苫屋瑠璃
遺書
遺書とは言いますが、私は死ぬ者ではないと先に書きます。ただ、これを書くのに、遺書以上の名目が存在しなかったのです。自分の生い立ちや考え、後悔を綴るのに、日記や手紙などという体裁は取れなかったのです。もう少し柔らかな選択があれば良かったのですが、私はこれで良かったのだと思っています。
私は学者夫婦の元に生まれました。父は数学者で、母は言語学者でした。とても裕福な家ではありましたが、二人は研究に勤しむばかりで、私のことなど気にかけてもいないようでした。いいえ、本当は誰よりも愛されていたと思います。しかし、彼らはそれ以上に手を焼きたいことがあったのですから、仕方のないことでしょう。
その代わりのように、家政婦が数人ほど来ていました。家事を一通りこなし、子守をする、言ってしまえば母親代わりでした。母と呼ぶことを勧められたこともありましたが、しかし当然、私が彼女らを母と呼ぶことはありませんでした。彼女らはあくまで家政婦であって、家族ではなかったのですから。
そうやって家族と家族でないものの境界を意識してしまうと、その内側、家族に関心が向くのは当然のことで、少しずつ両親への想いというものは膨れ上がっていきました。両親が研究よりも愛を注ぐような、そんな娘になりたいと、そう思い始めたのです。あるいは私は、両親のしている「研究」というものに嫉妬していたのでしょう。
小学生になると、私は勉学に励みました。遺伝の影響か、天才だとか神童だとか呼ばれていたこともありますが、あれは彼らなりの皮肉、嫉妬だったのでしょう。しかし、私が図書室に入り浸り、端から端までの本を読み、市の図書館から難しい本を持ち込み、学校にいる間ずっと本と過ごしている姿を見られていたからでしょうか。それが努力の賜物であると知ったからでしょうか。余計な妬みはすぐに消えました。天才、という言葉の重みを、彼ら幼い子供なりに分かってしまったのかもしれません。まあ、真似しようなんて考える酔狂な人間はいませんでしたから、私には友達がいませんでした。妬み僻みを受けている間が、ある意味一番人気者だったのでしょう。
でも、そんな人気は要らなかったのです。私は両親の愛以外を求められませんでした。両親の見ているものに少しでも近づきたくて、両親の隣で一緒に研究をしたくて、とにかく必死になっていました。
学校が終われば一目散に帰って、書斎の学術書を読み漁っていました。内容以前に何語で書いてあるのかさえ分からないことばかりでしたが、分かろうとする努力というのは研究心そのものであり、その時間は両親を近く感じられていました。
ある時、私が小学校を卒業した頃です。両親が旅行に誘ってくれました。結婚記念日だったそうですがそれは表向きの話で、本当はお互いに論文が片付き、少しばかり暇になったのです。私が生まれたのも、そんな工程だったのだろうと察しました。私は断りました。記念日の旅行くらい二人で楽しんでほしいと、大人ぶったことを言っていました。
両親への配慮というものは確かにありましたが、他でもない私が、娘としての幸福をみすみす手放すには、その理由では足りません。ただ、私はあのように、自分の成果として両親の隣に立つことを目指していましたから、手を引かれて歩くことは不本意だったのです。
さて、両親を見送ってすぐ、私は彼らの論文を燃やしました。
当然データは残っていましたし、私もそれは知っていました。ただ、論文を燃やすという行為自体が目的だったのです。両親への怨恨ではなく、ただ研究への嫉妬が生んだ行為でした。何の意味もないと分かっていながらも、両親には私のことを分かってほしかったのです。今まで放っていてごめんねと、そう言って抱きしめてくれるような、そんな空想に浸っていたのです。
でもそれは、本当に意味のないことに終わりました。灰になった論文を両親が見ることは、終ぞありませんでした。彼らは死にました。列車事故だったそうです。私に残されたのは膨大なお金と、この家と、この先の人生でした。旅行に着いて行きさえすれば、私も一緒に死ねたのに、などと考えることもしばしばありました。そのくらい、空虚な生活を送っていました。
親戚を名乗る者から「引き取り手」になりたい、と言われることも多々ありましたが、それは私ではなく、遺産を引き取りたいのでしょう、と言うと、彼らは途端に黙ってしまうものです。書類上は、一度会ったことのある、ただ一声、大変でしたね、と声を掛けてきた叔母に引き取られたことにしました。当然住処を変えることもなく、叔母とそれ以上何か交流をするわけでもありませんでしたから、都合が良いとはこの事です。
家政婦たちは皆、私に同情の目を向けるばかりでした。その目こそが私に件の記憶を思い出させるとは一切考えず、ただ、お嬢様、などと気まずそうに呼ぶのです。それが私には耐えられず、家政婦たちを辞めさせた後、新たな者を探すことにしました。ところが、何ゆえ小さな街ですから、両親の噂などは幾らでも耳に入ったのでしょう。家政婦を志望する人間は数あれど、その殆どが財産目当てでした。先の親族の件もあり、私が人間不信に陥りかけたのは言うまでもありませんが、しかし、人間よりも、ただ私は一人で生きていくことの方が、余程怖かったのです。
期間にして二週間と三日、人数にして十一人目にして、「彼女」と出会いました。彼女は名を中原と言う、これから二十歳になろうかという者でした。家政婦と言いますと家事に精通している者の仕事でもありますから、彼女のような者が志望する道理はありませんでした。聞いてみると、当然家事の経験など希薄で、なぜ志望したのかと聞いても、答えたくないと言うので、いよいよどうして応募してきたのかさえ分かりませんでした。流石にこれを家政婦として雇うことは無理だと思ったのですが、しかし、この者からは唯一邪な感情が見えなかったもので、私の目的には沿うのではないかと、これを雇うことに決めました。また、向こうが住み込みを希望すると言うので、実質的な二人暮らしが始まりました。
中原は家事ができないことはなかったのですが、当然前の家政婦らのように、手際も精度も良いはずはありませんから、二人で分担することにしました。勿論、家政婦として雇っている以上、彼女の仕事が多いのは言うまでもありません。炊事は全て中原に任せ(どうにも得意だったため)、洗濯は中原が干し、私が取り込むことに。掃除は廊下とリビング、中原の寝室、庭の手入れを命じました。書斎と私の部屋には入らないように、と言って。
やっと家事の分担が完成し、互いに幾度の食卓を囲んだ四月の頭のことです。リビングで眠気を待っていた私に、中原が、今まで辛かったでしょう、よく頑張りましたね、と言って私の頭を撫でました。優しく、鼓動のような速さで、上から下へと撫でるのです。その仕草がまるで、絵に描く「母」のようで、たまらなく気持ちが悪くて、彼女を突き飛ばしてしまいました。彼女は、ごめんなさい、と言って寝室に帰りました。
いつの間にか中学に上がっていたらしく、それを期に通学も再開しました。しかし、私の周囲は大きく変わっていました。元々声を掛けられることはなかったのですが、やけに私の机に人が寄り付かないのです。プリントを渡す際に目を逸らす女子、教室を駆け回っていたというのに、私と目が合うと途端に黙りこくって教室から出て行く男子。人間との会話に慣れてはいませんでしたが、それでも天才孤高の少女への羨望は、天涯孤独の少女への憐憫と化していたのです。そのような侮辱に耐えかねて、私は何も言わぬまま早退しました。何か引き止める者も、その後連絡を寄越す者もありませんでした。私は不登校となり、四六時中を中原と過ごしていました。
丁度その頃です。中原が私のことをやけに気に掛けるようになったのです。それは例えば先日のような「母」の真似事であったり、私の過去の話を聞こうとしたり、どうにも気味が悪かったのです。同居する以上、相手のことを知りたいという感情を理解はできますが、それとは違う何かがあるような気がしてたまらなかったのです。「遺産が欲しいなら半分あげます。どうせ私一人では使い切れませんから」と言いましたが、彼女はとても悲しい顔をして「瑠璃さん」と初めて私の名前を呼ぶのでした。それまでは、あなただとか苫屋さんだとか、誰の名前を呼んでもいなかったのですが。
思い出したのは、かつての家政婦が私に母と呼ばれたがっていたことです。そして、過去を思い出すに連れて感情的な言葉が胸に湧き上がり、「母亡き今ならば、それに成り代われるとでも思ったんですか。あなたは家政婦であって、私の母にはなれないんですよ。母になりたければ子供を産めば良いでしょう」と、半ば怒声で言いました。彼女はその場に泣き崩れました。
あまりに泣き止まないものですから、どうにも不安になりまして、どうしたのか、と尋ねたのです。その果てに、先の言葉がどれだけ酷い言葉だったか、知ることになります。
彼女はこう言いました。
「私は子供を産めません。子宮頸癌の治療として、子宮を摘出したのです。当時交際していた男性がいましたが、子供が産めないという事実が、まるで彼を裏切っているかのようで、彼と子供の三人で暮らすなんて未来はどこにもないのだと思うと、居ても立っても居られず、逃げるように別れを告げました。その直後です。十代の子供の世話という、家政婦の求人を見つけたのは。私に必要なのはこれだと思いました。子供を得たことはありませんが、しかしある意味子供を失った私にとって、子供の世話をできるということはきっと大きな幸せだと信じていました。しかし、それは私の思い込みに過ぎませんでした。瑠璃さんには母親がいるのですから、私を母と見るはずなんてなかったのです。そう、その通りなのです。私は瑠璃さんの言う通り、瑠璃さんの母になりたくて仕方がなかったのです。若くしてお母様を失った瑠璃さんに対してならば、それが叶うのではないかと醜い欲望を湛えるばかりで。病気がなくとも、こんな者が母である道理などないというのに、本当にごめんなさい」
始終を聞いて、私は自分が何を言ったのか理解してしまいました。彼女は本質的に私と同じだったのです。私が親を求めるように、彼女は親であることを求めていたのです。きっと彼女は私に手を差し伸べたのです。共依存とも言えるでしょう。親のいない私に母親を、子供のいない自分に子供を与え、ニコイチの家族を作ろうと言っていたのです。そう気づいてしまった私は、彼女の手を取りました。
「私の親は泣きません。やっぱりあなたは私の親にはなれません。でも、あなたには未来があります。十分な給金は出していますし、必要ならば追加で支援もします。だから、もう一度あなたの人生をやり直してください。あなたは誰も裏切っていませんし、今度こそ誰かと家庭を築くこともできます。子供が欲しければ里親制度だってありますから、親のない子供の、本当の親になるのは如何でしょう」
と言った後で、続けて。
「ただ、私もまた親が欲しいのは事実です。三年間。三年間なら、私の母であることを認めようと思います。義務教育を終えれば私も立派な大人ですから、そこからはそれぞれの道を生きましょう。それで如何ですか」
こんな言葉だったと思います。今思い返すと、甘えるのはずっと昔から下手だったのですね。甘えたことがなかったのですから、当然ですか。
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