⑤
文化祭の日。瑞姫の本『てふてふや』の冒頭を読んで、悠希は確信した。
主人公である小原まりは、引退試合を終えた先輩達が笑っているのを見て、悔しくて仕方がなかった。彼らの努力が地方予選敗退という結果に終わったのだ。その努力をずっと見ていた彼女には、どうして彼らが笑っていられるのか分からなかった。
「小原が大人になれば分かるさ」
先生はそう言った。ずるい言い方だ。大人になるとはどういうことか、そんなものは定義できることではない。しかし、現に先輩は笑っていて、小原は泣いていた。その違いを説明するのに、大人と子供という壁は都合が良すぎる。
「俳句を続けたら……大人になれるんですか」
小原は涙の中で尋ねた。悠希の知らない人間ではあるが、この人もまた、自分と同じように先生を信じたのだ。きっと、これまでにも何人も、先生を信じた人がいる。この文化祭には、そんな人が何人も来ているのだろうと思った。
悠希は『てふてふや』を読みながら、気難しい顔をしている。本を二人の子供と称しただけに、それを自分と重ねてしまっていた。自分は不出来に生まれてしまった。両親とは言葉を交わさない生活になっている。仕方のないことだと思うと同時に、親不孝者だとも思っていた。
「竹柴さん、それ買って良い?」
最初にそれを買ったのはクラスメイトの河田だった。本なんて読まないでしょうに、と思いながら、彼と共に教室を出ることにした。本は桜達に任せたら良いというのは第二の理由で、一番は、彼に自分の句を読まれるのが気恥ずかしかったからだ。
「あなたの方の企画ってどこあるの。爪楊枝のやつ」
「つまようじアートだよ、中庭でやってる。見たら驚くと思うよ。あと俺のことは大地って呼んでくれ」
クラスでそう呼ばれていることは分かっているが、この状況で言うのは大胆なのか馬鹿なのか、恐らく後者だろうと思う。中庭に出ると、思わず、へえ、と声を上げた。
「すごいだろ、頑張ったんだぜ」
モナリザ、ナポレオン、真珠の耳飾りの少女。絵画の並ぶ回廊が出来上がっていた。側面からは大きな発泡スチロールが置かれているようにしか見えないが、正面に立つと立派な絵画が浮かび上がる。
「思ってたより立派。本当に爪楊枝なんだ」
絵に近づくと、剣山のように無数の爪楊枝。一本一本に着色が為されていて、悠希はディスプレイの仕組みと同じだなんて思った。
「作るのも楽しくてさ、もう皆ペンキ塗れ。竹柴さんも一回くらい来たら良かったのに」
「嫌、汚れるのは好きじゃないから」
自分に似合わない台詞だな、と思っていたら、クラメイトの女子が見えた。悠希はその顔を見ると、以前罵られたことを思い出さずにはいられない。彼女は河田を見つけると、大股に歩み寄る。
「大地なに、竹柴と付き合ってんの?」
「いや、そういうのじゃないよ」
「ふーん、別に良いけど」
悠希を一瞥すると、鼻を鳴らして去る。悠希が男と接していることが不満なのか、河田と接していることが不満なのか、どちらだろうかと考えては肩身が狭い。
「私に構わないで、彼女のとこ行ったら?」
「いや、良い。俺は竹柴さんと回りたい」
目を見て言えば、もう少し格好が付いただろう。不器用な男と接するのは案外悪くないのかもしれないと思って、同時に、同い年の人間から向けられる好意が心地良いことに気付いた。今までとても恋愛とは呼べないことをしてきた彼女が、初めて純粋な恋愛に巻き込まれているのだ。思わず笑いが込み上げてきて、悠希は満面の笑みを返した。
「良いよ、行こっか」
彼も心底嬉しそうに、同じ歩幅で歩き出した。三年七組のお化け屋敷、クイズ研究会の早押しクイズ、百人一首体験と数々のアトラクションを楽しみ、化学部の疑似火山、美術部の展示、家庭科同好会のファッションショーに目を輝かせ、生物室前でウーパールーパーとすれ違う。
「文化祭、楽しいだろ」
「うん!」
ろくに中学に通えなかった悠希にとって、学校行事の楽しさなど知る由もなかった。楽しさを共有できる人間など、現れないと思っていた。ただ死ぬこと以外を考えなかった彼女の視野は、徐々に広がり始めていた。せめて死ぬ日までは、この楽しさを享受しても赦されるのではないかと思うようになった。すれ違う人からカサブランカが香る。女子の甲高い声、廊下を慌ただしく走る靴音、一人一人が生きている。
抑えがたい高揚に、悠希は屋外へ駆け出した。グラウンドには運動部の出し物がある。端から端まで遊びきってやろうと、目いっぱい息を吸った。
食堂で遅めの昼を済ませると、河田から体育館に誘われた。Noahのライブだろう。しかし、悠希は部のことが気になっていた。本の売れ行きはどうなのか、瑞姫と宗谷は上手くいったのか。それを知りたいと思うのは、自分が文芸部の一員であるという自覚に他ならない。
「ごめん、やっぱり今日はここまでで良いかな。私そろそろ部の方行かなきゃ」
「そうなのか。まだ遊び足りない感じもあるけど楽しかったよ。俺体育館いるから、もし暇になったら探してくれよ」
「分かった、ありがとうね河田君」
「大地な。じゃあな竹柴さん」
名前で呼んでほしいなら、まず自分がそうしたらどうなのかと思いつつ、手を交わす。その直後。互いに逆方向に向かい始めた一歩目で、咄嗟に気付いたことがあって彼の袖を掴んだ。
「Noahならもっと後だよ。多分、三時くらい」
「そうなの? なんで知ってるの?」
「先生との約束がその時間だから」
三時には部の教室に居るように言われていた。文化祭が四時に終わることを考えると、最後の盛り上がりとしてNoahのライブがあるのだと推測できた。
「先生って?」
「私悪い子だから、面倒見てもらってるの。Noahは先生と見に行くから、明日にでも感想言い合おうよ」
「よく分かんねえけど分かった。竹柴さん、色々大変だもんな」
高鳴ったままの鼓動で帰った文芸部では、瑠璃が紙飛行機を飛ばしていた。窓辺から飛ぶ鳩のように、真っ白な紙飛行機が風に乗った。
午後三時。悠希は売れ行きの芳しくない本を置いて先生と歩いた。瑞姫と宗谷は帰って来たものの、本は売れていない。本が売れなければ瑠璃の言う通り、瑞姫はいよいよ折れるだろう。それを先生が分かっていないはずがない。悠希はこの後、きっと何かがあるのだろうと予感していた。
窓を開けきって換気をしても、体育館は暑い。初夏の昼下がり、水分補給を促すアナウンス。汗の匂う館内には午前から続いてきた出し物が一覧となって掲示されている。直前に演奏していたらしいジャズ研がステージを降りると、体育館の暗幕カーテンが一つ一つと閉められる。全てが閉まった時、真っ暗なステージにライトが降りた。眩しいばかりの中に三つの人影が浮かんで、マイクのスイッチが入る音がした。アナウンスが息を吸い込む音がマイクに乗っている。
「続いて、バンドグループNoahによるバンド演奏です」
歓声。歓声。耳を塞ぎたくなる歓声に、一足遅れた人々が体育館へと駆け込む。悠希が人の波に押し流されそうになると、先生がその肩を支える。ステージの中央に立つ女性がマイクを荒々しく掴み取ると、途端に会場が静まり返った。
「Noahボーカル、ミサだ。一曲目『Noahの方舟』」
余計な言葉は要らない、全ては歌で語るというのがNoahの挨拶。一人一人の呼吸が館内を埋め尽くし、曲が始まる。
いつかお嫁さんになるんだって 五歳の私
幼稚園の先生が蹴った揺りかご
いつか幸せになるんだって 我慢をしてた
涙に溺れた私 明日のない海
水底から見えた舟の灯火
知りたかったのは命の行方
ねえNoah 歌うことしかできないの
ねえNoah ずっと歌ってみせるから
その舟に乗るには 私は幼すぎるとしても
ねえNoah この歌に光はあるの
ねえNoah 何かを変えてみせるから
その舟で助けてよ 私の息が途切れる前に
三曲を歌い終わり、会場が拍手に包まれる中、悠希はステージに幕が降りきる前に体育館を出た。一足先に出なければ、上手に出られなくなると思ったから。そして、熱が冷める前に聞こうと思ったから。先生の腕を引っ張って早歩きをしたせいで、指導室に着くと同時に咳き込んでしまった。
「先生には未来が見えています、そうですよね」
「どうしてそう思う」
先生は聞き返しながら椅子に腰掛けた。その余裕が悠希には腹立たしくて、仕返しのように窓の外を見ていた。吹き込んだ風が悠希の髪をさらう。
「突拍子もないことを言っているのは分かります。でも、そう思うしかないんです。勘が良いなんて言葉で片付けるには、あまりに勘が良すぎます。具体的な例は挙げるまでもないでしょう。それで、そう考えると、色々とおかしなものが見えてしまうんです。先生は、私が俳句甲子園に出ないって分かっていたはずです。それだけじゃない。文月先輩が塞ぎ込むことも、吉松先輩がその対処に追われることもなかったはずです。先生なら私を説得することも、文月先輩を支えることも、何もかもできたはずです。それをしなかったのは、どうしてですか」
先生は一言「座れ」と言った。悠希は聞かず、窓からグラウンドを眺めている。
「納得する答えを用意するように、だったな。先に言うが未来が見えるなんてことはあり得ない。仮にそうだったとしても、俺の返答は変わらないだろう」
「はい」
悠希に言葉を与えるため、文芸部に入らせる必要があった。だが、俳句甲子園に参加しないことは先生なら分かっていたはずだった。それを敢えてそのままにするというのは、俳句甲子園に何かがあるからだ。
悠希なりに考え、あり得ない仮定の元に出した結論が正しいと信じている。先生の口からそれが出ることを願いながら、何か間違いであってほしいとも願っていた。
「竹柴、お前を死なせないためだ」
「やっぱり、そうなんですね」
悠希は目を逸らす必要がなくなって、窓を閉めた。ライブの熱気は風に冷やされたらしく、これ以上何を聞こうとも思わない。指導室を出ると、吹奏楽の一団とすれ違った。文化祭の終わりを告げる放送があり、校内からは徐々に人が減っていく。遠くからピアノの音が聞こえていた。
校門前に重々しい風が吹いた。幻覚とも思える光景に悠希は目を疑った。見覚えのある男がいた。男も悠希を見て、目を見開いていた。見間違いだ、このまま帰るべきだ。そう思いながらも足は一歩も動かない。男は一歩一歩、悠希の顔を確かめるように近づいた。そうして、それが間違いなく悠希だと分かると気さくに微笑んだ。
「もしかしてあの時の子? 久しぶり、元気にしてた?」
返事の代わりに唾を飲んだ。その男は、かつて悪行で知り合った大学生で、悠希が首を切った日の男だった。場所を変えて話そうと言う彼に、悠希は逆らえなかった。自分の悪行で彼は逮捕されてしまったのだから。その負い目を無視できる冷たさを、彼女は持ち合わせていない。何より、罪を償う日が来たのだと悟っていた。
引かれる手に従って歩く道中、男は一人で語り続けていた。まるで日常の切れ端みたいに近況報告をしていた。悠希の返事など待たず、次から次へと語る。その様子を壊れた人形のようだと思っていると、目的地に着いていた。
「橋枝の子だっていうの本当だったんだね。Noahのライブあるって聞いて来たんだけど、まさか君に会えるなんて」
連れて来られたのはラブホテル。ソファに深く座ったまま、悠希は唾を呑んだ。
「釈放、されたんですね」
「初犯だからね。大した問題にはならないよ」
それより、と言って彼は悠希の膝と腰に腕をくぐらせた。
「制服似合ってるね。橋枝って真面目な子多いからさ、中々制服売ってくれないんだよね」
お姫さま抱っこと呼ぶには夢のない時間。ベッドまで運ばれると、覆い被さるようにキスをされた。何も見たくなくて手で顔を隠すと、携帯のシャッター音が聞こえた。何枚も何枚も撮っては、悠希の服をはだけさせ、また何枚も何枚も撮る。
「脅しますか」
「勿論。大した問題にならなかったって言っても、家も大学も追い出されてどうしようもないんだ。責任は取ってもらう」
そっか、と溜め息を吐いた。頭の中で何回でも自業自得だと叫んだ。悠希にとっても、彼にとっても。
彼の手が乱暴に悠希の胸を掴むと、傘の先で突かれたような痛みが走った。痛い、と叫んでから、今何が起きたのか分からず自分の体を触る。
「胸、何かした?」
「え?」
「膨らんでる」
悠希は体を起こして自分の胸を確かめた。大福の皮をつまむような弾力、乳首に感じる張り。胸が育っている。それが薬の効果だと気付いて、悠希は思わずにやけていた。自分の体が紛れもない女として育っている証明。それがこの日の悠希を守っていた。いくら体を舐められようと、性器を弄ばれようと、ポケットのカミソリを出さずにいられた。性器に触れられる度に涙を流し、性器を舐められた時には嘔吐さえしたが、それでも最後の手段を取らずにいられた。
心の中で何度も助けを願った。先生の顔を何度も思い浮かべた。女として死ぬのだと約束したから、どんな辱めも耐えてみせようと腕を噛んだ。薄くなり始めていた手首の傷跡、血の滲む歯形。行為が終わるまでの間、悠希は泣き続けていた。
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