枝の教育方針は『来るもの拒まず』だったと思いますが」

 そんな助け船は、先生が出してくれた。涙の海に彷徨う人間を、一艘の方舟が拾う。校長は歯を見せて笑い、こう告げた。

「はは、意地悪が過ぎたかな、すまないね。結論を言うと、望む形での入学は認めようと思うよ。ただし、その先の責任は竹柴さんが背負うことになる。それはどういうことかと言うと、他の生徒に何らかの形で男子だと知られた場合、我々にできることは多くないということです。それは理解しているかな」

「それは、はい。記憶を消せるわけではありませんから。以降男子として扱われることもありますし、どんな暴言を受けるかも分かっています」

「それでもうちに入学したいと言うんだね?」

 校長が一種の逃げ道を用意したように見えた。その責任は取らないし、その時味方になるとも言わないと。だが、先生は違った。悠希の頭に手を置いて、大丈夫だ、と言った。

「大丈夫です。自分の居場所は自分で守ります」

 そのようにして橋枝への受験資格を得た悠希だが、入試に苦戦したのは言うまでもない。ろくに中学に通っていない彼女が勉強を始めるには遅すぎた。

 唯一、悠希が頭の回る人間だったのは幸いしただろう。掲示板で家庭教師を探し、数ヶ月付きっきりで面倒を見てもらった。報酬は例の悪行で得たものを存分に使った。その果てに、合格することも無理ではない程度の学力は身に着けた。悪行に身を染める必要はもうない。合格してしまえば制服という、女の証が手に入るのだから。

 結果、悠希は合格した。合格はしたが、納得はしていない。筆記試験の出来の悪さを鑑みても、多少の贔屓があったように感じられるからだ。面接官が西村先生なのだから、それはきっと事実。手放しに喜べるものではない。

「入学おめでとう」

 職員室でそんなことを言われた時、この先生のことは嫌いになれないと思った。すれ違いざまに、ありがとうございます、と言って帰る。


 悠希が悪行を再開するのに、そこから一ヶ月も要らなかった。


 ***


 悠希が違和感を覚えたのは、四月の下旬だった。魚の骨が刺さったように、喉に何かが引っ掛かっている。朝食を摂っても、うがいをしても、声が上手く出ない。かすれてしまう。喉が嗄れたのかと思ったが、大声を出したわけでもないし、嗄れたにしては声が出る。そのようなことを様々考えては、ベッドに寝転んだ。そして、声を押し殺して泣いた。理由が分かっているからこそ、別の理由だと思い込みたかった。

 悠希は声変わりをしていた。上手に声が出せなくて、クラスメイトからは風邪ではないかと心配される。不登校になることも考えたが、女子制服を着て登校することが彼女の生きる意味になっている今、それはできない。

 時期を同じくして、悠希が男だということが知れ渡った。声のせいではない。同じ中学に通っていたらしい人間が、過去の悠希と目の前の悠希を同一人物だと認識してしまったのだ。あまりに時期が悪かった。二つの絶望を前にして、悠希は自分を保つ方法が分からなくなった。

 悠希はそれ以来、じっと身を縮めるように息をしていた。自分の陰口を言っているクラスメイトも、怒鳴りつけてくるクラスメイトも、笑い者として消費するクラスメイトも、自分は味方だと表明するクラスメイトも、煩かった。彼ら彼女らの気持ち悪さは言うまでもないが、それに口を開いてしまったら、自分の気持ち悪い声が露呈してしまう。それが最も怖かった。

 苦痛から抜け出すために、また悪に手を染めた。


 待ち合わせに来たそれは、まるで好青年の装いだった。大学生、それもこなれてきた二年か三年の雰囲気で、ワックスで整えた髪が駅舎の電灯に映えている。若いな、と思ってから自分の方が余程若いことを思い出す。

 適当に自己紹介を交わして、適当に夕食へと足を運んだ。そういう手順を踏むのは挨拶に過ぎないが、もはやその挨拶も形骸化していることを実感する。

「十六って二年生?」

「いえ、まだ入学したばかりで」

「高校はどう? 友達はできた?」

「ぼちぼちです。友達も……多分、二人くらいは」

 どういう理由なのかは自分でも分かっていないが、悠希は十六歳を名乗りたがった。春から冬まで動く誕生日は、心の浮き沈みに似ている。前回の悪行から久しいこともあるが、声変わりを気にしていることもあり、悠希は緊張を覚えていた。声は決して低くはないが、以前のそれと比べると、男の範囲にいてもおかしくない程度には崩れてしまっている。相手の顔色を窺っては、きちんと女と認識されているか不安になって喉が渇いた。

「高校どこ? こんなことしてる割に頭良さそうだよね」

「橋枝です。頭は全然……」

 嘘を重ねてきた悪行の中で、悠希は初めて本当のことを言った気がする。リスクは承知の上で、あの高校を誇りたかった。自分を受け入れてくれた場所を、悠希は大切に抱えようとしていた。

「Noahのとこじゃん。知ってる?」

「ノア?」

「人気バンドだよ。良かったら聞く?」

 首を横に振る。そういうのが欲しいわけではない。欲しいのは、性欲に塗れたそれの声だけだ。


 事を終えて、喉がひりつく。彼の腕を枕にしつつ、鍛えられた胸筋に頬擦りした。彼はその媚びに対して頭を撫でる。

「結構甘えん坊なんだね」

「ダメ?」

「いいや、可愛いよ」

 一生こんな時間だけが続けば良い、なんてまるで恋歌の一小節のように願った。女とか男とか意識する必要もない、誰かに抱かれている時間。波に呑まれるような日常に戻りたくなくて、キスをした。

「制服、好きなんですよね」

「ん、まあ。なんで?」

 この男は普段の男とは違うなと感じていた。女に困らなさそうな外見をしているし、何より清潔感がある。寂れた公衆便所のような、いつもの相手とは別格だった。特別だと言うには愛がない。ただ、もう一度会っても良いと思った。

「ご飯の時に言ってたから……その、良かったら、次会う時にでも着て来ようか?」

「んー。それは嬉しいけど」

 彼はしばらく悩んでいた。躊躇いとも違う、葛藤とも違う。その表情を言葉にするなら、疑問、だろう。悠希はなかなか返事をしない彼に、もしかしたら過去の悠希同様、同じ人間と二度は会わないつもりなのだろうかと問い質そうとした。

 だが、彼の疑問は、悠希にとっての最悪だった。

「でも君、一応は男でしょ? 女子制服あるの?」

 悠希は汗が噴き出すのを感じた。室温はむしろ涼しいくらいなのに。布団を被ってはいても、上裸だというのに。

 耳に伝わる鼓動が煩い。彼が何か言っているが、何も聞こえない。視野がぼやけて、頭の中に「死」の一文字が浮かぶ。熱湯が顔に垂れているのかと思うくらい、涙が熱を持っていた。悠希は叫んだ。悲鳴と言うより慟哭。獣のように四つん這いで歩き、上着のポケットからカミソリを見つける。

 そのまま自分の首を切り裂いて、眠った。

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