③
彼女が目覚めたのは、それから三日が経過してからだった。話を聞く限り、悠希が首を切った直後、彼がフロントに救急車を手配させ、止血に取り組んでいたらしい。その適切な処置のせいで、悠希は奇跡的に命を繋いでしまった。
簡単な検査の後、すぐに退院の運びとなった。応接室に呼ばれるも、両親はそこにいない。悠希と、警察と、西村先生だけがいる。ソファが二つ向き合って、間に机。先生は部屋の角に立っていて、まるで校長室だった。どうせ命の大切さを説かれるのだろうと理解していたが、聞く耳は用意しない。体と心が一歩離れているような感覚の中、死に直す方法を考え続けた。
「どうして死のうとしたんだい?」
「…………」
警察は柔らかい口調で尋ねる。悠希は固く口を閉ざす。
「怒っている訳じゃないし、何か責めるつもりもないよ。ただ、事務的に聞かなきゃいけないことがあるだけだから」
警察の仕事であることを考えると、答えるまで終わらないだろうと察した。事務的な質問だと言うのなら、悠希もまた事務的に答える権利がある。
「男として生きるのが嫌だったからです」
「性別の悩みってことだよね。それに関して相談をしたことはあるかな、学校とか病院とか」
「ないです」
「一度も?」
「はい」
警察は先生と目配せをすると、調書にペンを走らせる。
「質問が変わるけど、君の生年月日は?」
「十年の、三月五日です」
「十五歳ってことで間違いないかな」
「…………」
悠希は答えられなかった。自分を守っていた十六歳の皮は、カミソリに切られてしまっている。等身大の彼女は臆病で、初対面の人間に今こうして責められていることに恐怖した。
「じゃあ、事故の時、一緒にいた男性のことは分かる?」
「知らない人です、はい。ネットで知り会っただけで、名前も何も」
調書を取るその手が、一度止まった。
「彼に君のことを聞いても、同じように言うんだ。でも、君のことは十六歳だって言うのね。これは彼の記憶違いってことかな」
「いいえ、私が十六だって伝えました」
「なるほどね。一応、今回のことは児童買春って名前が付いちゃうんだけど、彼を罰してほしいとは思う?」
「えっ……思い、ません」
警察は幾らかの手続きを済ませると席を立った。一礼して、後は先生に従うようにと部屋を後にする。指紋採取の時に拭き残した朱肉の色が、悠希には血のように思えた。
「怒られると思ったか」
先生は椅子に深く座ると、不敵に笑う。ともすれば小ばかにした態度とも取れるが、先生はそうは思わせない。崩れかけた橋を敢えて渡るくせに、絶対に渡りきる自信が見て取れるような人だ。そう信じさせるのは話術でも振る舞いでもなく、オーラと呼ぶ他にない。
「怒らないんですか?」
「怒ればお前は死なないのか」
「いいえ、死にます」
先生を真っ直ぐ見て言った。瞬き一つすら許さないのは、悠希の意志そのものだ。
「だろうな。俺は死ぬのを止めることはできないが、竹柴はそれで良いのか」
「良いです。悔いなんてありませんし、希望だってない。このまま生きて苦しみ続けるより、楽になる道を選ぶ方が正しいじゃないですか」
「そうだな」
「人間はいつだって楽になる道を選んできたはずです。宗教だって神に赦されて心を楽にするためのもので、戦争だって言葉で解決できないものを解決させる楽な選択で、文化の発展や技術の発達だって、人間が如何に楽になれるかを求めた結果です。敢えて楽じゃない道を通るのは、修行や罰といった、ただの拘りに過ぎません。社会は得意ですから、知ってます」
「それもそうだ」
「だったら、分かってくれますよね」
悠希は普通の人間だ。普通の人間だから、死ぬのが怖かった。死ぬことそのものではなく、残された人間たちが怖かった。普通の人間は知人の自殺を赦してはくれない。何故相談しなかったとか、何故そんな選択をしたのかとか、追い詰めてくる。彼らに悪意はなく、そこにあるのは寸分の正義と、怒りだ。知人の自殺という衝撃に、普通の人間は耐えきれない。耐えきれないから、そのストレスをぶつけてしまう。
だから、せめて普通ではない先生には赦しを得たかった。普通の人間は赦してくれないから、自分の死を赦す都合の良い、自分を楽にしてくれる存在が欲しかった。
「お前に拘りたいことはあるか」
「死にゆく人間に何を拘れと言うんですか」
応接室のテレビが光を帯びた。初めて先生から目を逸らしたのは、そこに見たことのある男がいたからだ。
「お前が死んだ時、報道はお前を男子と呼ぶぞ」
『男子高校生を売春 大学生の男が逮捕』というテロップに、悠希は震えた。そこにいる悠希は、男子と呼ばれている。報道の自由によって、彼女の悪行は完膚なきまでに否定されてしまった。悠希が女であったことなど、一度もなかったのだと言うように。
先生の言っていることはすぐに理解できた。自分は死後も、男の烙印を消せない運命だということ。
「どうせ死ぬなら女子として死なないか」
そして、その手を掴めば女になれるということも。
先生に従って向かった病院は、大通りから細い路地に入ったところの心療内科だった。敢えて死角に設置したような簡素な病院は、むしろ隠れ家のよう。クリーム色の建物は庭木に隠され、窓ガラスは目線を遮るように磨りガラス化されている。後に患者のプライバシーを守るためだと気付くが、この時の悠希には、一度入れば出られない森のように感じられた。予約時間の三分前に受付を済ませると、そのまま診察室へと向かう。待合室には誰もいなかった。
「西村先生の教え子なんだってね」
診察が始まると、どんな挨拶よりも先に出たのは彼の名前だった。悠希は、またか、と思いながらも、先生が紹介した病院なのだから何も不思議ではないと思い直す。下げられた名札には鈴木と書かれていた。ありふれた名前で逆に覚えづらいし、先生と呼ぶのは学校の先生だし、病院の先生と呼ぶのは風邪を引いたみたいだし、いっそ性別の先生とでも呼んでやろうと思った。
「性別の悩みがあるってことで聞いてるけど、間違いはないかな」
「性別の……と言うのかは分かりません。でも、男のまま死にたくありません」
「なるほどね。じゃあ女として生きるってどういうことか分かるかな」
女として「生きる」の部分を強調して言われたような気がして、悠希は顔をしかめる。
「誰からも女として扱われることです」
「なるほどね。半分正しいけど、半分足りないね。もう半分っていうのは、体と戸籍を女にすることだよ」
悠希は驚いて、座っていた椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。そもそも、悠希はそんなことはできっこないと思い込んでいた。時代に先んじてコンピュータに精通している彼女であるのに、そんなことを調べようと思ったこともなかった。人間は最初から諦めてしまえば、希望を求めて歩くことさえしなくなる。
「できるんですか……?」
「できないことはないよ。でもね、本当はそれを僕の口から言うわけにはいかないんだ」
どういうことかと思ったが、後の彼の説明で理解した。
戸籍の性別は体の性別を変えた後、役所手続きでどうにでもなると言う。だが、体の性別を変えるためには、女性ホルモンを投与しなければならない。投与してしまえば体つきは女性らしくなるし、何よりこれ以上の男性化が進むことも無くなる。
しかし当然、様々のデメリットが存在するし、下手をすれば命に関わる。そして、男に戻ることはできない。都合の良い薬などない。
「投与してしまえば、半年もしないうちに生殖機能は失われて、子供を望むことはできなくなる。だから僕からそれを勧めることは許されていない。断種行為だからね。君がどうしても治療を求めていて、全て君の責任の元に治療をするのでなければ、僕は何もできないんだよ」
「構いません。どうせ子供なんて要りませんから」
そうかい、と彼は寂しそうな顔をした。二の腕に刺した注射は、何の痛みもないままに悠希の細胞を弄り始めた。
翌日、悠希は激しい頭痛と共に登校した。悠希を男だと知って罵倒していた者たちも、彼女の自殺未遂の噂を聞いてしまえば、怯えて近づくことすらできない。それでも彼女に集ったのは、彼女に味方していた者だとか、噂好きで未遂の真実を聞き出そうとする浅薄な者たちだった。
「いじめられてたって本当?」
「私は竹柴さんのこと女の子だって思ってるからね」
「自殺なんて何かの間違いだよね、本当は何か隠してるんじゃないの?」
餌に群れる白鳥みたいな見栄えばかり良い人間が喚いていたが、悠希はそれどころではなかった。午前を終えたころには吐き気まで覚え始め、とても教室にはいられない。トイレで吐こうとしたが、今更女子トイレに入るのも忍ばれて、保健室に駆け込んだ。
ストレスではない。ホルモンバランスの急変による体の叫びだ。頭痛は内側から頭蓋骨を殴られているような激しい痛みとなり、悠希は一度嘔吐してからソファに横たわった。保健室の先生が不在だったことに気付いたのはその後で、随分と保健室登校に慣れたものだと自嘲した。
「よう、竹柴」
保健室の先生の代わりに来たのは、西村先生だった。掲げた左手の指輪が、電灯の光を受けて輝いている。
「何ですか。笑いものにでもしに来ましたか。これじゃあ生きてるのか死んでるのかさっぱりですからね」
「渇かない口だな、水でも飲め。お前に良い話がある」
投げられる、ペットボトルの天然水。先生が飲みそうなものではないし、悠希のために買ってきたのだとすぐに分かった。
「今度は何ですか」
「文芸部に入れ」
「分かりました、はい」
二つ返事。詳細を聞くまでもないと思った、先生が言うのだから何か良いことがあるのだと信じられた。
「それは物分かりが良すぎるだろう、最後まで聞け。お前、何か言いたいことがあるだろう。特定の誰かにじゃなく、敢えて言うなら世界に」
ロマンチストしか使わない言い回しに、悠希は笑おうとした。だが、上手に笑えない。頭痛のせいにしたくても、水を飲んだことで落ち着いてきた。
「あります。あると思います。じゃあその文芸部ってところに入れば、それが言えるんですか?」
「ああ、そうだ。あそこはそんな人間が集まるところだ、お前のことも歓迎するだろうよ」
「そうですか、そうですか」
悠希はくすくすと笑っていた。可笑しかった。そんな馬鹿みたいな人間、何人もいるはずがないだろうと。
その日の夕方、悠希は男と会っていた。先日それで命を絶ったばかりだというのに、懲りずに同じことをしている。死ぬためではない。むしろ、今度何を言われようと死ぬことはないだろうとも思っていた。治療を始めて、いずれ正式に女になることが決まっている今。正しくは、死期が決まっている今、ここで死ぬ理由などない。要するに、失敗しても今度は死なずに済むのだと気付いてしまったのだ。女として扱われるあの快楽を何のリスクもなく享受できるのだから、懲りてなんていられない。
俳句というのは十七音の文学とも呼ばれる。五七五の韻律に合わせ、季語を入れ、何かを表現するにはあまりに窮屈。しかし、先生が勧めただけあって、その窮屈さが悠希には丁度良かった。日頃から棺桶で眠っている彼女にしてみれば、夢を見るには十分な広さだ。
陽炎に溶けて正しく生まれたい
「今まで何か創作をされてましたか?」
「初めて……です、はい」
桜の問い掛けに恐る恐る声を返した。先生は文芸部なら大丈夫だと言うが、どうしても声を出すのが忍ばれた。声で男だと分かられてしまうかもしれない。知られたとき、何を言われてしまうか分からない。先生の言葉を信じていないのではない、先生のことを信じているからこそ、裏切られるのが怖いのだ。
「初めて、ですか。ルリちゃんはどう思いますか?」
「紙飛行機にエンジンを積む方法が見つかるまで一人にしてほしいです」
瑠璃は冗談を言いながらも悠希の句を見て、二度頷いた。
「良いじゃないですか、さくらんが嫌いそうな句で」
にひひ、と笑う瑠璃。はいはい、といなす桜。
「そうですね、個人的な好みで言うと嫌いです。でも、好みを差し置いても、問題は普遍的な評価ができないということです。常識を破るというのは自由ですが、それを見る側がどう思うかは、見る人次第であるとも言えるではないですか」
「そんなの、自分さえ良ければそれで良いじゃないですか。人生なんてそんなものです」
「ルリちゃんはそうかもしれませんが、俳句は誰かに伝えるものです。より伝わりやすくする方が本質的ではありませんか」
「いやいや、俳句は言いたいことを言う道具に過ぎません。受け取りたい人が勝手に受け取れば良いんです。誰かのために自分の言葉を歪めるなんて、本質的じゃないです」
二人の言い合いを見て、悠希は思わず笑った。どちらも正しいことを言っていて、どちらも真逆のことを言っていて、それでいて、楽しそうに語り合っているのだ。言葉面の上では口論のように見えるが、二人は笑っていた。
悠希の笑みを見て、二人も口を整える。その調子で次の句も、と言ったのは桜だった。歳時記を捲りながら、次の季語、しゃぼん玉の説明をする。瑠璃は紙飛行機を折っては廊下に向かって飛ばしていた。
「こんにちは。早いですね」
後に来た宗谷は、両手一杯に紙飛行機を抱えていた。瑠璃が投げ散らかしたものだ。
「三年生は五限で終わりなんです。今週から二者面談があるので」
「で、私が保健室登校の子を拾ってきたです」
悠希は驚いて瑠璃の顔を見た。そんなことは黙っていてくれると思っていたから。保健室登校なんて、訳ありだと言っているのと変わりない。
「そうでしたか。竹柴さんですよね。紅茶は飲めますか」
「えっ……はい、好きですが」
了解、と言うと、宗谷は戸棚のティーセットを下ろした。それがマリアージュフレールの茶葉だと分かったのは、悪行で知り合った男の趣味。良い茶葉ですね、なんて言うのは憚られた。知識の出所を聞かれたとき困るからだ。
「抹茶ラテで」
「私は緑茶を頂けますか」
二つ返事でお茶を淹れる彼を、執事みたいだ、なんて思った。
「きっと、堂々とした私と、臆病な私がいるんです。自分を女と信じて歩く強い私と、この体を受け入れられない弱い私。いえ、強がっているだけで、いつだって怖いです。声も変な出し方してるのは自覚してますし、外見もどこかで見分けが付いてしまうんだって理解してます。それでも今までの努力を否定はしたくないんです、はい。女に見えるように、男だって分からないようにって、必死に生きてきたことを否定はしたくない。その努力っていうのが強い私なんだと思います」
学校では不定期に、先生の暇を見つけては面談を行うことになった。生徒指導室に入るのはいささか気が引けるが、ろくに教室にも出ていない現状、この部屋こそお似合いだと思い直す。
「誰だってそういうものだが、確かにお前の場合は顕著かもな」
「せっかく素直に話しても、そんな反応するんですね」
「仕方ないだろう。お前が自分で解決する以外はないんだ、俺は何も言わない」
「それは……そうですけど」
悠希の不満をよそに、先生は珈琲を淹れる。指導室にポットが置かれているのは、多分先生の趣味だろうと思った。
「ところで、どうだ? 文芸部の奴らは」
先生は事務書類にハンコを押しながら尋ねる。悠希は出された珈琲の苦さに顔をしかめて、先生の指輪ばかり見ていた。
「優しいのか、馬鹿なのか、まるで分かりません。私の性別を分かっているのか分かっていないのか知りませんが、それ以前に、そんな次元にいないようにも思います。私が女だろうが男だろうが関係なく、同じように接するのだろうって、何故か信じられます。あれは何なんですか? 先生が何か吹き込んでるんですか?」
「いいや、何もしてない」
「嘘です、私に何も聞かずにいられるなんておかしいじゃないですか。保健室登校だって言葉にも、何も反応せずにいられるって、あまりにも変です」
苛立ちを隠すように珈琲を飲んだ。舌を避けてはみたが、喉に苦い。
「何もおかしくない。何かを愛する人間は他人を笑わない、それだけの話だ」
「臭い台詞ですね、ドラマの見過ぎじゃありませんか」
「そう言うお前も今、笑ってないだろう。そういうことだ」
「…………」
必死に絞り出したつもりの皮肉も、書類の一枚のように軽々と流されてしまう。自分が何を言いたいのかが分からなくて、珈琲を飲み干す。
「帰ります。部で出された紅茶は美味しかったですよ」
精一杯の皮肉を投げて、先生が何か言う前に部屋を出て行った。
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