翌日。私たちは部室の前で立ち止まった。数センチ開かれた扉、既に誰かが来ている。遠くから笛の音。そして、長い廊下に吸い込まれるように消えてゆく。

「なんだか、おかしいね」

 部室に入るだけなのに、私は緊張していた。宗くんと繋いだままの右手は、若干汗ばんでいる。先輩たちと最後に会ったのはいつだったか、思い出せない。

「開けるぞ」

「うん」

 宗くんが扉を開いた。室内に溜まっていた風が私たちへ逃げる。

 そこには桜先輩の姿があった。気温が上がり始めた今日この頃だが、ブラウスの上にはベストを着たままで、三つ編みにした髪が風にそっと揺れる。

「こんにちは」

 先輩は本から視線を上げ、眼鏡を外し置いた。

 彼女のフルネームは遠山桜、三年生の先輩だ。小さい頃から俳句をしていて、俳句に関する知識は群を抜いている。今読んでいた本も恐らく俳句の何かだろう。

「早かったですね。文月さんのことですから、あと一時間くらいは待つつもりでしたが」

「ちょっと、失礼ですよ」

 そうは言うものの寝癖と闘っていたら思いの外手こずってしまって、時間ぎりぎりだ。元々寝起きが弱くて、待ち合わせを遅くしてくれたにも関わらずこれだから、否定できる身分ではない。

「ルリ先輩はまだですか?」

 宗くんが尋ねると、桜先輩はやれやれといった様子で首を振る。

「あの子はいま外で、陸上部に混ざって遊んでいますね」

「どうしてまたそんなことに……」

 久しぶりに会うとはいえ、先輩は何も変わっていなかった。お互いに「久しぶり」なんて言葉は使わない。

「時間さえ忘れてなければ、そろそろ帰って来るはずです」

 相槌を打ちながら、ふと戸棚を見た。掃除の後のように、ガラスが透き通っている。

「先輩、いつからここにいるんですか?」

「朝から……ですね」

 桜先輩は苦笑いしつつ答える。

「ルリちゃんに急かされまして。日の出を見に行ってからそのままです。丁度読みたい本もあったので、三文の徳、ですかね」

「日の出からって、なんでそんな」

「ルリちゃんですからねえ」

「確かに、ルリ先輩ですからね」

 くすっと笑うと、ドアをコンコンとノックされる。

「どうぞ……?」

「あんまりルリを笑い者にしないでほしいです」

 間延びした、溜め息混じりの声。噂をすればルリ先輩だった。

 ややショートだった髪は随分と伸び、邪魔と言わんばかりにポニーテールにまとめている。汗を拭いて着替えた後のようだが、ブラウスが肌にへばりついていた。髪は汗を絡めて艶めかしい。

「たまには運動するのも悪くないです。宗姫ペアも昨夜はよく眠れましたか」

「まだちょっと眠いですね。最近暖かいので、逆に眠りすぎちゃって」

 そうですか、と興味なさげにそっぽを向かれる。

 全員が集まったところでお茶の用意をして、それぞれ席に着いた。


 ここ数日の出来事を話し終える頃には、ルリ先輩の汗もすっかり引いていた。

「俳句甲子園、ですか」

 桜先輩が呟く。紅茶用の砂糖には、手がつけられていない。

「ルリは反対するです」

 強めの口調で、しかしカップから手は離さずに言う。

「どうしてですか」

「まず、期限です。五人がそれぞれ三句、それをあと四日以内、実質三日ですよ。正気ですか?」

「ダメでも失うものがないじゃないですか。挑戦する価値はあります」

「ルリの時間が無駄になるかもしれないのに、失うものがないとは随分な言い草ですね」

 ルリ先輩は一息にお茶を飲み干した。宗くんが私より先にと、口を開く。

「月末に文化祭があるじゃないですか。もしダメだったら、そこで活用するのはどうですか。展示するなり冊子にするなり、幾らでも使い道はあります。無駄にはさせません」

 ふうん、と溜め息を吐かれた。お茶を淹れ直しながら、角砂糖の瓶を弄っている。

「じゃあ聞きますけど、メンバーはどうするんですか」

「新入部員が入ったって言いましたよ」

「それは知ってます」

 先輩は一呼吸を置いた。

「その子を、まりちゃん先輩の代わりにして良いんですか? ルリはそうは思わないです。あの五人だったからこそじゃないですか。誰かを代わりにするなんて、ルリは嫌です」

「それは……」

 桜先輩に視線を送るも、逸らされる。ルリ先輩のそれは、私たちにはどこまでも正論だった。小原先輩の代わりなんてどこにもいない。それは重々承知していたはずだったが、いざ言葉にしてしまうと、お腹に重く沈んでしまう。

 宗くんが机の下で、私の手を握ってくれる。私はまだ折れなかった。

「確かにそうです。小原先輩の代わりなんていません。でも、小原先輩はそんなこと言いません。思い出を守るのも大切ですけど、新しいメンバーで、もっと素敵な思い出を作ってほしいって、そう言うはずです。ルリ先輩だって、本当は分かってるはずです」

「…………」

 先輩は俯きがちに、リボンの端を弄る。追い討ちのように、宗くんが続く。

「ルリ先輩、時間が無駄になるなんて嘘ですよね。先輩は、俳句が楽しいからこの部にいるんですよね。楽しいなら、またやりましょうよ。今度はもっと楽しめるかもしれないじゃないですか」

「んー……」

 ルリ先輩が間を置いて言う。

「まあ良いでしょう。私たちの句は用意できてるので、新しい子と、あなたたちの句を間に合わせることです」

「え?」

「へえ?」

 すっとんきょうな声を重ねて、瞬きを繰り返す。

 桜先輩が、実は、と控えめに切り出す。

「一応、私たちも再挑戦を考えてはいたのです。ただ、文月さんを小説に専念させた方が良いのではないかと、そう話していたんです。文月さんは元々小説を書きたくて入部したのですから、無理強いはしないでおこう、と」

「そういうことです。ルリ達は俳句甲子園に拘らずとも、別のかたちで俳句を遊べますから」

 指先でくるくると髪を弄りながら、ルリ先輩は息を吐いた。

 そういえばこういう人だったと、今さらながらに思い出す。どこか遠くまで出向いて句会に参加したり、勝手に一人で句を詠んで遊んだり、ルリ先輩は一人でも勝手に楽しいものを見つけてしまう人だった。

「だから、その、姫ちゃんが出たいと言うのなら、ルリ達は願ったり叶ったりです」

 きゅう、と胸が苦しくなる。嬉しいのだ。わがままの権化のようなルリ先輩が、たまには年上らしく振る舞っているのが、微笑ましくも頼もしかった。

「分かりました。私たちの句は間に合わせます。新入部員の子はどうしたら良いでしょうか」

「入部して早々に俳句を、しかも三句だなんて、厳しいような」

 ここは俳句部ではないのだ。文芸部なのだから、自主的に入部するとなると小説に興味がある人がほとんどだ。当初の私のように俳句を忌避してしまえば、数日で三句など揃うはずもない。

「明日から連休明けですし、まずは会ってみるところからじゃないでしょうか。活動の一環として俳句を詠ませてみて、推敲してみる。そんな流れが自然だと思います」

 宗くんの意見に、ルリ先輩が相槌を打つ。

「ルリもそれで良いと思うです。二人の句は作り次第見ましょう」

「了解しました」

 その後は桜先輩が仕切って、各自解散となった。


 グラウンドから長い笛が聞こえた。外はまだ真昼間で、このまま帰る気分にはなれなかった。先輩方は部室で暇を潰すらしいので、私は適当に歩き回ることにした。俳句の題材探しでもあるが、それ以前に、校内を散策するのは趣味でもある。

「ねえ、宗くん。この水槽知ってる?」

 理科棟二階、生物教室の前で指を差す。中では白い生き物がふやふやと口を動かしていた。

「ウーパールーパーか。もしかして、ルリ先輩の?」

「そそ。『ウーパールーパー五月の闇を食みにけり』どうやったらこの子からあんな句が詠めるんだろうね」

 作中ではここで詠んだことになっているが、実はルリ先輩はどこで詠んだか覚えていないと言った。どこで何をしていたのか分からないが、しかし手元に句だけがあったと言うので、可能性の高い描写を選んだのだ。

 あれがミステリー小説だったら、立派な叙述トリックにもなっただろう。文芸部室で起きた事件。同時刻、生物室前にいたと言うルリ先輩。その事件の全容は文月瑞姫が遺した小説によって語られる。

「なんてね」

 ふふん、と上機嫌に鼻を鳴らす。たまにはミステリーを書くのも良いかもしれない。一人で笑う私を、宗くんは慣れましたとばかりに泳がせる。軽快に踏み出すと、ローファーが強めに音を鳴らした。

 歩き去ろうとして、ふと、宗くんが立ち止まった。メモ帳とシャーペンを持つと、ウーパーの前に戻る。

「試しにこいつで詠むか」

「へえ、良い度胸してる」

 同じ題材で作品を作るのは、並走するのと同義だ。そこには嫌でも比較の目が入るし、中途半端は許されない。つまり、宗くんとルリ先輩の一騎討ちなのだ。

「ダメ」

 不意に声を出してしまった。なんとなく、むず痒かった。

「ダメか?」

「うん。それか私も詠む」

 水槽を上から下から覗いていると、ウーパーが笑うように口を開いた。

「八音も取るくせに……」

 見れば見るほど憎たらしい愛嬌を振りまかれて、仕返しに水槽をつつく。ウーパーに火傷でもされたら困るので、できるだけ爪で叩くようにした。

「ああ、それで上五なのか」

「何が?」

「ルリ先輩の句だよ。八音もあると中七にも下五にも使いづらい。でも、上五ならあんまり違和感がない。もしかして、上五の字余りは気にしなくて良いのか?」

 私のことはお構いなく、宗くんは俳句に熱心だった。言われてみれば、昨日の句(枕を抱く)も上六だった。字余りに気付かないほどには自然な音をしているから、その理屈は正しいのかもしれない。

「中八はどうなの?」

「それは考えたんだが、どうにも使いにくいんだ。例えばこんな句が」

 宗くんのメモ帳を覗き込む。


 夏立ちてウーパールーパー


「句になってないじゃん」

 二、三度読み返すが、下五はない。

「そうなんだよ。下五が付かないんだ。こいつを主語にしようとしたら『は』とか『が』とかの助詞が要るだろ? そうしたら中八どころか中九だ。どうしようもない」

「何言ってるんだか……そんなの、これで良いじゃん」


 夏立ちてウーパールーパーが笑った


 宗くんは五七五に縛られすぎなのだ。俳句は五七五の文学ではなく、十七音の文学だ。

「この句は微妙じゃないか? 流石に俺でも分かるぞ」

「そういう話じゃないよ。中幾つとか考えずに、上五と下十二だと思えば良いって話」

「冗談だよ」

 頭をぽんぽんと叩かれて黙り込む。そういうのは、ずるい、と思う。

「うー、じゃあ宗くんは下五どうするの?」

「それなんだけど、こういうのはどうだ?」


 夏立ちてウーパールーパーが字余り


「素直……だけど、良い。素直だから良いのかな」

 ルリ先輩の句ほどではないが、面白い句だ。メタ俳句とでも呼ぼうか、俳句の中に、俳句を詠む自分を描いているのだ。ウーパールーパーの可愛げに対して、憎たらしい字余り。絵になる顔をしているのに句にはなりづらい。字面からしてもウーパールーパーの存在感がありありと見えてくるだろう。

 だが、欠点がないわけでもない。

「上五が弱いかも」

「ウーパールーパーが強すぎるのか、取り合わせにすると」

 取り合わせとは、別名二物衝撃。二つの要素を使って一句にする方法だ。今は立夏とウーパールーパーだが、これでは立夏が霞んでしまっている。

「だったら強い季語が必要だよね。ええっと、他の兼題はしゃぼん玉と陽炎……」


 しゃぼん玉ウーパールーパーが字余り

 陽炎やウーパールーパーが字余り


「陽炎だな」

「そう? 私はしゃぼん玉でも面白いと思うよ?」

 俳句とは季語を詠む文学とも呼ばれるように、季語次第で句の読み方が大きく変わる。しゃぼん玉だと水泡が見えてくるし、陽炎だとウーパールーパーのゆらゆらとした動きが見えてくる。どちらが良いかと言われば賛否が分かれるだろう。だから、最後に決めるのは作者なのだ。

「いや、陽炎だ」

 宗くんが力強く答える。去年の、俳句のはの字さえ知らなかった彼とは似付かない、毅然とした態度だった。

「よし、できた!」

 大きく伸びをすると、窓の外は青々とした空だった。風が髪をさらう度に、あの頃の五人を思い出す。首を振って思い出を払うと、宗くんが左手を掬う。

「次は姫の番だぞ、良い句期待してるぜ」

「言ってくれるじゃん」

 にっと笑って、水槽を爪でつついた。ウーパールーパーの目が、ぬらりと輝いていた。




 連休明けの授業は、間延びに間延びを重ねたものだった。少し目を閉じれば、誰かの欠伸、寝息、溜め息。ならば私も、と頭を机に付けると、私ばかり先生に叱られる。仕方なく頬杖をついて、授業終わりのチャイムを待っていた。

 数学には興味がない。数学で使っている記号は数学語とも呼ぶべきもので、日本語とは、人間の言葉とは、大きく違う。言葉とはもう少し非論理的で、曖昧で、抽象的で、不自然で、煩雑で、それでいて美しいものだ。なんて考えている間に、いつしか昼休みの真ん中だった。

「ねえ、瑞姫聞いてる?」

「え、うん。聞いてるよ?」

 適当に相槌を返すと、クラスメイトの溜め息。

「それでね、文化祭でコピバン組むんだけど、敦子がNoah嫌いって言って聞かないんだよねー。敦子の流行嫌いマジ困るんだよね。瑞姫もそう思わない?」

「うーん……私はあんま分かんないかなあ」

「瑞姫は疎いからねー。オススメ紹介しようか? 新曲がマジで神なんよ」

 アップルコンポートを食みながら、彼女がさらりと出したCDに目を落とす。パッケージには絵の具タッチの船が描かれていた。ああ、ノアの方舟か、と気づいた時には、午後の授業が始まっていた。物理にも興味がないので、雲の動きと、チョークの粉と、教科書に挟んだ歌詞カードとを、気まぐれに眺め続けた。

その詞は必死だった。希望を失い、涙の海に溺れた「私」。舟は彼女を救わず、彼女は歌うことしかできない。それでも歌い続ければ救いがあると信じる、希望の詞。

 「私」にとっての歌は、きっと私にとっての本だ。賞が取れなくて本当に苦しかった。だから、私は本を書くしかないのだろう。書き続けなければ、この苦しみが晴れることはない。私は書きたい。文芸部を、私たちの思い出を。

 立ち向かうように、「私」ごと教科書を畳んだ。


 宗くんとは二年に上がる時に教室が離れてしまった。会いに行くにも遠回りになるので、部室には一人で歩く。理系の宗くんと文系の私とでは教室棟が違うから仕方はないが、いつだって理屈は感情に先行してしまう。教室棟から離れるに連れて、ローファーの音がより響いた。

「おはようございます」

「あら姫ちゃん、おはよーです」

「おはようって、また居眠りか?」

「六限数学だったの、良いじゃん別に」

 部室には、かつての明るさがあった。紙飛行機を折っているルリ先輩に、私のお茶を入れ始める宗くん。歳時記を捲る桜先輩。そして、その隣には小原先輩の代わりに、新しい部員が座っていた。

「こんにちは」

「竹柴です……どうも」

 確か下の名前は悠希。髪は艶のある黒だが、どこか作られたような純粋な色が不気味でもある、和人形のような子だった。眠そうな目に、全体的に力の抜けた猫背。それでも思わず美しいと思ってしまう顔立ち。当然ではあるが、小原先輩とは似ても付かない。

「はじめまして、文月です。文芸部にはどうして?」

「先生が入れって」

 彼女は言葉少なに喋る。私の方を見てはいるが、目が合ってはいないと思う。

 どうやら一通りの説明は終えているようで、彼女の手元には幾つかの俳句が書いてあった。ルリ先輩に目配せすると、任せて、と頷かれる。

「姫、行くか」

 うん、と返事をして宗くんと二人、新しい句を探しに行った。


 俳句甲子園への不参加が決まったのは、それから三日後の話だった。

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