④
その日の悪行は、そこまで悪と呼ぶ必要もないように感じた。性的な関係は求めていないと事前に言われていたから。それならば会う理由もないのだが、先日の男が旺盛だったため、箸休めとして悪くないと思ったのだ。
「珈琲は苦手だったかな」
「苦手じゃないけど、嫌」
夕方のことを思い出しながら、一口も付けないでいる珈琲に顔を映す。疲れた目をしていて、上手に笑えない日だろうと思った。
「君、まだ若いよね。どうして人と会ってるのかな」
「それを聞く人は嫌いです。どう言えば納得してくれるのか、何を聞きたいのか、全く理解できません」
十人いれば九人から聞く言葉に、悠希は辟易していた。一般的な会話としては妥当でも、悪行に性愛以外を求めていない悠希にとっては、意味のないやり取りだ。
それはカップに表情を隠すようにして珈琲を飲んだ。
「娘が生きていたら、君と同じくらいの歳なんだ」
「え?」
悠希は、現実に引き戻されたように感じた。今まで性愛のための消費物としてしか見ていなかったそれが、人間であることに気付いた。
「こんなことをしても何の意味もないんだけどね。あの子を失ってから、僕はどこかおかしくなった。まだどこかに娘が生きていると思ってしまうんだ」
今まで、互いに互いの性を消費するだけの関係でしかなかった行為から、性の消費を差し引いた今夜。そこにいるのは二人の人間だ。そして人間は人間であるから、それぞれの人生があるし、過去があるし、未来がある。
悠希がそれに気付いた時、最初に思い浮かんだのは首を切った時のこと。あの時、男は逮捕された。男の人生はあそこで終わったも同然だ。悠希は少なくとも一人の人生を壊してしまった。
悠希の手は震えていた。あの一人だけとも限らない。今までに出会った人間のうち、何人がその人生を閉ざされているか、知ることもできない。
「大丈夫かい? すまないね、急に重い話をして」
「いえ……大丈夫です、はい」
血の抜けた顔で珈琲を飲み干した。冷えきった体が温まることはなく、差し出された金銭も受け取らずに帰った。何を話したかも覚えてはいないが、同時に、あの大学生と何を話したのか、あれがどんな人間だったかも覚えていない。
呼び出すまでもなく、先生は生徒指導室にいた。悠希が来るのを分かっていたかのように、淹れたばかりの紅茶が用意されている。悠希は座るより先に口を開いた。
「先生、私って何のために生きているんでしょうか」
「どうした急に」
「あの人、逮捕されたんですよね」
先生は悠希の目を見て、座れ、と言った。
「今考えていることを正しく言葉にしろ」
怒りませんか、と聞こうとして止める。どんな馬鹿げた言葉でも、真摯に受け止めてくれると信じられたから。
「他人の人生を壊しておきながら、私が生きていて良い道理が分かりません」
先生はひと時悩んで、珈琲を飲みながら答える。
「何かに非を詫びるとき、考え方は二つあるだろう。その責務を全うする方法と、その責務を放棄することだ。例えば俺が不祥事を起こしたとしよう。俺はどうなると思う」
「クビになるんじゃないですか」
「何をしたかに依るが、基本的には減給処分だ。それは俺がいなくなることで生徒に不利益が生じるからだな。授業も生徒指導も、文芸部の顧問も、俺がいなくなれば誰かに任せることになるが、引き受ける人手はない。だから減給で、仕事を続けさせられる。これが責務を全うする方法だ。どんな場面でも基本的にはこっちが選ばれる」
「基本的には?」
「例えば政治家だな。『責任を取って辞任』なんて言葉は耳にしたことがあるだろう。あれは何も責任を取ってはいない。むしろ責任を取ることができない、あるいは責任を取ることさえ許されないから辞任するんだ。要は信頼の問題だな。セクハラで糾弾された教師にその後も指導されるとしたら嫌だろう」
「責任を全うするか、放棄するか……」
悠希は復唱する。生きて償うべきか、生きるのを辞めるべきか。
「私が生きても死んでも、彼の人生は変わりません。生きていても彼に償えることはありませんし、当然死んだからといって償いにはなりません。そういうことですよね。でも、償いきれないままのうのうと生きて、女になったら死ぬ。そんな独り善がりが許されるのでしょうか」
「お前は生きたいのか、死にたいのか、どっちだ」
先生の言いたいことを理解して、悠希は紅茶を口にした。
「分かりません」
しかし、悠希には分からなかった。女として死ぬ権利があるとは思えず、今死んで罪から逃れることも良しとは思わない。先生はそんな幼い彼女を見て、不敵に笑った。
「だったら楽しいか楽しくないかで選べ。重要な決断を下すとき、必ず後悔は生まれる。その後悔の大小は推し量れずとも、楽しいか楽しくないかは分かるだろう。お前に生きろとは言わない。だが今回に限らず、迷ったらより楽しい方を選べ」
「楽しいか、楽しくないか」
「そうだ、分かりやすくて良いだろう。お前らは特にあれこれ考えすぎるからな、そのくらいで良いんだ。もっと雑に動いてみろ」
納得すると同時に、あまりに腑に落ちたのが気に食わなくて、悠希はせせら笑う。
「じゃあ、楽しいので悪さ続けても良いんですか?」
「お前には必要なことなんだろう、好きにしたらどうだ」
とても教師の言葉ではない。犯罪の助長と言っても相違ないだろう。だが、そんな先生の言葉が、悠希には心地良かった。
その日は保健室登校を止めようと思った。教室に入ればどんな目を向けられるのかも分かっているが、それでも。怯えながら入った教室は、古民家の匂いがした。以前悠希を罵った女も、彼女を一瞥するに留まって何も言いに来ない。席に着こうとしたが、席替えをしたらしく、悠希の席だった場所には知らない男子がいた。悠希が立ち尽くしていると、彼はそれを察して立ち上がる。
「ここ。俺の隣の席だよ」
「ありがとう、ございます」
「敬語なんか良いよ。俺は河田。竹柴さんって呼んで良い?」
「別に……良いですが」
言われようとも敬語を抜けなかったことに恥を覚えた。だが、悠希にはどうにも難しい。河田は朗らかな男で、組んでいた足を正して語り出す。
「この間クラスで話し合ったんだ。竹柴さんのこと」
「うん」
「それで、皆それぞれ考えた。竹柴さんがどうとかじゃなくて、俺だって勝手に女扱いされたら辛い。それだけのことだって思った。今まで酷いことを言われたのは分かってる。でも、赦してやってほしい。皆どう接して良いか分からなかっただけなんだ」
教室の真ん中で言う彼に、悠希は気恥ずかしさを覚えた。誠実な人間なのだろうとは思ったが、生真面目が過ぎる。そのやり取りをクラスの全員が見ていた。その中から、以前悠希を罵っていた女が大股に歩き来て、悠希の机に手を突いた。
「悪かったよ」
私が悪いよ、とは言わなかった。かつての自分ならそう言ったに違いないと思いながら、「私もごめん」と言った。
放課後になると、悠希は駆け足で部室に向かう。見せたい俳句があったからだ。部室には瑠璃しかいなかったが、二度も頼めばしぶしぶ句を見てくれた。
シャボン玉みたいにぱっと死ねたなら
人は簡単には死ねないのだと知った。一度罪を背負ってしまえば、赦されぬまま生きていかなければならない。きっと見苦しい最期になるだろう、藻掻くように生きて、藻掻くように死ぬしかない。だからシャボン玉のように簡単に死んでしまえる存在は羨ましい、そんな想いを込めた一句だ。
瑠璃はその句をじっと見つめてから、悠希の顔をじっと見た。唇を噛みながら、歯の隙間に息を通す。それから、深く息を吐く。
「また思いきった句ですね。本番で読むのも大変そうな」
「本番?」
「俳句甲子園の本番です。当日は観衆の前で読み上げることになりますから」
俳句甲子園に関する説明は、簡単にとはいえ一通りしてある。だが、当初の悠希は細かなことに耳を傾ける余裕がなかった。
「聞いてなかったんですね」
「すみません」
改めて瑠璃が説明しようとするが、悠希はそれも聞かぬまま、参加を辞退すると言った。
世界に対して言いたいことは山ほどある。しかし、それを主張するには体が邪魔だった。悠希は女としての主張がしたいのであって、決して、男に生まれた哀れな女の主張ではない。作者のことを知られては意味がないのだ。まるで騙されたようで、先生と三日も口を聞かなかった。
しばらくを経て、二度目の通院日となった。注射の効果は二週間で切れるとか、一生続けなければならないとか言われたが、じきに死ぬつもりの悠希にとって後者は何のデメリットにも聞こえない。頭痛があったとは話したが、体が慣れるまでの辛抱だと言われる。
「何か気持ちに変化はないかな」
「気持ちですか?」
「そう。この二週間で何か変わったことはある?」
「ないこともないですが、大したことではありません」
「まだ、女になりたいと思う?」
「ええ、まあ」
性別の先生は、そうか、と後ろめたそうに言う。それがまるで、悠希を女にしたくないように見えて、あまりの不満にこう尋ねた。
「先生は、私を女にしたくないんですか」
苛立ちにも似た悲しさを顔に表して、彼は答える。
「僕の妻が昔ね、病気になったんだ。手術をしないと死んでしまうけど、手術をすれば子供が望めなくなる。当然手術はしたけれど、彼女はそれに気を病んでしまった。出産が女の幸せだなんて呼ばれた時代は終わっていると思うけど、それでも、子供を産めるのは女性だけなんだ。君のような子を相手にすると、当時の彼女の悲嘆を思い出さずにはいられない。このまま治療を続ければ、君は子供を望めなくなる。僕の私情は兎も角、取り返しは付かないんだ。慎重になるのも当然だと分かってほしい」
悠希は幼気な顔で、大丈夫ですよ、と言った。悠希からしてみれば、子供を考える歳まで生きるつもりはないし、そもそも、男として子を為すなんて有り得ない。悠希は一度も女子に恋慕を抱いたことがないのだから。
教室で授業を受けるようになってから、周囲の目も少しずつ変わり始めていた。悠希がただの女だということを、誰もが本質的に理解し始めたのだ。
「竹柴さん、放課後みんなでカラオケ行くんだけど一緒行かない?」
「ごめんなさい、部の方を手伝わなくちゃいけなくて」
「そっか、忙しいんだね。じゃあ文化祭終わったら行こうよ。打ち上げも兼ねて女子会、どう?」
悠希はこのクラスに居場所を覚え始めていた。特別に仲の良い友人はいないものの、いよいよクラスの輪に混ざることができた。悠希の不安も減ったことで、悪行に手を染める必要もない。帆が風を受け始めた生活の中で、悠希は声を取り戻していった。時々裏返ってしまう失態はあるものの、誰も笑わないでいてくれる、あるいは笑い飛ばしてくれる今、この教室では堂々としていられる。
ただ、隣の席の男が馴れ馴れしいことは気になっていた。
「竹柴さん文芸部なんだってね、文化祭は何するの?」
「作品の展示。河田君は何かしてるの?」
「この間も言ったよ、つまようじアート」
河田大地、自然豊かな名前の彼はクラス委員をしているそうで、文化祭の学年企画を指揮していた。つまようじアートというのはモザイクアートの一種。着色した爪楊枝を発泡スチロールに刺し、遠目に見ると絵画が浮かび上がるように形成するものだ。一年生の学年企画として、部活に所属していない生徒を中心に作り上げる。悠希は三回目になる説明を受けながら、欠伸をした。
「竹柴さんって結構忘れっぽい? 何か困ったら俺、力になるから相談してくれよな」
はいはい、と返事をして席に着いた。その台詞も三回目だ。
「あ、そうだ。当日は暇? 良かったら一緒に体育館ライブ行かない?」
「行かない。煩いのは苦手だし、部の方にいなきゃ」
悠希はどうせNoahだろうと思った。その名前を聞く度に、首を切った夜を思い出す。あの日の男も、橋枝と聞いてすぐにNoahの名前を出していた。何の売りもない街から著名なバンドが生まれたのだ、普通は知っていて然るべき名前なのだろうが、悠希は知りたくなかった。知ってしまえば、あの男への罪に潰されてしまいそうだったから。
部では瑞姫の小説を売るという話があったが、悠希は特に関与しなかった。瑞姫という人間をあまりに知らないし、その本も昨年の文芸部の話だという。悠希は大人しく、先生から勧められた賞に向けて句作を進めることに専心していた。
クラスメイトに肩を突かれると、先生が教室に来ていた。河田を置いて生徒指導室へと着いて行く。
先生との面談も終わりが近づいていた。クラスでの平穏を手にして、部活にも励む彼女には、もう支えなんて要らない。文化祭が終われば定期的なものは無くして、必要に際してのみ行うことにした。
「治療の方はどうだ」
「順調だと思います。このまま進めたら良いんですよね」
「ああ」
沈黙。指導室の電灯がちらつき始めていた。
「竹柴、Noahを知ってるか」
「知りたくありません」
また、その名前。悠希は頭を抱えた。きっと誰も悪気はなく、好きなバンドを勧めているだけなのだろう。それもそう。それぞれの学校は、どんな生徒を輩出したかを自慢げに語りたいものだ。芸能人に学者、政治家、小説家。どれも学校が生んだのではない、ただその学校にいたというだけなのに、図々しい。悠希は腹立たしく、いっそ、その図々しさを見てやろうと思った。やっぱり続けてください、と言うと、先生は腕を組んで語り始める。
「あいつら、元は不良なんだ」
「え?」
悠希の中にあった腹立たしさが、途端に音を立てて崩れた。学校の名前を出せば同時に語られる存在は、学校が誇る存在だと思っていた。悠希の思っていたNoah像に対して、不良という言葉はあまりにかけ離れていた。
「三人組の女子連中で、奴らは決まって体育館にいた。不良とは言っても、不真面目な連中ではなかった。毎日欠かさず登校するし、体育の授業の邪魔にならないよう端に避けるくらいの配慮がある。問題は授業に出ないことと、聞く耳を持たないことか。指導しようと意気込んでた教師も、一ヶ月で折れた。そんな中、俺は妙に気になって、奴らがバスケやサッカーに勤しむ様子を眺めていた。何も言わず、ただ見ていただけだ。だが、それが逆に良かったのかもしれないな。向こうから声を掛けに来た。聞くに、奴らは家に居場所がなかったんだ。何かしないとダメになる、黙って勉強してなんていられない。そんなことを言った」
「バンドは、先生が勧めたんですか」
返答は、聞く前に分かっていた。Noahという言葉から想う、方舟という言葉。Noahの三人における方舟、それが先生なのだろう。悠希自身、先生が救いの手を差し伸べてくれなければ、今ごろ男として生涯を閉じていたはずだ。
「まさか、あんなに有名になるとは思ってなかったけどな。今回のライブは初心に帰りたいと言うから招待した。当時を知る教師からは反対があったが、違う。人間は何回でもやり直せる。奴らはそれを勝ち取った。大人に立ち向かって、立派にその名声を掴んだんだ。竹柴、お前もあいつらのライブを見ろ」
「……はい、分かりました」
先生の言葉に答えてから、悠希はしばらく俯いていた。先生と目を合わせるのが怖くて、先生の指輪ばかり見ていた。聞かなければならないことがあるのに、聞くべきでないことも分かってしまう。それを今聞いてしまえば、ライブを見ていられない気がした。どんな理屈でもなく、ただ直感がそう言うのだ。
「どうかしたか」
「ライブを見た後、聞きたいことがあります。なので、私が納得する答えを用意していてください」
先生は「分かった」と言う。悠希が何を聞こうとしているか、分かっているかのように。
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