②
それからの一ヶ月は、会えなかった時間を埋めるように、互いの知らない時間を語り合った。二人が出会う前の話、二人が離れてからの話。琴乃は体調不良ということにして演奏の依頼や取材を断り、先生と毎夜を過ごした。
琴乃は彼が言った通り、輝かしい人生を送っていた。才能を世間に認められ、傍らでモデルの仕事をこなし、メディアへの出演も積極的にこなした。休符のない十年だ。数多の出会いがあり、幾多の求愛を受けたが、その一切に微塵の興味も示さなかった。メディアの取材に対して「心に決めている人がいる」と答えたこともある。それでも自分を試そうと、先生を忘れて過ごした。世に溢れる魅力的な人間を見る度に、決意が揺らぎそうになった。その中で、自分がどうしてこんなにも先生に固執しているのかと、思い直した。
中学生の頃だ。琴乃の家は音楽に厳しかった。今にしてみれば期待の表れだったと思えるが、当時の琴乃には重圧と呼ぶ他になく、家では肩を縮めて生活していた。好きで通い始めたピアノ教室は、コンクールで金賞を取ってから辞めさせられた。代わりに専属の講師を付けられ、平日の夜がなくなった。一つ音を間違えれば叱られ、いくら眠い日でも寝ることは許されない。賞を取れば褒められ、逃すと叱られる。
そんな生活が嫌になって、ある時学校から帰ろうとしなかった。足枷が外れた気持ちで駆け回っていると、最初は気持ちが良かった。自由だと思えた。だというのに、ピアノが弾きたくて仕方がなかった。
思い立って向かった音楽室では先生がピアノを弾いていた。足の長い音楽の先生。歌を口ずさみながら、体を揺らして。クラシックばかり練習していた琴乃には、その様子があまりに楽しそうで、羨ましかった。
先生は琴乃に気付くと、演奏を止めて手招きした。
「あなた二組の、月城さんだったかしら。ピアノが上手な子でしょう」
「はい、月城です。今弾いてたのって何ですか」
「心の中にきらめいて。三年生が卒業式で歌う曲よ。弾いてみる?」
先生は楽譜を開いたまま、席を譲った。先生が歩いた跡は花の香りがする。
その楽譜を見て、琴乃は顔をしかめた。普段見る譜面と比べると音が少なく、変化にも乏しい。弾く前から物足りなさを覚えた。琴乃は楽譜をしばらく眺め、頭の中でアレンジをして弾き始めた。楽譜を閉じ、目を閉じ、この卒業の曲を深くまで見つめる。卒業とは何か。一音一音の意味を考えながら、余韻を残すように弾ききった。目を開けると、先生が拍手をしている。
「大した演奏だわ。でも、勿体ない」
「どこがですか」
「一人で完成させちゃうのは勿体ない。合唱曲っていうのは本来指揮があって、ピアノがあって、男声、女声が集まって初めて完成するの。月城さんはそれを、ピアノ一人の力で完成させちゃった。それはとても立派な実力だけど、寂しいものなの」
「何が悪いんですか」
琴乃は自分の演奏にばつを付けられたようで、この先生も嫌いになりそうだった。
「これはね、卒業の歌なの。卒業する人達の曲なの。それを歌うときってどんな気持ちかしら。学校で楽しいことも悔しいこともあったでしょう。運動会のことを思い出してるかもしれない。部活で描いた絵を想像してるかもしれない。喧嘩をしたまま仲直りができていないかもしれない。好きな友達と離れ離れになって悲しいかもしれない。名残惜しさに胸を痛めていることでしょう。卒業後の未来に胸を膨らませていることでしょう。そうやって一人一人違うの。皆に卒業の想いがある。それを表すにはね、一人じゃダメなのよ。あなた一人の卒業では、この曲は表しきれない」
「そんなの、どうしようもないじゃないですか」
先生は首を横に振る。長い髪がしなる。
「一緒に歌いましょう。今度は目を開けて、自分以外の全てを見つめてごらんなさい。あなたの音楽は、まだまだ広がるわ」
今度は楽譜のままに弾いた。歌いながらというのは慣れなかったが、それでも、先生の言いたいことは伝わった。男声パートを先生に任せ、女性パートはピアノを任せ、二人で作る音楽は楽しかった。卒業のイメージとは違うのかもしれないと思いつつも、楽しく笑いながら歌った。それは、琴乃一人では知り得なかった卒業だ。
その日から、琴乃の演奏は伸び伸びと広がりを持ち始めた。家での練習を休んだから両親には酷く怒られたが、演奏を聴かせると途端に静かになった。両親は子供の扱いを知らずとも、音を知る人間だから。音楽の先生のお陰だと言うと、放課後の居残りも認めてもらえるようになった。先生と過ごす放課後が琴乃の音楽を広げ、琴乃は音楽を見つめ直す機会を得た。楽しく笑顔になる放課後も、苦しく辛い家での練習も、どちらも大切にすることができた。
卒業するに当たって、先生のシャンプーを教えてもらった。先生の花の香りを身に着けていたら安心できると思って。
その後は地元の高校に進んだ。偏差値の多少低い方が音楽に専心できると思ったから。そして、高校でも真っ先にあの時間を作ろうと思った。そこで出会ったのが西村先生。まだ若い先生だけれど、何か喪失感の中にいるように感じた。何もそういう顔をしていることはないが、どうしてそう感じたのかと考えるうちに、彼の指輪に気が付いた。そうすると、様々のことに目が届くようになった。弁当は市販のもの、襟を曲げて登校する日もある、女性の匂いがしない、休日も毎日学校にいる。
先生を知るうちに好意が生まれたのは兎も角、その後交際を迫ったのは冗談半分だった。彼には何か悲しい過去があるのだろうし、そもそも生徒と付き合うなんて有り得ない。分かっていても、一度見切り発車をした以上折れるのも嫌だった。そんな日々の中。
「俺は一人で生きていける」
そう言われた時、確信に変わった。この人は大切な人を亡くしたのだと。その頃にはもう、琴乃は止まれなくなっていた。それがあの十年の始まり。
琴乃が語り終えると、彼の語りが始まった。妻との出会いを始めに、妻と死別してからの日々。勘を頼りに生きていたら、何人もの生徒を助ける結果になっていたこと。その裏で、自分が助けられなかった多くの生徒たちのこと。顧問になった文芸部で、俳句とまた関わるようになったこと。恋の句に拘る小原まりのこと。同郷の遠山桜のこと。手に負えない苫屋瑠璃のこと。小説家を夢見る文月瑞姫のこと。幼馴染と二人三脚の吉松宗谷のこと。今にも死にそうな目をしていた竹柴悠希のこと。
昔の記憶ほど曖昧で、今に近づくほど一人を語る時間が長くなった。琴乃はどの話も学生時代を懐かしむように聞いていたが、全てを聞き終わってから、恐る恐る告げた。
「その苫屋さんって子、嫌な感じがする」
嫌悪という意味ではない。彼女の勘が瑠璃の身を案じていた。彼はそう言われるまで、瑠璃の行動が大人しいことに気が付かなかった。運動部に紛れ込むことも、遠くに散歩をして遅刻をすることもない。黙ってHRに参加していることなど、これまでには考えられない姿だった。受験期の三年生だから、気分屋だから、などと理屈を重ねることはできても、勘を信じて生きてきた以上、琴乃の言葉を無視はできない、一先ず様子を見るとは言ったものの、彼は不穏な気持ちで明日に望んだ。
瑠璃の動向を探るのに、悠希との面談は都合が良かった。教師と生徒では視野の広さが違う。一クラスについても四十人を相手にする教師と、せいぜい五、六人と深く関わる生徒では、感じるものが異なるだろう。何より、同じ生徒同士だからこそ見えることもある。
「それで、大地が夏休みに海行きたいって言うんです。でも水着じゃないですか、それは流石に色々無理じゃないかなって悩んでて。あ、でも大地なりに調べてくれて、着たまま泳げる服とか、ワンピーススタイルなら体型も隠しやすいとか、とっても優しくないですか? あとこの間病院にも着いて来てくれて」
面談は文化祭を最後にするつもりだったが、直後の事件があって目を離すに離せなかった。しかし事件以来、悠希は毎回楽しそうに彼氏のことを語るばかりになっていた。彼はやかましいと思いつつも、年頃の女はこういうもので、琴乃が特別落ち着いていたのだと思い直さずにはいられない。あるいは琴乃も、学生時代に付き合っていればこのようにはしゃいでいたのだろう。
「悦楽に浸るのはそこまでにして、苫屋に何か変わりはないか」
「苫屋先輩ですか? 何か悩んでそうな感じはしますけど元気ですよ。今日も紙飛行機の折り方を模索してて。ああ、そうです。苫屋先輩の紙飛行機、折り方が独特なんですよ。毎回違うんですけど、どれも鳥の形をしてるんです。一回見てみてください」
紙飛行機を投げる動作をして、悠希は眩しく笑う。
「何に悩んでいるか、心当たりはないか」
「ないですね。苫屋先輩とはあまり付き合いがないですし。そういうのは遠山先輩が詳しいんじゃないですか?」
悠希は得意げに珈琲を飲んで、苦さに顔をしかめていた。
彼は悠希の言う通り、桜を呼び出した。部室で息抜きを挟みつつ、受験に向けての勉強を始めているらしい。瑠璃に何か変わりはないかと聞くと、一度目を逸らしてから、珈琲を口にする。
「ルリちゃんでしたら、何も変わりないと思います。卒業を控えて大人しくなっているのではないでしょうか。ああ見えて寂しがりな子ですから」
「そうか。何かあったら相談してくれ」
桜は柔らかく腰を折ると、窓の外を見つめていた。梅雨の雨が降っている。
「この間の賞、竹柴さんが受賞していて嬉しかったです」
「そうだな」
桜と悠希が応募した賞は、悠希だけが受賞した。桜はそれに気を病むこともなく、今も悠希に俳句を教えている。彼はその様子を見て、次は瑞姫を呼ぼうと思った。
瑞姫は不満げにアップルティーを飲んでいる。珈琲は飲めないそうで、部室からティーバッグを持ち込んで勝手に淹れた。カップを持つ手の小指は、鉛筆の墨で汚れている。
「どうだ、進捗は」
「上々です。宗くんも手伝ってくれるので、年内には完成すると思いますよ」
先生の話も書こうと思う、と語る彼女をよそに、彼は瑠璃の話を持ち出すか迷っていた。桜さえ何も変わりないと言ったことで、本当に何か気のせいだったのではないかと思い始めていた。
「全員に面談をしているんだが、苫屋だけは来なくてな。どうだあいつは、変わりないか」
「ここ最近は何も。でも、文化祭が終わってからじゃないですかね、大人しいの。本を作って満足したか……それか多分、宗くんと何かあったんだと思います。宗くん、そういうの私には絶対に言わないでくれるので」
瑞姫は宗谷と瑠璃が本を作っていたと話す。彼も完成品を受け取ってはいたが、悠希に手をこまねいていて、一切を知らない。半信半疑で、宗谷を呼ぶことにした。
瑠璃の話を聞こうとした時、宗谷は一枚の封筒を机に置いた。
「これはルリ先輩から預かったもので、多分今が『その時』なんだと思います」
真っ白な封筒。宛名も差出人の名前もなく、封筒だということだけが分かるそれは、何枚もの紙を含んだ厚みを持っている。『その時』が来たら読むようにと言われた。宗谷としても、本当に今が『その時』なのかは分からない。そして、不気味なまでに白い封筒は、開けてしまえば必ず後悔するだろうと思わせる。
「遺書か」
「分かりません。でも、そうだと思います。ルリ先輩に何かあれば開けるつもりで、開けることがなければ良いと思って触れずにいました。でも、こうして先生が俺を呼んだってことは、手遅れになる可能性があるんだと思ったんです。そうですよね」
宗谷も悠希も、他の面々も皆、彼を信じていた。彼は常にその期待に応えられたわけではないが、常にその期待を背負う義務を有している。それが彼の思う大人であり、先生だ。
封筒を宗谷から預かるも、この場では開かないよう頼まれる。
「もし読んだら、俺はルリ先輩のことを今まで通りには見れないと思います。肩入れしてしまうと思うんです。それは姫に申し訳ないので、後は先生に任せて良いですか」
「分かった、任せろ」
宗谷が部屋を出てから封筒を開けた。瑠璃の遺書を読んで、彼はもう着けていない指輪を撫でた。
家に帰ると、琴乃は電子ピアノを弾いて待っていた。既に自分の家のように寝転ぶ彼女を微笑ましく思いつつ、その演奏を聴く。
「琴乃の言う通りだった。お前の勘はよく当たるもんだな」
「先生だって勘は良いでしょう」
「いいや、俺は……」
瑠璃の遺書を読んだ時、彼は勘が働くような気がした。だが、かつてこういう時にこそ働いていた天啓がなかった。それはきっと妻の手を離すことができた証なのだろうが、そこに寂しさを覚えずにはいられない。ない指輪を弄る手に、琴乃の指が触れる。
「大丈夫ですよ、先生。今度は私が貴方の勘になるから」
琴乃はまだ、先生と呼ぶ癖が抜けない。二人で瑠璃の遺書を読み、二人でどう動くべきか考える。先生というものは万能ではない。先に生まれたと書いて先生。それ以上の意味はない、一人の人間だ。だからこそ過信してはいけない。一人の命を助けるのに、一人の力で間に合うと思ってはいけない。
読み終わってしばらく考え込んで、琴乃は電子ピアノを畳みながら言う。
「中原さんって人、探せると思う」
「どうやって探すんだ」
「私を誰だと思ってますか」
琴乃は自分の胸を指して、得意げに笑ってみせた。
***
一週間もした頃、テレビでは琴乃が作曲した「歌」が流れていた。母の亡き後、自分一人で生きていくと意気込んだものの、帰る場所を切望する少女の歌。琴乃はテレビのインタビューで、体調不良の間の寂しさを歌にしたと答えた。琴乃はピアノの奇才だったが、それ以前に音を愛する人間だ。
「中学の頃、音楽の先生から歌の楽しさを教わりました。だから、いつかピアノだけではなく、こうして歌として私の想いを発表したいと思っていました。それを叶えてくださった皆さんに、まず感謝を申し上げます」
琴乃が弾き、琴乃が歌うピアノの歌。今までになかった歌手の姿と、琴乃のピアノの実力、更にはその容姿が相まって、瞬く間にその歌は有名になった。テレビで、ラジオで、行く先々の店で流れ、世間を揺らした。
やがて夏の終わりに、中原しずくは現れた。
日が暮れればヒグラシが聞こえる、もう八月になろうという晩夏。橋枝高校に客人があった。中原しずくと、その夫。
「苫屋瑠璃という子を呼んでいただけませんか」
彼はそれを聞く前から、瑠璃を応接室で待たせていた。薬指に着けた新しい指輪を撫でて、二人を案内する。
応接室を開いた時、その部屋を真っ白な紙飛行機が飛んでいた。鳩の形をしたそれが、しずくの手に収まる。虚ろだった瑠璃の目は光を宿し、途端に涙に溢れた。
「何をしに来たのですか」
瑠璃は自分が泣いていることにすら気付かないまま、淡々とした声で喋る。
「瑠璃、あなたを迎えに来ました」
「余計なお世話です。ルリはもう一人で生きていけます。しずくはしずくの道を歩めと言ったはずです」
しずくは先生と目を合わせてから、椅子に座った。そして、隣の男性を指して続ける。
「ええ、瑠璃の言った通りです。私はもう一度自分の人生をやり直しました。この人は、瑠璃に会う前に付き合っていた男性です。今はこの人の妻、鈴木しずくとして生きています。それはとても大変な決断でした。一度身勝手に別れておいて、また身勝手にやり直そうなんて自分でもどうかと思いますが、それでも瑠璃が言ったことを受け止めた結果です」
ルリは驚いた顔で夫の方を見て、しずくの方を見て、腕に落ちた涙で自分が泣いていると知る。信じられないものを見る目をして、袖で目を擦った。
「良かったじゃ、ないですか。二人で幸せに暮らしたら良いじゃないですか」
「いいえ、瑠璃が言ったことはもう一つありますよね」
柔らかい口調だった。まるで、母のような慈悲を含んだ声。瑠璃はその声に眠っていた日々を思い返しながら、しずくの言う「もう一つ」を探した。
『もう一度あなたの人生をやり直してください。あなたは誰も裏切っていませんし、今度こそ誰かと家庭を築くこともできます。子供が欲しければ里親制度だってありますから、親のない子供の、本当の親になるのは如何でしょう』
瑠璃は確かにそう言った。言った当時は考えもしなかったが、親のない子供に自身も含まれるのだと気づいて黙り込んだ。
「私たちは瑠璃の本当の親になりたいです。瑠璃が望むなら三人で暮らしませんか」
瑠璃は俯く。隣にいる夫も、加勢するように身を乗り出した。
「僕も瑠璃さんの話は聞いてるよ。しずくさんをどれだけ愛していたのかも知ってる。突然の話だからすぐには決めなくても良い。今すぐというのは難しいだろうから、卒業してからでも良い。瑠璃さんがどうしたいか考えてくれないか」
二人の言葉を聞いてから、瑠璃は大きな声を上げて泣いた。しずくの胸に飛び込んで、幼子みたいに泣いた。怖かったのだ。一人で生きることも、一人で死ぬことも。ずっと一人で死と向き合い、ずっと一人で平静を装って生きた彼女は、やっと年相応の女の子になった。
失った中学時代を取り返そうと生きた高校時代。瑠璃は急ぎ過ぎたのだ。人生はいつだってやり直せる。立ち止まったことのない人間はいない。立ち止まっていたことを後悔し、自分より前にいる人間ばかりを見て焦っていたのだ。本当は横に並んでいる人間が何人もいる。
家族の一員になろうと、過去の約束を引きずり続けた瑞姫。
自分にできることは何もないと思い込み、せめて彼女の隣を歩き続けた宗谷。
故郷を大切にするあまり、新しい俳句のあり方を受け入れられずにいた桜。
自らの生まれに絶望し、生きることを諦めていた悠希。
文芸部にはそうやって、立ちどまったことのある人間がいた。先代の小原もそうだ。全員が全員、瑠璃と共に歩く仲間だった。前ばかり見ていては気付かないものがある。
夏の終わり、瑠璃はしずくの手を取って、三人で歩き始めた。
爽やかな朝、彼は一緒に来てほしいと言った。琴乃はスケジュール帳を見せながら、この日だけ何の予定も入れていなかったことに胸を張った。
「流石の勘だな」
「偶然って言いたいけど、今回はそうでもないよ。この日は、三年連続で先生が悲しい顔をしていたから、よく覚えてたの。私のピアノなんか聞いてないくらい」
「それは悪かったが、また先生って呼んでるぞ」
「幸治さん」
琴乃はむすっとした表情で撫でられる。透き通った黒髪の前では、指輪がよく映える。
彼が洗濯物を干す間、琴乃は朝のピアノを弾いていた。寝起きは良い彼女だが、弾かなければ覚めない脳があるのだと言う。一時間ほど弾くと、彼の運転で墓苑に向かった。
妻の命日だった。秋の水は澄んでいて、雑巾を絞る度に光がきらめく。
花は葉に愛を忘れることも愛
「あいつが遺した句だ」
二回読み上げる間、琴乃は目を閉じて聞いていた。ゆっくりと目を開くと、彼の拭く墓石の重々しさを感じる。
「綺麗な音。花は葉にって、どういう意味?」
「桜が散って葉桜になることだな。花を愛した女だったが、俳句は下手くそだ。俺は葉桜になったあいつも愛している。愛はそういうものだ」
花を愛する彼女だったから、葉桜の美しさを十分に知らない。花は枯れるし、季節は変わる。それでも、桜は来年も咲くのだ。花が落ちれば葉に変わり、葉が色を変える頃には芽が育っている。冬の寒さを耐える、力強い芽だ。そして今、彼の隣には新しい花が咲いている。
「私も俳句詠んで良いかな」
「ああ、きっと喜ぶ」
拭き上がった墓石に手を合わせた後、彼の手を取って詠んだ。
「花は葉に――」
俳句は季節を愛する文学で、世界一短い韻文だ。音を愛する琴乃の句は、天国まで響いたことだろう。
花は葉に 文月瑞姫 @HumidukiMiduki
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