④
***
ただひたすら、頭に鐘を飼っていた。奴は不規則に、あるいは規則的に鳴っては、私に作品をせがむ。あと何回鐘が鳴ったらお前は創作者じゃないんだぞと、首に手を掛ける。掛けられた手は爪を尖らせ、絞めるまでもなく私の命を削る。
今回の鐘は、不参加の理由は単純だった。私の句が最後まで完成しなかったのだ。新入部員の子が直前に参加を辞退したなんて話は、何の意味もない。
私は創作者だ、完成しないなど、あってはいけなかったのだ。小説が本業、それは分かっている。しかし新しい本を書くためには、俳句甲子園に出る必要があった。俳句を詠まないといけなかった。私には創作者としての義務があったはずだ。私には義務があったのだ。私には。
原稿用紙に文字を書いては消し、書いては消し続けた。文字が小説どころか、言葉にもなってくれなかった。
「姫、もうよせ!」
宗くんが私の左腕を抑える。力の入ったペンは原稿用紙に引っ掛かり、用紙が真ん中から裂けた。文字ですらないものが書かれただけの用紙だったが、涙をにじませると、もはや紙としての役割を失う。
「邪魔しないで!」
「ムキになりすぎだ。別に姫のせいじゃない」
その一言で、頭に血が上ってしまい、叫ぶように返す。
「宗くんには分かんないだよ! 宗くんはただ私に着いて来ただけで、元々創作者でもなければ、創作に何のプライドもないんだ。私は創作者なの、それがないと生きてる意味もないの! だから、邪魔しないでよ!」
宗くんの腕を振り払うと、右手で用紙のしわを伸ばす。ごめん、と呟いて彼は部屋から出て行った。私はまた、紙としての寿命を失ったそれに書き殴る。
また、鐘が鳴った。
***
部室に集まった四人は十センチ角の折り紙を、それぞれ好きに弄っている。俳句甲子園のことは一切口にしないまま、まるで最初からなかったかのように。
「姫ちゃん、聞いてますか?」
「え、はい。聞いてますよ」
ルリ先輩が唇を尖らせていた。ルリ先輩の場合それは、不満だが別にどうでも良い、という表情だ。
「まあそういう訳なんですよ。折り紙は工学の原点にして頂点なんです」
ルリ先輩はハサミで切り込みを入れるタイプの、テクニカルな折り紙をしている。あれは完成系が読めない上に、失敗すると取り返しがつかないから苦手だ。
「ルリ先輩は何を作っているんですか」
「ただの宇宙です」
なるほど、と返した。私には絶対に伝わらないだろうし、そういうのは宗くんの領域だ。むしろ私がすべきことと言えば、もう一人の相手だろうか。
竹柴悠希。先日入部した女の子だが、特にやり取りをしたことはない。私たちは句作に忙しかったし、何より彼女はとことん寡黙だったから。今もルリ先輩の隣の隣に、わざわざ席を離して座っている。
私はそっと隣に移動した。
「竹柴さん、こんにちは」
彼女は、私を一瞥したかと思うと視線を戻す。
「竹柴さん、こんにちは」
「……こんにちは」
呆れたような表情で、力のない顔で、それでも手を止めず鶴を折っている。掴みどころのない子だ。私も隣で鶴を折る。
「……鶴って」
彼女がおもむろに口を開いた。
「折り鶴って、千羽折ったら願いが叶うんですよね」
「そうだね。最初は病気の子が、病室みんなの回復を願って折ったんだってね」
彼女の手が、一瞬止まった。折り方を間違えたのだ。一度開いてから折り直す。
「文月先輩は、願いたいことってありますか」
「あるかもね」
その先は言うつもりもなければ、彼女から尋ねられることもなかった。だが、寡黙と思っていた彼女が、存外話のできる相手だったと知ったことは満足に値した。
ところで、この世界は願いのない人間の方が珍しいものだ。それを叶えるための案がなければ悩み、悩み抜いた先の視野にも答えが見つからないならば絶望する。往々にして、人間というのは単純なのだ。そう、単純なのだ。
また鐘が鳴る。単純なのだ。私がいくら悩もうと、答えは一つしかない。私に本を書く以外の手段などないのだから。
しばらく時間が経って、桜先輩が来た。聞くに学年集会があったとのことだが、ルリ先輩がここにいた理由などは聞くまでもなかった。サボりだろう。ルリ先輩はいつもHRに参加せず、興味のない行事に参加することもしない。
「折り紙ですか、良いですね。鶴に帆船に……ルリちゃんはまた変なもの作ってますね」
「変なものとは失礼ですね、人類が目指す宇宙様ですよ」
「宇宙ですか? うーん、分かりかねます。宇宙と言えばもう少し藍色のイメージなのですが」
「赤ですよ。宇宙は赤なんです。さくらんもまだまだです」
やれやれ、とルリ先輩は息を吐いた。彼女は裏面――裏と呼んで良いのか分からないが――にテープを貼ると、ホワイトボードの端にくっつける。
「それじゃあ宗谷くん、行きましょうか」
不意にルリ先輩が、宗くんの袖を引いた。宗くんはアイコンタクトの後に頷いて、部室から出ようとする。
「どこ行くの」
「実はルリ先輩に頼まれてて、ちょっと行ってくるよ」
宗くんが優しく微笑んでいた。咄嗟に引き留めてしまったが、昨日の自分を思い出すと罪悪感が重くのしかかる。何もなかったかのように、どうして彼はそんな顔ができるのだろうか。私に彼を引き留める権利もなければ、彼に合わせる顔なんてないはずだった。
「うん、行ってらっしゃい」
力のない手を振っていると、扉が閉められた。膝に下ろした手がスカートを悔しく掴む。
「文月さん」
カチャリ、とティーセットが添えられる。
「文月さん、お話ししませんか」
アップルティーの香りが鼻をくすぐると、落ち着きが戻ってくる。
そういえば、ここで初めて飲んだのもアップルティーだった。俳句が詠めなくて悩んでいた時も、みんなで推敲をしていた時も、ずっとこれを飲んでいた。緑茶や紅茶、レモンティーにローズティー、ついでに誰も飲まない梅昆布茶もある、そんな文芸部の中で。
「すみません、竹柴さん。少々二人にしていただけますか」
桜先輩の頼みに、彼女は二度頷いた。
「今日は帰ります」
素っ気なく言って、彼女は足早に出て行く。彼女の席には鶴が二羽、背中合わせに置かれていた。
桜先輩は私の向かいに座り、読もうとしていたのだろう文庫本を片脇に置いた。
「吉松さんと、何かありましたか」
「いえ、そういうのじゃないんです。そういうのなんですけど、ちょっと違って」
「と、いうのは?」
カップに口をつけると、甘い香りが全身に行き渡る。ぬるめにしてあるが、それでもしっかりと味と香りが出る、良い葉だ。
「……先輩は作品が作れないとき、どうしますか」
「難しいですね。故郷の様子を見に行くようにはしています。とは言っても月に一回は必ず行っているので、あまり特別な意味はありませんが」
あれか、と思い当たる。去年の俳句甲子園の際、先輩は満足のいく句が詠めず、ルリ先輩を連れて故郷を見に行っていた。小説にするに当たって細かく聞いたのだ、忘れるはずもない。
「もし、それでも何も作れなかったらどうしますか」
「どうでしょう……作れなかったということがないので。それは、良いものが作れないということですか?」
私は首を振る。
「本当に、何も作れないんです。頭の中が真っ白で、今までそこにあった世界がどこかに消えてしまって、何も見えないんです。ペンを持っても紙を広げても文字が出てこなくて、ただ向き合うことしかできなくて、段々とペンを持つことも辛くなって、自分が何を書きたいのかも分からなくなって、それで、それで……」
それで、宗くんに八つ当たりしてしまった。桜先輩は察して何も言わない。私にどう声を掛ければ良いか、迷った顔をして、でも平静を保つように紅茶を飲み込む。
嗚咽が込み上げそうになる。自分が悪いのに泣こうだなんて虫の良い話で、そんなことは許されないし、そんな自分を許すこともできないだろう。お腹に力を入れて、唇を弱々しく噛み続ける。
「文月さん、一旦休んではいかがでしょうか。スランプに陥った時は書けるようになるまで書くか、いっそ書かないことが大切だと聞きます。前者で上手くいっていないなら、どうでしょうか」
「そんなの、できません。私は書き続けないとダメなんです」
「どうしてですか?」
「……笑いませんか?」
「当然です」
ふと、鐘の話をしようと思った。私の頭に巣食う鐘の話を。桜先輩ならきっと真摯に聞いてくれると思って、アップルティーを飲み干してから話を始めた。
「私、きっと呪われているんです。あるいは自分で呪っているのかもしれませんが」
桜先輩はそれを聞いても顔色を変えなかった。私はそのまま、自分の生い立ちから話すことにした。
「小さい頃、毎日お母さんに本を読んでもらっていました。勿論一日では読み切れないので、何日もかけて一冊を。お父さんは赴任ばかりでほとんど家にいませんでしたから、家事に子守に、大変だったと思います。お母さんはついに倒れてしまいました」
最初はお医者さんもお父さんも、過労だと思っていた。しかし検査が進むうちに、とても重い病気だということが判明した。お母さんはそれから、ずっと入院生活だった。
「それ以来、宗くんの家で暮らすようになりました。当然お母さんの読み聞かせはなく、最後に読んでもらっていた本がどう続くのか気になって、眠れない夜が続きました。するといつの間にか、自分で続きを探すかのように、小説を書き始めていました。最初は本当に楽しかったんです。宗くんに、宗くんの両親に読んでもらって。楽しかったんです。でも、いつからか、それを義務のように感じ始めていました。書き続けることが義務で、一度書くのを止めたら、二度と書けなくなる気がしていたんです。きっとそれは、気のせいじゃない」
そう、気のせいじゃない。気のせいと片づけることはできない。それは紛れもなく事実なのだ。この鐘はそういうものだと確信していた。
「なるほど、それでしたか。ならば休まない方が良いでしょう」
先輩が妙に分かった口ぶりをするので、私は気になって問いかけた。何かあったんですか、なんて、まるで他人事のように。
桜先輩はカップを傾けて、それを飲み干す。音を立てないようそっとカップを置くと、眼鏡を拭いて、掛け直す。
「私の故郷の話は、覚えていらっしゃると思います。そこに、ある男の子がいました。私より四つも上の人でしたが、村で子供と言えば彼と私でしたから、ほとんど同い年のように接していました」
桜先輩の故郷というのは、北山にあった小さな村のこと。あった、というのは、その村が既に、地図から消えてしまったことを意味してのことだ。ダム建設に巻き込まれたのだ。過疎の進んだ村は抵抗力を失い、ついに。
桜先輩はそのこともあって、村のことを俳句にし続けている。
「私はいくら両親に勧められても俳句に興味の一つも湧かなかったのですが、彼があまりにも楽しそうにしているものですから、こっそりと始めることにしました。最初は彼と山中を歩いて、句を詠んだら彼と推敲をし合い。ある程度上達した頃には村の句会に参加するようになりました。そこで知ったのは、彼の圧倒的な才能でした。彼の句は村でも群を抜いて上手く、大半の句会で一席を取っていました。何十年も俳句をしている大お婆様よりも、あるいは俳句の本質を知っていたのかもしれません」
それが誇張でないのは、先輩の表情から明らかだった。一席というのは句会での得票数一位のことで、そうそう簡単なことではない。この文芸部で句会をしたことは数度あるが、誰かが一席を独占するなんてことはなかった。俳句に精通した桜先輩でも、爆発力のある瑠璃先輩でも、無理なのだ。
「そんな彼が一度、家族で都会に出掛けたと聞きました。それ以来突然、彼は俳句が詠めなくなりました。俳句を詠もうとするたびに頭を抱えては、『水の音が聞こえない、都会の雑踏が鳴り止まない』と言って。精神を病んだのではないかと、村は彼を忌避するようになりました。詠み続けないと駄目なのだと言う彼でしたが、村はそれを都会の奇病だと言って、彼には療養することを強いました」
「それで……『彼』はどうなったんですか」
先輩は首を横に振った。
「俳句の詠み方も分からなくなって、そのまま村からも去りました。元々都会に引っ越す予定はあったらしいですが」
ゾッとした。心から怯えていた。私と『彼』とに才能の違いこそあれども、状況はまるで同じだった。この頭で鳴っている鐘が、『彼』には雑踏だったのだ。
「文月さんも、そうなのですね」
先輩はそれ以上を聞こうとはせず、ただ、もの悲しそうな顔をして、鞄に本をしまい込んだ。
「彼が言っていた水の音を、私も聞きたかったです。きっと村のどんな水よりも澄んでいたのだと、信じています」
先輩はそう言って、窓の外を見ていた。私を置いてどこかへ行ってしまいそうなほど、やけに綺麗な夕焼だった。
その夜は宗くんと話すこともできなかった。ルリ先輩に何を頼まれていたのか、どこで何をしていたのか、本当は聞きたいことがたくさんあった。ふと話しかけそうになるのだが、その度に昨日のことを思い出して身がすくむ。
宗くんも宗くんで、私を気遣って話そうとしない。話しても家事のことや明日の起きる時間など、事務的なものばかりで、ついに、おやすみの言葉もなかった。
あまりにも惨めだった。原稿用紙に文字ではないような何かを書き繕っては消し、書き繕っては消し、用紙が破れたら次の用紙。頭に一切の世界が浮かばないまま、ただ「書く」ということだけを続けていた。書いているだけで、鐘が少し収まる。対処療法を続けて、ただ寿命を待つような夜。
いつまでが夜だったかも分からない。宗くんのノックで朝だと分かった。用紙は全てなくなってしまっていた。
「姫」
「何」
おはようさえ言ってくれない。その代わりとばかりに、宗くんはこんなことを告げた。
「さっき連絡があったんだ。姫の父さん、帰って来るんだってさ」
鐘が鳴った。くすくすと笑うように、楽しげに鳴っていた。
お母さんが退院するらしい。お父さんは今の仕事が片付いたらこちらに戻り、また家族で暮らしたいと言うが、それは。
私は居候の身であって、父が帰って来るのであればそちらに加わるのが当然だ。しかし、素直に帰ると言えないのもまた当然であった。せめて、宗くんとの距離をこのままにしてはおけなかった。
部室に足を運ぶも、宗くんはいなかった。やはりルリ先輩もいなかった。既に出て行った後だと聞いた。先輩からの頼まれ事など、宗くんにしてみたら、最も自然に私と距離を置ける言い訳なのだろう。悔しくて仕方がなかった。
「桜先輩、あの人たち何してるか知りませんか」
その言葉を聞いて、いや、私の顔を見て先輩は顔をしかめた。
「文月さん、きちんと寝ていますか」
「私の質問に答えてください」
机を爪で叩きながら催促をする。
「すみません、分かりません。ルリちゃんも教えてくれないんです」
「吉松先輩に直接聞いたら良いんじゃないですか?」
竹柴さんが率直に言う。自分でもその通りだと思う。だというのに、舌打ちが堪えきれない。歯を憎々しく噛み締めて、机を叩いた。
「それができるならやってるよ!!」
言ってしまった後で、彼女の怯えた顔を見てしまって、熱がお腹に落ちて行った。
「…………」
そのまま鞄を引っ掴んで駆け去る。残された二人が、私をどんな目で見ていたものか。
家に帰ってみても、宗くんはいなかった。宗くんの部屋に入って何かしていた形跡がないか調べるも、やけに綺麗に片づけられていて奇妙。ゴミ出しの日でもないというのに、ゴミ箱の中まで空っぽだった。まるで私が来ることを想定していたかのようで、私から何かを隠そうとしているのは明確だった。
ルリ先輩と何をしているのか、私を避けるためだけではないような、そんな気がしてならなかった。そもそもルリ先輩が頼み事を宗くんにする必要がないのだ。先生でも、桜先輩でも良い、どんな用事だとしても宗くんに頼む理屈がないのだ。
気味の悪さを必死に抱え込みながら、宗くんの部屋から忍び足で抜け出した。昨日原稿用紙を切らしていたことを思い出して、買いに出ようかと迷った。しかし、外から雨の音がし始めたものだから、しぶしぶ自分の部屋に戻ることにした。
ふわふわしているような気がした。心が、体が。原稿用紙を買い忘れることなんて、今まで滅多になかった。その上、今日は鐘も鳴っていない。左手の脈は健常なペースを保っているが、頭はやや重い。疲れているのだろうか。そう思ったところで、昨日一睡もしていなかったことを思い出す。本当に眠い時は、眠気さえ感じないのかもしれない。きっと、眠気を出す器官さえ眠ってしまっているのだろう。
ベッドに横になると、すぐに自重の大きさを感じた。全ては泥に沈むように、力ない人形。
***
目の前に、背丈の二倍ほどの柱時計があった。止まったままの柱時計。それ以外には何にもない、真っ白な世界。
「壊れてるの? それとも電池が切れたの?」
時計は何も答えない。代わりに、足元に一枚の紙と、万年筆が現れる。
「何か書けば良いの?」
万年筆を手にした途端、柱時計が動き出した。ぎこちなく、錆びついた鐘を動かし、鈍い音を鳴らす。
「あなたはどんなお話が好き? 私はね、みんなが幸せなお話が好き。お姫さまは王子さまと結ばれて、お城で幸せに暮らすの。お妃さまも王さまも、みんながお祝いしてくれて、パーティーを開くの。どうかな」
時計は針を動かし始める。長針がぐるりと回り次の鐘を鳴らす。
「まだ足りないの? じゃあ、もっと色んなお話を書いてあげるね。そうだなあ、じゃあ、次は大雨が降ったお話。ずーっとずーっと雨が降って、街はもう海みたい。女の子は必死に逃げようとするけど、みんなみんな流された最後に、女の子も流されてしまいます。でも、そこに現れた男の子が助けてくれます。女の子の右手を取って、ずっと離さないでいてくれるの。すると、雨が止んで、流されたものも全部戻って来ました。街はまた平和になって、女の子は男の子とずっと一緒に、幸せに過ごしましたとさ」
時計は秒針をふらふらと、手を振るように動かしている。
「もうお別れの時間だね。でも、また来るよ。あなたを放ってどっかに行ったりしないよ。色んなものを書いてね、色んなお話を作ってね、彼に見せるの。だから、そうだね。約束。私が何も書けなくなったら、その鐘で叱ってほしいの」
時計は戸惑って、針を逆に進める。
「私は弱いから、きっと本を書いて、彼を笑わせることしかできないの。だからね、それができなくなったら、私は彼の隣にはいられないかなって、そう思うんだ。その時は私のこと叱ってね。なんでって……それもできない私なんて、彼の隣にいちゃダメだよ。ちゃんと、あなたのところに帰らないと、ね」
時計は止まる。また、一分ずつ針を動かし始めた。
***
しばらく体調を崩していた。季節の変わり目ということもあるが、それ以上に気を病んでいたからだろう。
数日を空けて学校に行くと、辺りは文化祭の準備に勤しんでいた。放課後はクラス企画の準備をする人たちや、出し物の練習をしている人たちで溢れかえっていた。文芸部も同じように、文化祭に向けての準備を始めている。私がいない間に話し合いはある程度終わったらしく、部室に行くなり企画の概要を説明された。
一つは俳句コンテストの開催。来客に詠ませた俳句を審査し、八十点以上の人には飴などのプレゼント。また、その俳句を黒板やホワイトボードに展示する。もう一つは部員作品の展示。これは俳句甲子園に使う予定だったものを張り出すらしい。
そういえば俳句甲子園を志した時、そのような話をしていたと思い出す。しかし、私の句はあの時から未完成のままだ。
「文化祭までに考えておきます」
咄嗟にそう答えてしまったものの、どうにもならないことは分かっていた。窓の外を見ても、青葉がただ、ベタ塗りの絵画のようで、生きているようにも見えなかった。そこで俳句など詠めるはずもない。兼題は陽炎、しゃぼん玉、立夏。どれも今詠むには遅い季語であり、次第に季節感も忘れてしまうだろう。
句を詠みに出る気にもならなかった。アップルティーを淹れて席に着くと、対面では竹柴さんが歳時記を読み込んでいた。
「市のコンクールがありまして」
桜先輩が言う。部室には相変わらず、この三人しかいなかった。
「コンクール、ですか」
耳の奥で鐘が鳴る。私が立ち向かうべき場所に、創作の舞台に、彼女は立とうとしているのだ。胸のざわつきを抑えようとして、アップルティーで舌を火傷しそうになる。喉を通る熱は、鐘の音を止めてはくれない。
ふと、彼女がどんな句を詠んでいるのか、見てやろうと思った。生半可な作品では許さないと、図々しい思いで覗き込む。
陽炎に溶けて正しく生まれたい
呼吸が、時間が、止まったように、動き直せずにいた。作品が特別に優れていたからではない。ただ彼女の目が、虚空を見ているようでより深い、自分の世界と対話をする目だったからだ。それは私やルリ先輩が作品に向かうときのそれであり、創作者の目であった。
「不思議ですよね。切れ字を使わない口語調の句が好きだそうで。私はあまり肯定的ではないのですが」
「そう、ですね。珍しいと思います」
竹柴さんは私たちのことなど気にも留めず、歳時記を読みふけっている。私は立ち上がって、冷め始めてもいないアップルティーを飲み干した。三回も咳き込んでから、ノートとペンを持って走り出す。
鐘が、強く強く鳴り響いていた。
***
真っ白な世界。木製の柱時計は私と同じくらいの背丈。時計はじっと私を見ている。
「お腹が空いたの? 疲れちゃったの?」
時計は動かない。足元にはいつしか、一枚の紙と万年筆。
「また、物語を書いたら良い?」
時計は首を振るように、長針を左右に振った。私は万年筆と紙を置いて、その場に座り込んだ。
「……本当はね、分かってるんだ。俳句なんて小説より簡単だと思ってたんだ。たった十七音で、たかだか一分や二分で完成することだってある、簡単な文学だと見くびってたんだ。だから詠めなかった。だから俳句甲子園に出られなかった。全部全部、私のせいなんだ。彼はね、彼は創作になんて興味のかけらもなかったのに、俳句を三句、ちゃんと用意してたんだ。私がちゃんとしてたら、彼はきっと……」
錆びついた短針が、痛みのような音を出す。
「あなたには、ずっと昔に話したことがあったよね。私はね、彼のために創作をしていたはずだったの。でも、私は彼の気持ちを踏みにじった。彼は俳句甲子園に出たかったのに、私が台無しにした。もう、彼の傍にいる資格なんてどこにもない。私はもう、創作家である理由がなくなったんだ」
時計は針を逆に進めようとする。私はそれを止めて、ぐるりと一時間を進めた。
「『枕を抱く幼馴染のその笑顔』最後に詠んだのが、最後の創作が、こんなのなんだ。皮肉だよね」
時計は私を撫でるように、優しい鐘を鳴らす。
「ありがとう。約束、ずっと守ってくれてたよね。もう少しだけ待ってね。もうすぐ、全部終わるから」
時計は止まる。また、一分ずつ針を動かし始めた。
***
トーストの端が焦げていた。宗くんが部屋で準備をしている音を、じっと聞いていたからだ。リビングの扉はほんの少しだけ開いていて、きっと彼にも、トースターの音が聞こえたはずだった。
彼なら、宗くんなら、このタイミングで家を抜け出すだろうから。
好奇心と言えば、そんな軽い感情ではない。猜疑心と言えば、そんな重い感情ではない。ただ、疑問だった。ルリ先輩の頼み事というのが何なのか。あのルリ先輩が桜先輩に頼らない時点で意味が分からない。桜先輩への誕生日プレゼント選び? それなら同性の私に頼む方が自然だ。力仕事? 先生にでも頼めば良い。だったら何があるのか。ルリ先輩は、宗くんは、何をしているのか。そんな疑問が、ついに私を動かしてしまった。
朝食を食べる振りをして、宗くんの後を着けていた。尾行など考えてもいない彼は、大きく背伸びをして歩く。リュックは大きめに膨らんでおり、まるでキャンプの道具でも入っているかのよう。
待ち合わせは駅前だった。彼が見つけるよりも早く、ルリ先輩は駆け寄った。アイロンのかかったブラウスに、楚々とした紺のスカート。薄くはないが濃すぎない丁寧な化粧。まるで、まるでデートにでも来たかのような、力の入った様相に目を奪われる。ルリ先輩ならそのくらい気分でこなすだろうって、そんな言い訳では自分も騙せない。頭の中で歯車が噛み合い始める。
違う、違う、と心が叫ぶが、遠目にも分かるその頬の色。決してチークの色だけではないその赤は、私の歯車を完成させてしまった。
顔から抜けた体温が、そのまま肩を、胸を、腹を、そして脚までをも冷やしてしまう。ぽたり、と大きな涙が落ちた。二人が手を繋ぎ、陽炎の中へ消えて行くのを、追い掛けることもできなかった。
泣きながら歩いていた。声は上げない。それでも、止まらない涙を袖で拭いながら、歩いていた。家に帰ると引き出しから鍵を取り出し、「私の」家へと向かった。視界が滲んで鍵が上手く入らなかった。私みたいな鍵穴。
埃の積もった廊下に足跡を残しながら、リビングに入る。
「ただいま、ただいま……」
私の背丈と変わらないそれを抱きしめた。足元には一枚の紙と、万年筆が落ちていた。
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