2.「人間失格」の構造
前回はなぜ「人間失格」は長い間人気を保っているのかについて考えた。今回はもっと小説本体に注目した内容を書こうと思う。
まず、全体の大まかな流れを確認しよう。この小説は
はしがき→第一の手記→第二の手記→第三の手記→あとがき
の順で物語が進んでいく。設定は、スタンド・バアのマダムが大庭葉蔵のノートと写真を受け取り、それを太宰治が貸してもらい小説にしたというものである。はしがきでは写真の特徴を太宰自身が語っている。手記は時系列通りの内容で、それぞれ葉蔵の幼少期、学生時代、田舎に送られるまでの三つに分けて描かれている。そしてあとがきでは手記を手に入れた経緯が説明され、マダムとの短い会話で締めくくられている。
では、第一の手記から考察していこう。この章では上で述べた通り葉蔵の実家時代が書かれている。内容を端的にまとめると、彼の根源的な思想(人間不信・恐怖等)とそれを抱えつつ他者と繋がりを保つために道化を編み出したこと、そしてこの二つに基づく家族や小学校でのエピソードによって構成されている。
このパートは、ありきたりな言い方をすれば序破急の内の序に当たり、主人公のキャラクターを読者に理解させる役割がある。そしてこれを読んだ私たちは葉蔵の不気味な内面や思考の癖みたいなものを感じ取り、後に続く彼の堕落に納得できるよう準備させられるのである。
この準備は物語の進行に対して良い効果をもたらしている。君も少し思い出してほしい。「人間失格」を読み終えたとき、内容の濃さに対して意外と読了時間が短く感じなかっただろうか。これは、この一番最初の手記(はしがきも含む)で丁寧に葉蔵の精神を読者に見せることで第二、第三の手記における葉蔵の判断や思考に関する描写を重要なもだけに絞れているためだと考えられる。
もし手元にあれば読み返してみて欲しい。第一の手記に比べて第二、第三の手記では葉蔵の心理描写は控えめとなり、自身の思想が大きく変化した場合や取った行動に対する説明(釈明)がメインとなっているだろう。そして節約されたスペースに状況描写や詩、他者との会話が多く配置されている。これにより、中盤以降で物語の展開スピードを上げて葉蔵の転落ぶりを際立たせていると考えられる。
勿論、序盤に主人公の性格をしっかり説明して話を進めやすくするという手法はさして珍しいものではない。ただ、太宰がこの作品を書いた頃では一際抜きんでたクオリティであったであろう。そして現代においても「人間失格」の後半の展開力はライトノベルと比べても劣らない程に洗練されていると言えるだろう。
次に第二の手記について考えていこう。この頃の葉蔵は既に自身の道化を完成させていて、様々な個性を持つ人間たちに出会いじわじわと堕落していく。そしてツネ子の誘いから心中を試み生き延びてしまうという内容だ。
この章の大きな特徴は第三の手記に向けて伏線が多く配置されていることだろう。竹一の予言や堀木の態度、葉蔵に惹かれる女たちの姿等が挙げられる。ただ、伏線と言っても一般的な小説のそれに比べて極めて分かりやすく、何なら筆者がその横に説明まで入れているため、あまり伏線のようには感じられないのだ。
しかし、これこそが太宰の読者に対する気遣いなのだろう。難解な暗示や予想を裏切るオチは読み手を不安にさせ、最悪の場合には苦心の作品が全く理解されることなく古本屋行きになりかねない。
太宰は読者への「サーヴィス」が小説の本質であると考えていた。「人間失格」と同時期に連載された「如是我聞」では、志賀直哉が座談会で太宰の小説をオチが分かり切っていてつまらないと評した発言に対して以下のように応戦している。
『作品の最後の一行に於て読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ才能と見做す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合ではないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。』(もの思う葦-如是我聞より)
この読者に対して奉仕する、という思想のために彼は分かりやすい伏線を張り第三の手記では丁寧にそれらを回収しているのではないのだろうか。
少し脇に逸れるが、この「もの思う葦」という短編集には上で引用した「如是我聞」をはじめ、彼の思想や芸術に対する姿勢が窺える作品が多く収録されている。もし未だ読んでいないのであれば薦めておく。
では、第三の手記に取り掛かろう。この作品のクライマックスに相応しい、葉蔵の怒涛の転落と破滅が描かれている。彼は心中未遂と無気力な生活の後、ようやく人間の営みを理解しかけて幸せを掴みかけていたのにも関わらず、今度は自らの過ちではなく信頼した他者からの悪意なき裏切りを二度も受けて完全に打ちのめされ、絶望するのである。そして苦しみを一時でも紛らわすために酒とたばこ、薬物に依存する。最後には病院に入れられ人間失格となる。
特徴という程でもないが、この章では第一、第二の手記で準備された要素たちが一気に発揮させられている。一番分量が多い章であるにも関わらず読者の物語に対する体感スピードは最大になっているだろう。特に会話文の多さが目立ち、それが葉蔵の他者に慣れていた状態を納得のいくものにしている。彼はこの時に一番人間らしく振舞っていたのだろう。
終盤には鳴りを潜めていた心理描写が再び現れ始める。手記を書いている現在の葉蔵の精神が二度の裏切りの後に形成され、彼の人生に対する結論が示されている。これによって「人間失格」という物語は決着をつけられるのである。
この部分はもう少しミクロな視点で掘り下げたら興味深い結果が得られるかもしれないが、今回はあくまで構造に注目しているため深入りしないでおく。後日余裕があれば細かい描写の考察もしてみたいと思う。
最後はあとがきについて考えよう。といっても数ページしかない上に冒頭で大まかな内容を説明してしまっている。しかし、私はこのあとがきこそ太宰の本音、「人間失格」の狙いに迫る糸口となっていると考えている。
一番最後の太宰とマダムの会話の一部を下に引用する。
『「多少、誇張して書いているようなところもあるけれど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神様みたいないい子でした」』
(人間失格より)
これは太宰が一般的な意見を述べたのに対してマダムが葉蔵を擁護した様な形となっている。物語の流れからすると手記の内容が終わったあとにそれを手に入れたエピソードを書くことは自然の様に感じる。確かに、冒頭で裏話的な「メタい」語りを入れてしまうと読者は物語に対して一歩引いた立場、言うならば第三者のままで手記を読むことになってしまう。それを防ぎこの太宰やマダムと同じ目線で葉蔵を見るためはしがきは葉蔵の特徴のみに留め、状況説明をあとがきにまわしたのだろう。
この構成によって読者は葉蔵の人生に対する思いや解釈を小説の中の太宰やマダムと同じ立場で語ることができるようになっているのである。
この、同じ立場でというのが太宰の残した手がかりであると考えられる。
「人間失格」の巻末には解説と彼の略歴が載せられている。ここから太宰の経歴と葉蔵の人生を見比べるとほぼ一致していることがわかる。これより、「人間失格」は太宰の自叙伝であると解釈されることが多い。
しかし、君も疑問には思わなかっただろうか。自叙伝ならば何故太宰はあそこまでドライで一般的なセリフを吐いたのだろうか。何故マダムに葉蔵の内面とはかけ離れた擁護をさせたのだろうか。
ここから私の本当に語りたかった領域にやっと入れるのだが、構造というタイトルには似合わないため、章を分けたいと思う。次回は「人間失格」を執筆した太宰治の目的と思いを推測し、迫っていくつもりだ。
長い前置きに付き合わせてしまって申し訳ない。
読了して下さった方、ありがとうございました。
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