④
***
製本作業は順調と呼ぶには程遠かった。パソコンなど技術の授業で少し扱った程度、文字を打ち込むだけの作業に膨大な時間を要した。文化祭に間に合わせるには時間が足りず、瑠璃の手を借りるのも自分が許さない、そんな窮地。
放課後のほぼ全ての時間を使うようになり、休日も瑠璃の家に通っていた。そんなある日のこと。瑠璃から、泊まり込みでの作業を提案された。
「早く終わらせてくれないと、ルリからの条件も満たしてくれないじゃないですか」
瑠璃はぷくりと頬を張って、椅子の上に体操座りしている。そんな様子に目を遣ることもなく、宗谷は咄嗟に思い付いたことを言った。
「その日、できるだけ可愛い格好できませんか」
「どういう格好ですか」
「恋人と会うような」
宗谷の狙いは、瑞姫を実家に帰すことだった。瑞姫は本当の家族ではない。いつかは離れて、それぞれの家に生きるのだ。だというのに彼に依存したままでは、きっと彼女は帰りたくないと願ってしまうだろう。
そこに瑠璃という存在は都合が良かった。相手に恋仲の人間がいるというのに、自分には帰るべき家もあるというのに、それでも同居をしたいと願うほど、瑞姫は聞き分けのない人間ではない。だから恋人の振りをしようと思った。真に生きるべき家に帰すのが、宗谷の、家族としての最後の仕事だから。
どれもこれも瑞姫のためだと、胸中で訴えながら。
***
二人いっせいに駆け出した。初夏のぎらぎらとした太陽の中、二人の靴がアスファルトを蹴る。
「ごめん、ちょっと無理……」
久々の日差しは、瑞姫の体力を贅沢に奪う。元々引きこもりがちな彼女だから、走るのは得意ではない。背中を丸めて息をする姿に、宗谷が優しく笑う。
「歩くか。一応まだ昼だし、これからだろ」
ペットボトルの水を三口も飲むと、輪郭に汗が垂れる。瑞姫はブラウスの腕を捲って半袖にする。
「あっつ……」
休憩を終えて歩き出すと、ぎらぎらとした五月末の太陽。公園を過ぎると木陰も減り、いよいよ夏だった。点滅しかけている信号を小走りに、学校は目前。他校や中学校の制服が幾つか見えた。
「あー、もう、アンタが寝坊するから!」
「ごめんってば……」
「Noahが終わってたらアンタのせいだかんね!」
駆け足のセーラー服が二人を抜いた。体育館ライブを目当てに来る人は本当に多い。学校に着いてからも、教室の展示には見向きもせず、そのまま体育館に向かう人ばかり目についた。
文芸部の展示教室に入ると、破裂音と共に紙くずが舞う。瑠璃が鳴らしたクラッカーだった。
「おかえりです、姫ちゃん」
「おかえりなさい、文月さん」
「文月先輩……」
三人がそれぞれ出迎える。教室の一角には積み上がった本。宗谷が作った、瑞姫の本。瑞姫は頭に乗った紙くずを払うと、室内を見渡す。黒板には装飾、と言うよりも落書きと呼ぶべきイラスト。著作権問題になりそうなマスコットに、文学少女を想起させる女学生のイラスト。その周りには季節の花々が細密に描き込まれている。
壁に貼られた俳句を見て、瑞姫が「ああ」と声を上げた。本来ならば、自分の句もここにあるのに、と。そういう意味では、本は自分への配慮でもあったのだと気付く。小説に専心する瑞姫だからこそ、俳句ではなく小説を展示しているのだ、と。
そんなところで、一冊二百円との表示を見て、瑞姫が戸惑っていた。瑞姫の本の値段だ。
「待ってください、なんでお金取ってるんですか?」
「当たり前だろ、本なんだから」
利益は全部姫に行くよ、と補足する宗谷と、既に販売の申請は済んでるです、と申請書を見せる瑠璃。瑞姫は諦めるように力を抜いて、その辺の椅子に座り込む。
「それで、売れてるんですか」
「それがあまり……」
「ですよね……」
いくら心を込めた本でも、新人賞に落ちたというのは事実であり、それが一般受けするのかと言われれば難しい。ましてやそこに金を出す層など、物好きか、余程の本好きだ。子連れが興味本位で買うことはあれど。
更に今年は分が悪かった。Noahという有名バンドが来るという噂があり、しかも、この文化祭のシステム上、いつそれが始まるか分からないのだ。結果として人は体育館に吸われてしまい、教室展示の、それも文芸部の一室に来る人間など滅多にいない。
「Noahが終わったらですかね」
それが終わったからと言って、文芸部に来る人間がどれだけいるのか。皆分かっていながらも、頷く。
誰か入って来たかと思えば、西村先生だった。肩を落とす一同に、頑張れ、と一言。悠希を連れて再び外に出て行った。悠希は定期的に先生と面談をしており、今回もそれなのだろうと思われた。
ほんのひと時もすると、体育館から歓声が上がる。
「Noah、ですかね」
桜が言う。棟を挟んだこちらまで、ギターの音が聞こえていた。
「Noah……?」
疲れが取れたのか、瑞姫がやっと立ち上がる。本の近くに来て、そちらの椅子に座り直した。
「姫ちゃん知らないんですか? 最近流行りのバンドですよ。由来は言うまでもなく、デビュー曲がそのまんま『Noahの方舟』です。メンバーが全員うちの卒業生らしいので、まあそれで来てるんでしょう」
「ルリちゃん、意外と詳しいのですね。流行りものには疎いものだとばかり」
「瑠璃を何だと思ってるんですか。ブレーキランプ五回点灯の時代から坂道のアイドル曲まで何でもござれですよ」
えっへん、と瑠璃が声に出しながら胸を張る。瑞姫は「ああ、あのCDの」と思い出すが、瑠璃は聞いてなどいない。
その時、来客があった。ドアは開放しているにも関わらず、わざわざノックをされる。さらりとした黒髪と、夏帽子。小柄ながら、ヒールのあるサンダルが頭身を上げる。廊下から吹き抜けた風に乗って、カサブランカが香った。
「文芸部はこちらで良いのよね。西村先生はいらっしゃる?」
帽子を脱ぐと、人形のような小顔。細めた目が悪戯っぽく、瑠璃のよう。年齢は二十台半ばかもう少し幼いか。童顔故に判然としない。
「いえ、今は。待っていたらそのうち来ると思いますが」
桜はそう言ったところで、教室の外に人が集まっていることに気付いた。Noahのライブはまだ終わっていない。この人目当てで大勢が着いてきているのだ。誰か有名人なのだろうかと、戸惑っていた。
ひそひそと、宗谷と瑞姫が話す。誰、知らない、見たことないな、でも綺麗な人。
「ううん、いないなら良いの。それよりそれ、買っても良いかしら」
彼女が指したのは瑞姫の持っていた本。机に積まれたものではなく、わざわざそれを指した。
「え、えっと、はい!」
「あなたが作者さんでしょう? 文月瑞姫、良い名前。サインはいただける?」
「あ、ありがとうございます!」
慌てた瑞姫はペンも持たぬままサインを書こうとし、瑠璃が投げたサインペンが頭に当たる。裏表紙にサインを書くと、そのまま本を押し付けるように渡す。彼女は可愛らしく笑って、お代と、一つの便箋を手渡した。
「これ、先生にお願い」
「は、はい! お任せください!」
外ががやがやと騒がしくなってきた。だと言うのに誰も入って来ることはなく、扉やら窓から彼女を覗いている。時々カメラのシャッター音も聞こえた。
「あの、あなたは」
宗谷が尋ねると、ちょんちょん、と便箋を指した。
『西村先生へ 月城琴乃』
宛先は先生。差出人は、宗谷もどこかで聞いたことのある名前だった。
「教え子なんです。騒がしくしてごめんね、それじゃあ」
彼女が出て行った後、黄色い声が上がる。そして、文芸部の一同が驚いたのは、それからだった。雪崩れ込むように群衆が入って来た。
「これ買います、私にもサインください!」
「私にもお願いします、あっ、このお菓子食べてください」
瑞姫は何が何やら分からないまま、サインをしては本を渡す。差し入れと言うより、食べきれないものを押しつけられるようにして物品が積み上がる。
「月城琴乃。天才ピアニストの人ですね、聞いたことあります。演奏は知りませんが。確かモデルもやってるとか。この人気は後者のせいでしょう」
「そうなんですか。ルリちゃんは詳しいですね」
「まあ、これでもテレビとか見るので」
本を受け取った人間はそのまま帰ってゆく。瑠璃が気づいたのは、彼女らのそれがミラーリングだということだった。月城琴乃の持っている本と同じものを持つことで、モデルの姿を自己に投影する。瑠璃にとっては滑稽なものだが、熱烈なファンだなあと、不要な輪飾りを作りつつ思う。
「人気ですね、先生さんは」
そこで月城ではなく先生の名を挙げることに、誰も違和感を覚えはしなかった。
人の集まりには人が集うもので、月城が来て以降、本の売れ行きは比にならなかった。Noahのライブが終わると人が蟻のように体育館を出る。流れる先のない人間は、ただ群れに合流する。その要領で本は売れに売れた。文化祭終了のチャイムが鳴る時には、六部を残すのみになっていた。
先生の元から帰って来た悠希も、その変わり様に目を疑っていた。
「すごく売れましたね」
「うん、売れた!」
意図せず本を売られた困惑よりも、自分の本が売れた喜びはどうしようもなく大きなもので、瑞姫は口元の緩まぬままに本を抱き締める。
「でも、六部は残っちゃいましたね」
「まあ、仕方ないよ」
口元が直っていないが、瑞姫の声には名残惜しさが見えた。そんな彼女に、宗谷がデコピンをする。
「ばーか。これは部員用だ」
「え? ああ、そっか、そうだよね」
桜、瑠璃、悠希、宗谷、瑞姫の五人。俳句甲子園に出られずとも、彼らは立派なチームとして完成していた。六冊目は先生に渡そうと言ったところで、瑠璃が提案する。
「まりちゃん先輩と、豊田の先輩はどうしますか」
小原先輩に豊田先輩。昨年お世話になり、何より、瑞姫の小説を待っている二人だ。
「約束しましたから、送りたいです」
「でも、どうするんですか? 足りないですよ」
宗谷は瑞姫の肩に手を置いて、こう言う。
「俺と姫は要らないです。もう持ってるので」
彼は大元の原稿のことを思って言ったのだが、瑠璃が大きな溜め息を吐く。
「何を言いますか。表紙もなければ本の形さえしてないじゃないですか。ルリが一冊試しに作ったものがあるので、それで解決です」
「先輩、いつの間に」
「私の家で私が何をしようと、私の勝手です」
ふん、と鼻を鳴らす瑠璃。その不器用な姿が宗谷には微笑ましかった。
「でも、あと一冊足りませんよね」
「二人は一冊で良いでしょう?」
なんて妙に気を利かせたことを言うものだから、一同で笑い合った。
文化祭は成功だったと呼べるだろう。しかし、それは宗谷と瑞姫にとっての成功に他ならない。誰もろくに読んでいない、見てもいない俳句たちが、一枚一枚と剥がされる。それを一番に気にしていたのは桜だった。しかし、悠希もまた、浮かばれない顔をしていた。彼女がそういう顔をしていることは、珍しくないとも言えるが。
シャボン玉みたいにぱっと死ねたなら
悠希が自分の句を剥がして、文化祭は終わった。どこかでピアノが鳴っていた。
瑞姫の父が帰って来た。人の住める状態でない家は後日業者に清掃を頼むとして、一旦は吉松の客間に寝泊まりすることになった。
ところで、瑞姫の暮らしていた部屋は、無事に生まれることのできなかった子供の部屋だったという。瑞姫も宗谷も幼い頃の話で、二人とも知らずに育った。吉松の家が彼女を迎えたのは、そういう理由もあったのだろう。
しかし悪いことに、そのような話が打ち明けられたのは、吉松の全員と、瑞姫とその父の囲う食卓だった。生まれるはずだった娘の代わりに瑞姫に愛を注いでいたと、そう切り出した両親に、宗谷は焦りを覚えていた。そのような話をしては瑞姫が出て行きにくいだろう、と。
だが、瑞姫ははっきりと、今までありがとうございました、お世話になりました、と言った。彼らの家族関係は、ここで終わった。
清掃業者が瑞姫の家を見て苦笑した。空き家でも渡されたんですか、なんて。憎々しいくらいに晴れた、盛夏の手前。
「よくあの家に居られたよな」
「あはは。人間咄嗟に何するかって、分かんないものだね」
ミネラルウォーターをごくりと飲んで、瑞姫の汗が光る。ある程度の清掃は午前で終わるとのことで、午後までは二人で過ごすことにしていた。特に行く宛てのないまま歩く中で、宗谷がふと閃く。
「そうだ、姫。あそこ行こう」
「……?」
瑞姫の瞬きに合わせて、宗谷が手を引く。彼女はただ黙って着いて行く。通学路をなぞるように進むと、木陰が風に揺らめく。丁度木陰の終わりで右に曲がり、そこに入った。
「公園……」
離した手には、風が冷たく感じられた。
「昔はここに登り棒があって」
「ここにジャングルジムがあったよね」
幼少期、二人がよく遊んだ公園。風化を続けた遊具は撤去され続け、やがて最後のブランコさえなくなろうとしている。きっと全てがなくなった後、ここには誰もいないだろう。
ブランコが軋む。鎖状の持ち手は、鉄の匂いが強い。
「実は、さ。いつかこうなるってことはずっと考えてて、その時はきっぱり離れようって決めてたんだ」
「そうだったのか」
「うん。まあでも、タイミングは悪かったかなあ。本当は、宗くんに小説を贈るつもりだったんだけど、なんでかな、できなかったや。実家で過ごしてたら、ちょっとは変わるかなって思ったんだけど」
宗谷は顔にこそ出さないが、彼女を甘く見ていたことを悔いた。詰まるところ、宗谷の画策は瑞姫を苦しめるばかりで、そんなことをする必要など何もなかったのだ。瑞姫が続ける言葉を、彼は聞きたくなかった。
「小説が書けるまでは欲張って残って居たかったけど、でも、でもさ。宗くんはあの人のこと……ルリ先輩のこと、好きなんでしょ?」
曖昧にしていた感情と向き合うことほど人間を苦しめるものはない。瑠璃への感情ではなく、瑞姫への感情の話だ。瑠璃など相互利益のために利用した、ただの先輩に過ぎない。
「ごめん」
そう言うのが精一杯だった。この期に及んでも、真実など言えなかった。本当は瑞姫にしか目がないなど言ってしまえば、彼女は今度こそ戻れなくなるかもしれないなどと、あまりに自分勝手な考えを巡らせていた。それは瑞姫が自分に依存しているという信頼であり、瑞姫への不信であった。
「そっか、違うんだね」
「は?」
瑞姫の言葉に、間の抜けた声が上がる。彼女は地面を蹴ってブランコを揺らすと、低すぎる地面を嫌うように、膝を鋭角に曲げる。
「安心した。私が宗くんの立場だったら、きっと同じように、ううん。もしかしたら、もっと露骨に宗くんを避けてたと思うから。宗くんはそういうところ、上手だなあって思うよ。私のこと、帰したかったんでしょう?」
姫、と呟いたつもりで、声にならなかった。
「あーあ。私も意地張らなくて良かったのに。本当は二人の間には何もなくて、ただの私の妄想なんだって分かりつつも、もし本当にそうだったらどうしようって、勝手に怖かったんだ。私も、まだまだ宗くんのこと信じられてないんだろうね。あーあ、難しい」
瑞姫は笑いながら、ブランコを漕ぎ始めた。凛々しい表情だというのに、幼い。ブランコの軋む音は、まるで古い扉のよう。
「俺も姫を信じてなかった。姫は絶対に帰らないって信じてしまっていたんだ。俺は、どうしようもないバカだ」
瑞姫がブランコを飛び降りて、宗谷の前に立った。
「そうだね、バカだよ。信じてないのに信じてたって、ばっかみたい。バカだよ、バカ」
「何回言うんだよ、姫だってバカじゃないか」
「ふうん? どこがバカ? 言ってみてよ」
宗谷は瑞姫の小説を「書く」中でそれに気付いた。立ち上がるとブランコが重く軋む。
「姫が小説を書けないのは、俺と手を繋いでないからだ。いつだって、詰まった時は俺の手を取らないと書けなかっただろ。それをしないで、一人で無茶をしようとしたから空回りしたんだ。違うか?」
「あっ……」
瑞姫が思い出したのは、去年のこと。二人で俳句を詠んでいた頃の、あるいは宗谷の隣で小説を書いていた頃の記憶だった。「てふてふや」の文中にも、宗谷と手を繋ぐ描写を何回も書いた。
「一人になろうとしたのが、姫のバカなところだ。でも、俺はもっとバカだ。一人にして悪かった。一人で書くのがどれだけ辛かったか、俺には計り知れない。だから約束する。もう二度と姫を一人にしない。俺達は家族だ、ずっと一緒に生きていこう」
瑞姫は目を擦りながら笑い始め、徐々にその目を潤ませていた。
「何それ、ばっかみたい。あーあ、あーあ、なんでそういうこと言っちゃうかなあ。本当に、本当に……宗くんは本当に、バカだよ。でも、私もバカだ。ごめんなさい、一人になろうとして、ごめんなさい」
「良いんだ、もう。何も考えなくて良い」
差し出した左手に、瑞姫の右手が重なる。ほんの一月振りだというのに、宗谷はどうしようもなく懐かしさを覚えていた。
「ねえ、この感情。何って言うか知ってる?」
「愛、だろ?」
「うん。それも」
「「家族愛」」
二人向き合って笑った。子供みたいに大きな声で笑って公園を抜け出した。木陰の隙間から、夏の日差しがきらめいている。
そろそろ清掃が終わる頃だろう。終われば瑞姫の引っ越しが始まる。だが、執筆用の環境だけは、「瑞姫の部屋」に残そうと言った。一つの机に、二つの椅子。机の小さな照明は、これからも何度でも二人の夜を照らすのだろう。
若葉が色を増す街に、二人分のただいまが響いた。
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