②
***
俳句甲子園を辞退した時、宗谷は瑞姫がこうなると予期していた。決定的な要因が悠希の参加拒否だったとはいえ、瑞姫がそれまでに俳句を詠めなかったことも事実だった。瑞姫と創作の関係を少し考えれば、彼女が自己嫌悪に走ることなど容易に想像ができていた。
だからと言って、どう声を掛けるべきかは分かっていなかった。自傷のようにペンを震わせる瑞姫を、どうにか落ち着かせようということしか考えられなかった。その結果があれなのだから、仕方がなかった。
「同時に、気づいてしまったんです。姫はやっと自分の土台を完成させて、次に進もうとしているんだって」
「ふうん。帰属の次は探求ですか。まるで子供ですね」
それは瑞姫自身の変化であるが、宗谷もまた、次に進むべきなのだと思い始めていた。それは瑞姫という家族を認め、それとどう向き合っていくかを決めるというものだった。
「俺も、ルリ先輩だって子供です。一人じゃ何もできない、まだ弱い存在です。勿論姫だってそうなんです。だから、俺に力を貸してください」
「前置きが随分と長かったですね。それがどういう意味か、分かっていますよね。ルリを借りると言うのなら、私も宗谷くんを借りますよ」
お互い不敵に笑う。昼休みの空き教室で、楽しげな声を遠くに聞きながら。
「構いません、交換条件です。まず俺からの頼みは、嘘に付き合ってもらうことです。俺は先輩の頼みを聞いて何かを手伝っている、という体を取らせてもらいます」
「嘘に付き合う、ですか。つまり姫ちゃんに隠れて行動したいという意味ですか。二人ともまどろっこしいのが好きですね」
瑠璃は椅子を離れて、黒板にチョークを滑らせる。大きく一文字、「愛」と書いた。
「私からの条件は、私にこれを教えることです」
「愛、ですか」
無茶を言うものだと、宗谷は苦笑する。瑠璃はその様子すらも楽しむように、こう続けた。
「そう、愛。私に何をしても構いません。だから、私に愛を教えてください。それが約束です。守れますか」
宗谷はしばらく考えた後、小さく頷いた。
「俺なりに頑張ります」
「良い返事です。ではまた放課後に、部室で」
***
瑠璃は頬を押さえながら、怒ったような、怯えたような目で宗谷を見ていた。ふと我に返り、きっ、と宗谷を睨むも、その真剣な眼差しに圧倒されて目を逸らす。
「冗談でも、聞きたくないです」
「怒らないでほしいですね。私は事実を言ったまでです」
毅然とした言葉を選ぶが、その声は震えていた。
「事実かどうかは聞いていません。そんなに自分を、そして姫を軽く扱わないでほしいんです」
「……私は私を軽く扱ってなんていません」
宗谷は、初めて瑠璃のことを知った。それは瑠璃が誰よりも子供だということだった。いつだって自分の正しいと思う道を突き進む、そんな姿に憧れていたこともあって、気づかずにいた。
「俺は先輩に愛を教えると言いました。確かにそういう約束です。でも、セックスは愛の先にあるものであって、それ自体が愛とは思いません。先輩が言ってるのは、愛の先にあるべきものを、欲のために利用することと同じです。そんなに軽いものですか、愛も、セックスも」
瑠璃は宗谷に背を向けて、必死に涙を堪えていた。今にも壊れてしまいそうな感情を必死に抱えて、ベビードールの裾をきゅっと握り締めていた。
「じゃあ、じゃあ……私はどうしたら良いんですか。私には誰がどうやって愛を与えてくれるのですか」
「先輩、こっちを向いてください」
「嫌です」
「向いてください」
宗谷がその肩に触れると、瑠璃は慌てて払い除ける。無理に力を入れてしまったせいで、堪えていた涙がぽろぽろとこぼれ始めた。
「見ないでください……違うです、違う」
一度壊れてしまった涙腺は簡単には戻らず、瑠璃はとめどなく涙を流していた。掛け布団の端を掴んではハンカチの代わりにし、涙を拭おうとする。
「先輩、泣いてるんですね」
「違うです、泣いてなんか、ルリは泣いたりなんて」
必死に誤魔化そうとする彼女を、宗谷はその背中から抱き締めた。その体は、普段の瑠璃の態度からは想像もできないほど繊細で、この体でどうやってあんなにも大胆な行動をしているのだろうかと、そんなことを思いながら。
「何を、するですか。同情のつもりなら要らない、です」
「俺は約束を守ります。これが俺から教える愛です」
「これが、愛?」
きっと瑠璃は愛を知らない子供なのだと、彼はようやく気付いた。宗谷自身も愛を熟知しているということはないが、それでも、自分の中にある感情こそが愛だと信じていた。
「そうです。これは俺からの愛です。俺は先輩を尊敬しています。一人の人間として尊重しています。先輩を愛しているから、先輩を大切に想っているから、だからセックスはしません。これが俺から教えられる愛の形です」
「セックスしないのが、愛?」
瑠璃は宗谷の腕に触れると、愛おしく撫で下ろした。宗谷くん、と声を掛けると、腕を解かせて向かい合った。
「ルリには、やっぱり分からないです。でも、あなたは、こんなにも温かいのですね」
涙を膝に落として、よろよろと立ち上がると、机の引き出しから真っ白な封筒を取り出した。優しく、かき消えるような笑顔で宗谷に差し出す。
「いつか、その時が来たらこれを読んでください」
***
放課後、予定通り部室に行った宗谷だったが、そこには既に瑞姫がいた。お互いに声の掛け方が分からず、ただ場の流れに従って折り紙を弄っていた。
宗谷は瑠璃の行動を待っていたが、彼女はいっこうに動き出そうとしなかった。何かを折ろうにも、何を折らないにも、居心地が悪い
「まあそういう訳なんですよ。折り紙は工学の原点にして頂点なんです」
瑞姫と瑠璃の会話を聞きながら、何かを折っている振りばかりをしていた。本当は会話に混ざってしまいたかったが、宗谷にはできなかった。何もなかったかのように振る舞うことが、瑞姫にとっての負担でもあるからだ。
「文月先輩は、願いたいことってありますか」
「あるかもね」
瑞姫と悠希の、自傷のような会話。宗谷も瑠璃も、カミソリを研ぐように折り紙を折る。そんなもので叶うものかと思いつつ、折らずにはいられない。自傷も祈りも似たようなものだ。
やがて桜が来た頃、宗谷は瑠璃に引かれて出て行った。去り際に見た瑞姫の顔が罪悪感で潰れそうになっていたことも、宗谷は全てを見過ごして。
「急ぎましょう。尾行されても困りますから」
「尾行って、姫はそんなことしないですよ」
「そう」
早足に校舎を抜け、駐車場の裏の繁みを通り、フェンスに開いた穴をくぐる。部活動にも帰宅にも、生徒の寄り付かない場所であった。
「先輩、どうしてこんな道を」
「噂の力は恐ろしいのです。他の生徒に見られる道は極力避けましょう」
尾行がないことを確認して、瑠璃はタクシーに向かって手を振った。そのタクシーは事前に呼んであったもので、宗谷はその計画性と行動力に驚かされる。
「ここまでお願いするです」
瑠璃は携帯電話の画面を運転手に見せ、シートベルトを締める。運転手は無表情にアクセルを踏んだ。タクシーが動き出してから、宗谷もシートベルトを締めた。
「それで、姫ちゃんと何があったんですか」
「あれ、話してませんでしたっけ」
「聞いてないですね。あなたたちの昔話を長々と聞いたばかりです。まあ、大方の想像はつきますが」
タクシーは住宅街に入ると、時々右左折をしながら奥へと進んでゆく。太陽はまだまだ高く、下校中の小学生が眩しく映る。
「喧嘩と言うには違うんですけど、創作への意識の違いがあったんだと思います」
「ふうん」
瑠璃はぼんやりと通り過ぎる家々の表札を見ていた。その中で見る苫屋の姓は瑠璃とは無縁の家だが、同姓の家は気になるものだ。
「姫は俳句を詠めなかったことを酷く気にしていたんです。姫は創作によって家族と繋がっていたのですから、それは当然のことでした。でも、その状態の姫が、人生の土台が崩れかけた姫が、一体どんな心境だったかなんて、家族の元で育ち続けた俺には分かりませんでした」
瑠璃が特に反応を示さないと分かると、宗谷はそのまま続ける。
「そう、俺には分からなかったんです。それは姫が『創作者』で、俺はそうじゃないからだと、姫はそう言いました。思えば俺は姫と同じ部活に入ろうとしただけで、創作を人生の土台にしていなければ、趣味の片端にも置いていません。そんな態度で向き合われたら、特にそんな状態では、生理的に受け付けないというものでしょう。あれは喧嘩なんて、そんな綺麗なものじゃない」
タクシーが止まった。振り返ればくすんだ色の校舎が見えるだろう。瑠璃は五千円札を投げるように置いて、一人そそくさと降りた。宗谷はお釣りを受け取ると、運転手に礼をして降りた。
目の前に広がっていたのは豪邸だった。豪邸とは言えども創作に出てくる噴水のある家ではなく、近隣の民家二、三建分の敷地に、庭木が並ぶ家だった。あまりの広さ故に手入れは行き届いていないようで、庭木の根元では、雑草が腰の高さまで伸びていた。宗谷が見回し、感嘆していると、瑠璃がローファーを鳴らした。早く来るです、とでも言うように。
「先輩の家ですか、すごいですね」
「ルリに言われても、ルリの功績ではないです」
タクシーの釣り銭を渡し、家に入る。ただいまと言う瑠璃に、お邪魔しますと言う宗谷。玄関にはローファーの他にパンプスやブーツ、スニーカーがあったが、どれもみな瑠璃のもののようで、他には誰の靴もなかった。玄関角の松葉箒には、黒ずんだ枯れ葉が引っかかっているばかりで、長らく使われた形跡がない。
「何をするのかは知りませんが、リビングか、二階上がってすぐの部屋は勝手に使ってもらって結構です。それで、何をするつもりなんですか」
大きな欠伸をしながら瑠璃は、期待と退屈の混ざった目を向ける。それは、期待はしていないができるだけ面白いものを吐け、とでも言うかのような目であった。
「これです」
その目が少しばかり揺らいだのは、宗谷が鞄から出したそれが、瑠璃には意味の大きすぎるものだったからだ。
***
瑠璃の手紙を預かった日を境に、瑞姫が家に帰って来ることはなかった。いや、瑞姫は家に帰ったと言うのが正しいのだが。それでも宗谷は、それを追うことはしなかった。自身の未熟さと瑞姫のことを考えれば、引き留める権利も何もないのだ。宗谷は創作者ではないのだから。
部室の空気はどことなく淀んでいた。夏が少しずつ膨らんで、ただ窓を開けただけでは汗ばんでしまう、そんな季節になったのだ。
「かと言って、エアコンや扇風機の季節でもないんですよねえ」
瑠璃がうなだれている。その黒髪が机をなぞるように滑り、端から一房が落ちる。
「吉松さん、二十四節気では今日を小満と言います。万物が成長して、一定の大きさになる時期だそうです。進捗はいかがですか」
「もうじき終わります。あとは最後の作業です」
それを聞くと、桜は安心した笑みを浮かべ、本に目を落とす。読んでいるのは青羽悠の『星に願いを、そして手を。』だった。残る一人の悠希は歳時記を読みながら、時々桜の協力を得て俳句を詠んでいる。
それぞれが別の方向を向いているのは、文芸部として珍しいことではなかった。しかしどうも落ち着かないのは、そこに瑞姫がいないからだろう。
瑞姫は他人と話すのが上手だった。瑠璃に話を振りつつ、受け流したり誰かに引き継いだり。悠希が一人黙々と作業をしていても、平気で話し掛ける。
桜も自発的な声掛けこそするが、会話が続くことは少ない。瑞姫は文芸部において、橋渡し役そのものだったのだ。
それを全員がどこかで分かっていながら、誰も瑞姫の話をしようとはしない。それはさながら、忌引きから戻った人間に故人の話題を出さないようなものだった。当人、宗谷が自分から話題にしない限り、それに触れるのは禁忌というものだろう。
「文化祭、人来るんですかね。今年は大物が来るらしいですから、皆ライブに行くんじゃないですか」
瑠璃は何もしたいことが見つからず、文化祭の話を引っ張る。
「ライブ……?」
「うちの文化祭では、体育館でライブがあるんですよ。学内だろうと学外だろうと誰でもステージに立って何かしらをするんです。歌にダンスに演奏に、手品や落語でも何でも良い、そんな雑多な催しがあるんです。今年は何だったか、有名な人が来るらしいです」
「Noahっていうバンドグループですよ。最近流行っているらしいのですが、少々困りましたね」
桜の説明を瑠璃が補足し、悠希は無表情に相槌を打っている。話に興味はあっても、表情に出すのが得意ではない。
「Noah……ですか。へえ」
悠希は返事をして、瑠璃たちの目を見続けていた。しん、と静まった空気から、悠希は自分が会話を止めてしまったと気付いて、慌てて付け加える。
「何が、困るんですか?」
「簡単なことです。仮に九割の人間が立ち止まる店を開いたとしても、通行人が十人ならば来客は九人ぽっちになるです。実際はそんなに極端でないとはいえ、通行人が吸われるのは事実です。厄介じゃないですか、宗谷くん」
「…………」
「宗谷くん」
「…………」
宗谷は一人、深く悩んでいた。瑠璃の呼びかけにも答えないほどに。そんな彼を、瑠璃はどこか寂しげに見ていた。
彼が再び口を開いたのは、瑠璃以外の皆が帰った後だった。まだ日は沈みきっていないが、赤々とした夕日は照明にするには弱い。
「どうしてるんですか、姫ちゃんは」
「分かりません。俺の両親には簡単に事情を伝えてあります。その上で、姫の選択に任せることにしています」
「姫ちゃん餓死しますよ」
「それは大丈夫だと思います。うちの母親が何かしら届けてるらしいので」
その様子を聞くことはしていない。だが、健康的ではないだろうと考えていた。しばらく人のいなかった家だ。何か病気になってもおかしくないだろう、と。
「本当にこのままで良いんですか。あまりに本末転倒ではありませんか」
「良い……とは言えないでしょうね。姫を一人にするなんて、本当なら絶対にするべきではないと思います。それでも、俺の考えは変わりません。俺には、姫の手を取る資格もないんです。今は、まだ」
「…………」
宗谷が唇を噛み締めると、瑠璃もまた悔しそうな表情をする。手はわなわなと震え、今にも宗谷を引っ叩こうとしていた。
「宗谷くん。仮にその資格を手にしたところで、その頃に姫ちゃんがそこにいない可能性くらい、考えるべきではありませんか。いくら隣に立とうと努力しても、隣の席がなくなったら意味がないんですよ。あなたは、あなたは……」
「俺は姫を信じてます。姫もまだ俺を信じてるって。きっと姫はあの家で待っています。天の岩戸を開けるには、準備が必要なんです」
「おめでたい人ですね、あなたは」
瑠璃は、もう帰ります、と言って帰って行った。床に落ちていた涙は、瑠璃の後悔そのものだった。
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