西村幸治

 妻を亡くして以来、彼は勘が鋭くなった。生前の妻がそういう人間だったから、忘れ形見として置いて行ったのだろう。文字通りの天啓だ。そして、その勘が最初に働いたのは、月城琴乃が職員室を尋ねた日だった。

「毎朝音楽室を使わせてください」

 特別教室を使うには教師の立ち合いが必要で、その立ち合いを誰かに引き受けてほしいということだった。

 琴乃はピアノで数々の賞を得て、職員の間で奇才と称されていた。そんな彼女に手を貸したいと思うのは皆同じだったが、誰も手は挙げない。授業準備に追われる朝を浪費したくはないのだ。

 今に土下座でも始めようという彼女を見て、彼は名乗り出た。妻にそうするよう言われた気がしたのだ。その日から、琴乃との朝が始まった。

「先生、好きな曲ありますか? 弾いてあげますよ」

「好きな曲を弾けば良い。俺は仕事があるから」

 引き受けて正解だったと思った。彼女の演奏は今までに聴いたどの演奏よりも透き通っていて、彼女から香るカサブランカのように美しい。その演奏の中で書いた授業案は、どれも生徒に好まれた。結果として成績の伸びが顕著で、その功績を以て教師内での彼の評価も高まっていた。

 そんな状況に驕っていたから、毎日毎日黙々と演奏する彼女のことを、音楽を愛しているストイックな人間だと勘違いしていた。

「先生、弾いてほしい曲、ありませんか。どんな曲でも良いんです、流行りの音楽でも良いですから」

 それに「ない」と答えた時、琴乃はピアノの蓋を閉じた。今日は気が乗らないとか、調子が悪いとか、奇才にもそういうものがあるのだと思って親近感を感じた。だが、そうでないと知るのに時間は要らなかった。琴乃は泣いていた。何があったのかと聞くも、ただ泣きじゃくるばかりで言葉を発さない。失恋か、いじめか、と考えてしまうのは職業病だろうが、それより先に「どこか痛むのか」と聞いたのは、妻を思い出してのことだった。幸い首を横に振ってくれたから、彼も安堵した。

「月城、何があったのか話してくれないか」

 膝を突く彼、ピアノ椅子に座る彼女。涙が頬を伝うと、彼女は手の甲で拭った。

「うちって音楽一家なんです。パパは作曲家で、ママは詩人……作詞も手掛けているので作詞家と呼んでも良いんじゃないですか。そんなのだから、小さいころからピアノが好きだったんです。好きだったんですよ。なのに、どんどん嫌になる。私は好きだから弾いてただけなのに、賞なんか貰ってからはパパもママも目が変わっちゃった。ピアノの先生が付いて、賞のために毎日毎日練習させられて、いつの間にか賞のために弾いてるみたいになって。それが嫌で、好きに弾ける場所が欲しかったんです」

「それが、ここか」

 勝つための練習を繰り返すあまり競技を楽しめなくなるというのは、高校生には、特に部活をしていれば珍しい話ではない。大切なのは勝ち負けではなく、最後に笑っていられるかどうかなのだが、それを理解するには高校生というのは幼い。それを理解しないまま親になる人間だって珍しくない。琴乃の親もそうなのだろう。

「でも、行くなって言われちゃいました。この間のコンクールで銀賞だったから、練習が足りないんだって。学校で練習する暇があったら家でしなさいって。もっと厳しい先生を付けるとかも言ってて、もう嫌。私ピアノ辞めたい」

 彼は悔やんだ。彼女を奇才と思うあまり、まだ十五、六の子供だということを忘れていた。演奏に聞き入るあまり、彼女が何故ここで弾いているのかなど考えたこともなかった。

 彼はすぐに彼女の担任に話を通し、音楽室の使用を継続できるよう取り図った。その担任が物分かりの良い男で、三者面談の後、事態は一旦解決した。

「先生、この間はありがとうございました。パパもママも頭が固いから、賞は目指しなさいって言われたんですけど、これは息抜きってことで許してくれました」

「そうか、それは良かった」

 琴乃の演奏が聞けなくなることが、彼にとっては一番不都合だった。中毒と呼べば過剰だろうか、いや、彼女の演奏はそのくらい魅力的だった。

「先生の好きな曲、弾きますよ」

「だったら、木綿のハンカチーフを」

「知らないです、軽く歌ってもらえますか」

「冗談はよせ」

 放課後にCD屋に寄ろうと言われたが断る。明日までに覚えてくると言う彼女は、代わりにカノンを弾いた。

 そんな生活が続いた一年目の終わり、琴乃から好きだと言われた。生徒から好意を寄せられること自体は珍しくない。憧れと恋を錯覚しがちな年齢で、彼は特に生徒に親身に接していたから。そして、その勘違いを正すのは教師としての義務だ。

「月城、気持ちは有り難いが、そういうのに応えるわけにはいかない。分かってくれ」

「分かってますよ」

 すんなりと言う彼女に、何か悪い予感がした。彼女は天使のような笑みで、こう続ける。

「先生と生徒はダメなんですよね。分かりました。今は引き下がるので、代わりに来年も毎朝付き合ってください」

 ドアインザフェイス。大きな要求を断らせた後には小さな要求が通りやすいという、心理学用語。彼が心理学の授業を取っていた大学時代、セールスがこれを使ったときは注意すべきだと教えられた。生徒が使ったときはどうしたら良いのかは教えられていない。だから、「参った」と答えた。元より三年通して付き合うつもりだった、この演奏が聞けなくなる方が嫌だったから。

 すぐに失敗したと思った。それで引き下がるとは思っていなかったが、琴乃のアプローチは日に日にエスカレートしていった。

「先生と生徒がダメなら、卒業したら良いんですか?」

 きらきら星変奏曲。よく知るきらきら星が、徐々にその原型を崩しながら一曲を完成させる。琴乃の求愛はまさにこの曲のようだった。

「卒業したらこの時間はない。お前にも新しい出会いがあるだろう」

 一度断るとその日は折れる。しかし、懲りず新たな屁理屈を持ち込む。

「じゃあ卒業しても別に時間作りましょう」

「教師は忙しいんだ、そんな時間はない」

 例えば、教師だから付き合えないという一言で押し退ければ、聞く耳を持たなければ、彼女の求愛は終わるだろう。しかし、その方法は採りたくなかった。生徒と真っ向から向き合うことが教師としての使命で、それは恋愛についても同じこと。彼は屁理屈に正当な理屈を返し続けた。

「忙しいなら私が家事しますよ」

「家事は間に合っている。俺は一人で生きていける」

 彼女は頭の回る子ではなかったため、数日、時には数週間、屁理屈を考えられずにいた。そうしたやり取りを続けているうちに、彼女は賞を取り続けた。果てには全国コンクールで大賞を取り、全国紙のインタビューさえ来た。彼女は世間的にも奇才になった。

「先生、聞いてください。モデルやらないかって誘いまで来たんです。どうしたら良いと思いますか?」

 順風満帆な彼女を見て、彼はますます冷静に彼女のことを考えるようになった。こうなると、彼女の親の気持ちもよく分かった。この才能を前にすると、自分がちっぽけに見えてしまうのだ。彼女はまだまだ上を見て生きていくだろう。その後押しをしたくなる気持ちは十分に分かるし、その邪魔になりたくないとも思ってしまう。

「この先、輝かしい人生が待っているだろう、色々見てみたら気持ちも変わる」

「私のこと信じてないんですか」

「そういうことじゃない」

 琴乃はピアノの蓋さえ開けなかった。真っ直ぐに先生の目を見て、その左手を取った。指輪を撫でながら、こう続けた。

「じゃあ、十年好きでいられたら信じてくれますか」

 あの時のような天啓は聞こえなかった。それでも、この娘は本当に十年後まで意志を貫くだろうと思った。その言葉は、かつて妻が高校生だった頃に言った言葉だったから。生まれ変わりではない。強いて言うなら、類は友を呼ぶ。

 返事をする代わりに、曲のリクエストをした。

「花に関する曲を弾いてくれるか」

「分かりました」

 琴乃はピアノの蓋を開けて、先生に背を向けたまま話す。

「先生から女性の匂いがしたことないので、分かります。なんでそれを弾いてほしいのかも分かります。だから、心して聞いてください。ランゲで、花の歌です」

 優しい曲だった。一本一本の指が花を抱くように優しく動き、広がりのある音が彼の心に深く沈み込む。


 ***


 妻は文芸部の後輩だった。当時の文化部は極端なもので、新聞部のように活動の活発なものもあれば、文字通りの遊び部さえ存在した。文芸部は後者に含まれる。他の部よりも部室が広かったことも一因なのだろう、日陰者の溜まり場になっていた。そんな文芸部で彼は一人、俳句を詠んでいた。高校に入る際に故郷の村を出たが、そこで覚えた俳句だけは一人でも続けたかったから。

 日陰で暮らす毎日に、彼女は現れた。何してるんですか、と覗き込む顔。名前を陽菜と言った。

「俳句だ。邪魔しないでくれ」

「知ってますよ。季語ってやつ」

 陽菜は花を愛する人間だった。花屋の生まれでもないのに詳しく、季節の花を次々と紹介された。違う形で季節を愛でる二人、そこに好意が芽生えるのは簡単だった。

「西村先輩、私と付き合ってください」

「嫌だ。美しい景色は一瞬で、花はいずれ枯れる。好意というのも永遠じゃない、俺は今の関係でいるべきだと思う」

 不器用とか世間知らずと言うよりは、ひねくれ者だろう。そんな彼に、彼女は呆れたように笑って言った。

「枯れない花だって、どこかにあります」

「そんな花はない」

「じゃあ、十年好きでいたら信じてくれますか」

 それが二人の約束。彼は大学に進み、彼女は職に就いた。それでも二人は移りゆく季節を共に愛した。ついに十年が経過するまで二人の好意が枯れることはなく、結婚した。

 二人に影が差したのは、結婚から二年が経過した頃。陽菜が病に倒れた。当時の医療にはどうすることもできず、衰弱する彼女を見ていることしかできなかった。そして、ほんの半年もしないうちに逝去。二人の時間はあまりに短かった。


 花は葉に愛を忘れることも愛


 弱々しい字で遺されていたその句は、陽菜の詠んだ辞世の句。意味は聞くこともできなかったが、聞くまでもなかった。自分を忘れて生きてほしいという彼女の願い。日陰者の彼はそれ以来、一日たりとも指輪を外すことがなかった。


  ***


 琴乃の演奏が終わった。気付けば彼は泣いていた。琴乃にハンカチを当てられながら、泣き続けた。泣き終わりの視野には、妻と琴乃が重なって見えた。

「分かった。十年だ」

「やった。約束ですからね」

 きっと、陽菜の天啓はこれを見越していたのだろうと思った。もし琴乃が十年変わらずにいられたのなら、陽菜への気持ちを忘れられるかもしれないと。

 しかし、琴乃が卒業して以降、顔を合わせることはほとんどなかった。都会の音大に進学した彼女から、定期的に手紙が届くばかり。モデルの仕事も始めたとか、演奏の依頼が溜まっていて会いに行けないとか、近況をよそ目に仕事に励んだ。

 琴乃は大学を出て、彼は二度の転勤を経て橋枝に戻った。それからは手紙が来ることもないまま、ついに四年半が経った。琴乃のことはテレビの中の存在として、自然と忘れかけていた。

 そんな頃だった。自分宛てに届いたという手紙に、彼は目の覚める思いをした。差出人を見るまでもなく、封筒から香るカサブランカに動揺が隠せなかった。

『音楽室で待ってます』

 たった一文の手紙だった。彼は急ぎ足に階段を駆け上がる。音楽室の重い扉を開くと琴乃がそこにいた。ピアノ椅子に座る姿勢は、昔と何も変わらない。彼はどう声を掛けるべきか分からず、かつての距離を思い出しながら椅子に着いた。

「匂い、前と変わったな」

 以前と同じくカサブランカの香りではあるが、昔よりも軽く感じる。会わなかった時間のせいかとも思ったが、寂しげな顔で髪を摘まんでいる彼女を見て、そうではないと分かる。

「同じシャンプーの後継なんですけど、昔の方が好きです。ここは校舎もピアノも、あの頃から変わってなくて良かった」

 閉じたままのピアノの蓋を、琴乃は愛おしく撫でていた。彼は聞きたいことが山ほどあったはずが、どこから聞いて良いものか分からない。

「もう諦めたかと思ったが」

「ごめんなさい。何かあったわけじゃありません。何もなかったんです」

「どういう意味だ」

 琴乃が立ち上がるのに合わせて、彼も立ち上がった。少し、身長が伸びているように思える。顔立ちに幼さが抜けても、彼を見つめる瞳は真っ直ぐなままで、天使を思わせる笑みは曇りを知らない。

「四分三十三秒って曲、知ってますか?」

「いや」

「全休符しかない曲です。誰も何も演奏しないから、一見おかしな曲。でも、何もない時間がむしろ人の心を動かすことだってあります。私はこの四年半、試しに先生を忘れて暮らそうとしました。でも、忘れるなんてできませんでした。その時間が、先生を本当に好きなんだって証拠にもなりました。身勝手なことを言っているのは分かります。その四年半で愛想尽かされていたとしても、それでも先生に会いたいと思いました。私は先生がずっと好きです。先生が良いです。この十年、何も変わらずに好きでいました」

 琴乃は先生の指輪に触れてから、再び彼の目を見つめる。彼は琴乃を見つめ返して、指輪を外した。

「花を愛した女だった」

「だったら私は、音を愛する女です」

 文化祭が終わる。十年前の続きのように、二人きりの演奏会が始まった。

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