⑥
誰にも言うわけにはいかない。あれは自業自得なのだ。彼に負わせた罪の分、悠希は罰を受け入れるしかできなかった。警察を呼べば解決はするだろう。しかし、これは自分と彼の問題なのだと思って何もできない。
教室は文化祭の熱が引ききらないようで、放課後までNoahの話題で持ちきりだった。河田と感想を言い合う約束があったことは覚えているが、悠希の頭はそれどころではない。
「竹柴さん、今空いてる? ちょっと話したいんだけど」
「……空いてるけど、用事があるから少しだけで良いかな」
できるだけの平静を保ながら、頭の中では「助けて」と言い続けていた。誰かに知られるわけにはいかないという理性的な彼女と、誰かに知られてしまえば助かるのだという感情的な彼女が対立している。
「やっぱり、明日で良いかな。昼休み一緒にご飯食べようよ」
ただ断るのも怪しいだろうと思って、時計を窺いながら言った。河田と話したいのは確かだった。それでも今、何か日常を楽しめる余裕はなかった。
その日も彼は、悠希の体を弄んだ。変な趣味、と嘲笑してみれば、男としたい男もいるんだよ、なんて返されて泣き出す。泥の中を泳ぐような行為の途中、悠希は咄嗟に思い付いて、彼にキスマークを付けるように言った。こうしたら誰かが気付くだろう。それが誰であっても良い、誰でも良いから助けてくださいと、悠希は願った。
翌日、あまりの心労に午前中を保健室で過ごしていた。しばらく眠って、目を覚ますと隣のベッドに人がいた。クラスメイトで、河田を気に掛けている女だ。カーテンを閉めるが、開けて、と言われて元に戻す。
「竹柴、サボり?」
「違うよ。一緒にしないで」
「言うじゃん」
簡単な世間話をした。化粧は何を使ってるとか、私服はどこで買ってるとか、普通の話が続くのが気持ち悪かった。
「あんた、大地とヤったの?」
大地って誰だろう、と思ってから、河田がそんな名前だったと思い出す。まだ寝惚けているのを自覚して水を飲んだ。
「そんな訳ない。付き合ってすらないよ」
「じゃあ首のそれ何」
鏡を見た。昨日付けられた痕が、紫の濃い痣になっていた。普段は髪で隠れるものの、横になれば見えてしまう。
「河田君じゃないよ」
「何それビッチ。大地を弄ぶのやめてくれない?」
「弄んでない」
悠希は睨まれながら今にも、助けて、と言いそうになっていた。
「大地、あんたのこと好きなんだって。思わせぶりな行動やめなよ。趣味悪すぎ」
「あなたに言われたくない」
悠希はかつて罵られたことを強く引き摺っていた。元々根に持つ性格ではあるが、相容れない人種のようにも感じていたからだ。
昼休みのチャイムが鳴る。河田と食事の予定だったと思い出して教室に戻る。多分、この女は河田のことが好きなんだろうと思いながら、振り返らなかった。
翌日の放課後、河田に手を引かれた。二人で話したいと言うが、手を引くことはないだろうと思いながら、校舎の陰に連れて行かれる。
「竹柴さん、単刀直入に聞くよ」
「何、そんなにかしこまって……」
嫌だ、と思った。何を言うのか、先生でなくとも未来が分かった。首のことだ。河田は勘の良い男ではない。あの女が吹聴したのだろう。助けてほしいとは思っていたが、河田に知られるのだけは嫌だった。何か言い出す前に手を振り払って校外まで走った。途中まで追って来ていた河田も撒いてしまった。男に追い付かれないなんて自分は本当に男なのだな、と笑いながら歩いた。途中の公園で男と合流すると、卑しい目を向けられた。今日も玩具にされるのだと、泣きそうになりながら手を繋ぐ。
止まらない靴音。ホテルまでの道は遠くあれと願うほど近く感じた。坂を上り、坂を下ればホテル街。彼は二番目に安いホテルを好んで選ぶ。悪行の中でどのホテルがどういう価格だとかどういう質だとか、アメニティがどうとか、全て覚えてしまった。彼女はただ普通に生きたかったはずが、得られない普通を求めるあまり、普通とはかけ離れた道を選んでしまった。その代償として、この痛みも受け入れるしかないと思っていた。
「竹柴さん!」
近づく足音。撒いたはずの河田が息を切らして走り来る。それを見た悠希は、助けが来た嬉しさ以上に、これを見られたことに心底耐えがたい恥ずかしさを覚えて、男の陰に隠れていた。来るなと叫びたかった。それでも、こんなときにまで大きな声を出すことが怖くて、彼の接近を止められない。
「その人、誰だよ」
肩で息をする姿を、男が哀れに見ていた。悠希は心臓を握られた気持ちで、助けてという声を殺しながら河田を睨む。
「河田君には関係ないでしょ」
「マキから聞いた。何か悪いことに巻き込まれてるんじゃないかって。その人誰だよ」
マキというのはあの女の名前。やっぱりあの女の仕業かと溜め息。
「彼氏だよ。私たちの関係なんだから、口挟まないでよ」
男は私の頭に手を置いた。威圧的に河田の目の前に立つと、河田も合わせて後ずさりする。
「俺の女に何の用? これからデートなんだから邪魔しないでくれない?」
「だったら、その子の名前言えますか」
「そんなのどうでも良いだろ」
あと一手、一手の救いが欲しかった。何か、何かないかと探すうちに、悠希はポケットの中にあるカミソリを思い出した。最初は護身用に入れていたはずが、かつては凶器となった一本の刃。救いはこれだと思った。罪には罰が必要なのだから、これに命を賭けてみようと思った。
「もういいよ。二人ともやめて」
決心を固めるべく息を吸った。男の手を離して、二人の間で一人ずつに向き合う。
「河田君、ごめんなさい。私悪い子なんだ。名前も知らないけど、あなたもごめんなさい。私のせいで大変なことになっちゃって。ごめん、二人とも。ごめんなさい、先生」
深々と下げた頭のまま、ポケットから出した刃で手首を縦に切った。グラウンドの足洗い場みたいに、血が噴き出す。
「馬鹿野郎が!」
叫んだのは男だった。悠希の体を抱えて寝かすと、ベルトを外してその腕を締め付ける。そして、ポケットから出した携帯電話を河田に手渡した。
「救急車を呼べ、早く!」
だが、河田は携帯電話の使い方など知らない。慌てふためいて一切の思考ができない様子。男は舌打ちして叫んだ。
「代われ! 止血帯は緩めるな、これで傷口を押さえて心臓より高く保て!」
「は、はい!」
男からハンカチを受け取り、上手に役割を交代した。河田は恐怖しつつも指示通りに止血をこなしている。悠希は急激な失血で顎を震わせながら、ごめん、と口を動かした。首を横に振って「大丈夫だよ」と言う彼に安堵して、悠希は目を閉じた。
次に目を覚ました時、日差しが眩しい中を雨が降っていた。病室にいたのは先生、それと警察。二度目となると慣れたもので、処罰を望むかと聞かれた際にはっきり「はい」と答えた。
悠希は男のことが気になって、先生に尋ねてみた。先生なら知っていると思ったから。すると面白い答えが返ってきた。彼は医者を目指していたらしい。過去に恋人を、それも悠希のような、男に生まれてしまった女性に先立たれたと言う。若く見えたが齢三十。その歳から大学に入り直したということだから、大したものだと思った。
「あの人も、いつかやり直せますか」
「さあな」
花の香りがした。カサブランカの香り。活けてあるのかと思ったが、室内を見るにそうでもない。代わりに、先生の手から指輪がなくなっていた。
「指輪、どうしたんですか」
先生は答えることなく、窓の外を見ていた。雨が上がって、大きな虹が架かっている。
先生が次の用事に向かうと、入れ替わりで河田が来た。
「竹柴さん、ごめん。俺……」
「ううん、ごめんね。変なことに巻き込んじゃって」
「烏滸がましいかもしれないけど、俺、悔しいんだ。もっと早く気付いてたら大事になる前に助けられたかもしれない。それに、あの時だって怖気づいて何もできなかった。竹柴さんが死んでたかもしれないのに」
ごめん、と土下座をする彼。それが可笑しくて、悠希は笑っていた。
「笑うなよ」
「ごめんごめん、顔上げてよ。過ぎたことは仕方ないじゃない。それに、私生きてるよ」
「それは……そうだけど。そうじゃなくてさ」
ベッド脇の椅子に浅く座る、歯切れの悪い彼。虹はもう見えなくなっていた。
「俺、竹柴さんが好きだ。守るなんて思い上がったことは言えないけど、俺、竹柴さんを支えたい。これからも何度も傷ついて生きると思う、でも、その度に俺が傍にいたい。だから、俺と付き合ってくれませんか」
悠希は悩んだ。悩んで、彼を見て、笑って、答えた。
「え、嫌だよ」
「そっか……そうだよな。ごめん」
彼の口調が沈んだことで、悠希は言葉足らずだったと気づいて慌てる。
「そうじゃなくて、そうじゃないの。河田君のことは私も好きだと思う。だけど、私ね、女になったら死ぬつもりだから。いくらなんでも巻き込めないよ」
それに、あのマキとかいう女もいるだろう。彼女もきっと河田が好きなのだと察していたから。河田は悠希から見ても良い男だ。だからこそ、女でない自分は彼に相応しくないと思った。
「どうして死ぬの?」
「どうしてって……」
改めて問われると返答に困った。それは当然のことで、悠希はただ、死ぬと決めたまま、何故死ぬつもりだったかを忘れて生きていた。男として生きるのが辛くて死のうとしたのに、女になれる道が見えた今、死ぬ理由なんてどこにも無くなっていた。それに気付いて、あまりの可笑しさに笑う。分からないや、と答えて笑った。彼も笑っていた。二人で笑ったまま手を取り合った。
「そうだ、今更だけど文化祭の約束。Noahどうだった?」
あのライブは力強かった。彼女たちが大人に立ち向かった、その勇気が胸に響いた。不良だった過去など、今は誰も気にしていないだろう。人は過去を塗り替えられるのだ。
「私も頑張ろうって思ったよ」
男だった過去はいつまでも悠希を苦しめるだろう。これからも何度も泣くことになるだろう。それでも彼女たちのように立ち向かおうと思った。救いの舟は今、手を繋いでくれているから。
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