遠山桜
①
往々にして、人間は強がりの中を生きている。例えばそれは笑うこと。別離に於いても笑うこと。例えばそれは泣かないこと。敗北に於いても泣かないこと。人間はそうやって、弱さを見せないように生きている。
逆に弱さを見せるということは、それなりの意味を孕んだ行為となる。友人や恋人の前で泣くのは、弱さを見せ、辛さを共有するためだ。人間が誰かを泣かせるのは、例えば大人が子供を叱り泣かせるのは、自分の立場が上だと信じたいがためだ。
そう考えると、恋というのは本当に病気だ。隣に立ちたいと願う相手に、自分の弱さを見せる行為なのだから。相手を見上げておきながら、その背を追っていながら、隣に立てるはずがないのだ。
そんなことを考えたところで、遠山桜は自嘲気味に笑った。夕焼が徐々に濃くなる部室で、本を膝の上に置く。
「ねえ、ルリちゃん。私は本当にずるいと思うのです。『てふてふや』に書かれている私は全て嘘で、本当はもっと弱い私が書かれなければいけなかったのに」
昨日、桜にとって最後の俳句甲子園が終わった。それも、戦わずして。それを不満に思っていたのは、瑞姫と宗谷くらいのものだろうか。いや、二人でさえ、それ自体に不満を覚えていたわけではないだろう。だが、桜のように、安心さえ覚えていた者は少なかったはずだ。
***
桜にとって俳句とは、幼少期の思い出の全てだった。両親にただ付き添っていた句会、少年に教えてもらった句作、彼と競った句詠、やがては彼の席で詠んだ句群。村での思い出は全て、俳句を軸に回っていた。村自体が一つの句会場のようなものだった。
だからこそ、彼女にとっての俳句は、美しいものでなければならなかった。
ダム建設で村が消えた後、彼女は町に出た。どこかで句会に参加しようと考えていたが、市に出なければそのような催しはない。敢えて市の句会に参加したところで、きっと村のそれとは大きく違うだろうと諦めた。その代わりのように、市の俳句大会に応募した。幾つかは賞を取ったが、桜は何も満足できなかった。彼女にとっての俳句は、村でするそれ以外になかったのだ。以後、桜は俳句を詠まなくなり、俳句が好きだという気持ちすら心の奥底に隠し続けていた。
ただ心の隅に隠しただけの感情は、いつその刃を振りかざすか分かったものではない。
中学の彼女は無難に無難を重ねた真面目な人間として、普通の生き方をしていた。毎日時間通りに学校に来て、黙って板書をし、昼休みには自分の机で弁当を食べ、クラスメイトと談笑する。放課後には真っ直ぐ家に帰り、その日の授業の復習に、明日の予習。一から十まで平凡な、代わり映えのない日常を過ごしていた。高校はほんの二駅先。偏差値は高くないものの公立。無難な親孝行。
そこで真後ろの席にいたのが、瑠璃だった。最初の席は名前順だったため、遠山の次に苫屋が来ていたのだ。それが彼女の人生にとってどれほど納得のいかないことだったかは、もはや語るまでもない。ホームルームは面倒だからと抜け出し、授業中には居眠りをするか煩いほどに意見するか。放課後は誰かを引っ張ってどこかに行く。隣町の散策に連れて行ったり、運動部の練習に混ざったり、縦横無尽の行動力だった。
気安く話しかけて来るのも不愉快だった。初対面から馴れ馴れしかったし、何より極め付けは「さくらん」というあだ名。まるで錯乱しているかのようではないかと、穏和な桜も憤慨した。
しかも、席替えをしても彼女は隣の席にいた。
「おー、さくらんまた一緒」
「その妙な呼び方はやめてください」
「良いじゃん、さくらん。さくらん。さくらんぼみたいで」
ああ、それは錯乱の意ではないのですか、と皮肉を言おうとして、やめた。こういう人間には無視が一番だと思ったからだ。
「ねえねえ、なんでそんなつまんない顔してるの?」
「あなたが楽しい顔をしているだけです。私が普通です」
「ふうん。嘘が下手ですね、さくらんも」
その一言を桜はどうしても忘れられなかった。自分の本音を見透かされたからではない。良く言えば天真爛漫、悪く言えば暴走族予備軍な苫屋瑠璃が、初めて陰を見せたからだ。いや、正しくは、桜はその、憂いを秘めた表情に思わず見惚れてしまったのだ。
以来、桜は瑠璃と行動を共にすることが多くなった。
四月は二人で川遊びをした。まだ水が冷たくて、中には入れなかった。五月は二人で桜餅を作った。学校の家庭科室を無断で使った。六月は街中のかたつむりを数えた。中身のいない個体を数えるかどうかで二時間も話し込んだ。七月は星図を作りに出た。カシオペア、北斗七星以外は好き勝手に星座を考えたが、星が幾つも余った。そして、八月には瑠璃がいなかった。
瑠璃は蝉より先に抜け殻になっていた。ただ学校に来ているだけのそれに、誰も声を掛けなかった。何かがあったのだろう、と察して、敢えて近づく者はいない。桜は瑠璃の言葉「嘘が下手ですね、さくらんも」を思い出して、ああ、やはりあれは無理をしていたのか、と思って、いつか戻る日を待っていた。
ただ心の隅に隠しただけの感情は、いつその刃を振りかざすか分かったものではない。
瑠璃が実質的にいなくなってから、桜は暇を持て余していた。元の無難な生活は、どうにも退屈だったのだ。そんな日の放課後、いつの間にか散策癖でも付いたのであろう、桜は一人、校内を歩いていた。
校門から始めて、図書館。食堂前を通って理科棟の入り口。ギター部に放送部、演劇部の部室を過ぎてから一階へ上がる(職員玄関がある高さが一階のため、理科棟の入り口は地下一階と呼ばれている)。家庭科室では家庭科同好会がエプロンに着替えていた。二階は化学教室。閉まっていた。三階は生物教室。教室前で飼われているウーパールーパーと目を合わせて、手を振って帰る。四階は物理教室だが、どうせ閉まっているだろうと、そのまま教室棟に移動する。
三年生の教室からは鉛筆の音、教科書を捲る音、蛍光ペンのキャップが外れる音。二階に降りて二年生。体育館から颯爽と駆けて来た男子とすれ違う。
風が桜の髪を揺らすと、「その少女」のリボンも揺れた。
ちんまりとした背丈に、おどおどとした態度。下級生である桜に会釈をして、肩身の狭そうな歩き方をする。髪はピンクの紐リボンが下手に結ばれた校則違反のハーフアップ。丸めた画用紙を大切そうに抱える彼女に、あれもまた苫屋さんのような変わり者なのだろう、と考えていた。しかし、それをどうして追いかけてしまったのか、桜には到底分からなかった。あるいは瑠璃に感化された結果なのだろう、あるいはそこに面白いものを感じてしまったのだろう。
追いかけたことを彼女は後悔した。いや、その時点では後悔さえしていない。少女が職員室前の掲示板に貼ったのは、そのポスターは、文芸部の部員募集ポスターだった。俳句甲子園を目指しているとかいう説明が添えられた。
俳句の二字に心臓が強く鳴った。ずっと忘れたままだった感情が、ガラスの破片となって血管を泳ぎ始める。誰かと俳句をする、部活として俳句について語り合う、そんな村の残光を見始めた。
慌てて図書室に駆け込み、それを調べた。文芸誌を次から次へと漁り、俳句甲子園とかいう未知の言葉へ。そうして、知る。五人一組による団体戦で、三本勝負であること。俳句の出来と、質疑応答の上手さで点数が付き、勝敗が決すること。その質疑応答が、作品への誹謗中傷にも近い、ダメ出し合戦であること。
桜は本を投げようとして、その手を下ろした。一瞬でも期待した自分が愚かだったのだと、力ないままに帰路に就いた。大きなガラス片が心臓を通った。
***
桜はあの日から、俳句甲子園に果てしない嫌悪感を抱いていた。桜にとっての俳句とは和気藹々とその良さを語り合うものであって、粗探しなど以ての外であった。
「私は最初から最後まで、俳句甲子園が怖かったのです。自分の句が、勝利のためだけに貶され、価値のないものだとされることが怖かったのです」
桜は椅子を離れ、本を鞄にしまっては窓の外に憂いを見せる。五月の中旬である今、夕焼は薄く、どこかぼやけたように映る。
「ルリちゃんを信じなかったわけではありません。ルリちゃんなら本当に俳句甲子園を変えてしまえるのではないかと、確かに思っていました。でも、私にはそのようなことはどうでも良かったのです。ただ、ルリちゃんと同じことをできるということが嬉しかったのです。だって、人形みたいに虚ろだったあなたが、やっと以前のように駆け回っているのですから、それをまた一緒に楽しみたいと思ってしまうのは、あなたのせいではないですか」
ねえ。と言うも、しんと静まった部室。そこには桜の他に、影などない。
「ルリちゃん……私は、俳句甲子園なんて出なくて良いのです。良かったのです。俳句なんて続けなくて良いのです。ルリちゃんがいてくれたら、それが私の救いなのです」
去年、桜は故郷のことを話した。先生から、何故俳句を詠むのか、と聞かれた時だ。故郷の記憶を風化させないため、故郷の記憶を誰かに受け継ぐため、俳句にするんだ。なんて格好の良い言葉を並べが、本心は違った。
「私はぽっかりと空いた穴を埋めたかった。それは俳句ではなくて、ルリちゃんでないとダメなんです。だって私は……私はあなたのことが」
窓から吹き込んだ風は、ただ冷たかった。
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