第10話 真央
未だに、心臓の音はドクドクとうるさく鳴っていた。
みんなとあの日以来会う。
そんなこと考えもしなかった。
少しでも、奈々に関わるものは排除したかった。
学校も、音楽も、踊ることも、みんなのことも……奈々が教えてくれたたくさんの楽しいことその全てを私は捨てた。
そのつもりだった。
でも、実際には何一つ捨てられなかった。奈々のギターも弾かれることは滅多にないが、私の部屋に今もある。
「おこ、られるかな?」
奈々だけじゃない、私も同じだ。みんなに何も告げずにいなくなった。
「奈々……自分の左手を見つめる」
「どこにいるの……? 奈々?」
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楽しいことがわからなかった。
どこかぶつけたり、怪我をしたり、大事な誰かが死んでしまうと悲しい。
ムカついたり、嫌だなと思えば、腹が立つ。
悲しみと怒りの感情は、理解できた。
テストで良い点を取ったり、かけっこで一番になれば周りが喜んで、褒めてくれた。
きっと、これが嬉しいなんだろう。
では? 楽しいって、楽しいってなんだろう?
私は特に好きなものも、好きな場所も、好きな人もいなかった。
周りに合わせて、楽しいを演じていた。
それは、楽しいとは真逆の虚無でしかない。
だから、私の学校の過ごし方は眠ることだ。
眠ってさえいれば、何も干渉されない。
偽りの楽しいを演じなくても良いのだ。
「おはよ」
そういえば、昨日の放課後席替えがあったらしい。特に、興味のなかった私はクラスの盛り上がっている輪から外れそそくさと帰路についていた。
「おはよう、ございます」
「ねぇ? 名前、なんて言うの?」
「……もうすぐ、出席を取ると思うのでそのときにわかりますよ」
「うん、でも、私はあなたの名前が知りたい」
「……」
「な、ま、え」
「……真央です」
「真央……か。あたし、奈々」
そう言って、笑った顔を見たのが奈々の初めての笑顔だった。
奈々は、不思議な子だった。誰とでも仲良くできそうなのに、誰とも仲良くしようとしない。
私を除いては。
【誰かの楽しいを邪魔したくない】
奈々は、良く口癖のようにそう言っていた。
私は、誰かの楽しいを邪魔してしまうからと。
その楽しいがわからない私という存在は奈々にとって都合が良かったのかも知れない。
「ねぇ? 奈々」
「んー?」
「楽しいって何?」
「楽しい、かぁ……」
いつも楽しそうに笑ってる奈々が珍しく、腕を組み悩んでいるようだった。
「楽しいは、楽しい、かな」
「なにそれ? 答えになってないじゃん」
私は思わず、奈々の言葉に笑ってしまう。
「それ」
「えっ?」
「それが、楽しい」
奈々はそう言って、また楽しそうに笑う。
「わかんないな、やっぱり……」
「じゃあ、探そう」
「探す?」
「真央の楽しいを探そう。きっと、楽しいから」
奈々、実はね、私、あのときちょっとわかったんだ。
楽しいって気持ち。
私にとって、唯一の楽しいは、奈々、あなただったんだよ。
それから、しばらくして空き教室を利用してたくさんの楽しいを奈々が私に教えてくれた。
簡単なものから、少し複雑なものまでたくさん、たくさん。
やがて、人数も増えてきて楽しいをやれる範囲が広がっていった。
でも変わらず、私にとっての楽しい、は奈々がいることが一番だった。
奈々がいれば、私はずっと楽しくいられたのに……。
「奈々!?」
「真央」
始業式の前日、私は今日も奈々を探してへとへとになり、日もだいぶ暮れて来たので帰ろうとした時だった。
奈々は、何でもないようにいつもの笑顔を浮かべていた。
「どこにいたの? 探したーー」
「真央、左手出して」
「えっ?」
「出して」
意味はわからなかったけど、奈々に左手を差し出す。
「今から、真央にあたしの左手をあげるね」
「えっ?」
「その代わり、真央の左手はあたしがもらう」
「なに言ってーー」
「真央」
「……奈々?」
「楽しい、こと、忘れないで」
それからの記憶はない。気づけばベッドに眠っていて、少しだけ重くなったような気がする左手を引き寄せる。
右手と比べて、少しだけひんやりとしている私の左手は本当に奈々の左手だと錯覚させてしまいそうだった。
夢? だったのだろうか。
いや、違う。あれは夢、なんかじゃーー。
酷く眠かった。だから、もう寝てしまおう。
明日も奈々を探しーー。
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目覚まし時計よりも早く起きて、数年ぶりに身だしなみを整える。
着る機会がなかった新しい服装に身を包み、ほんの少し、ほんの少しだけ背伸びをして大人の女性の嗜みにも手を伸ばす。
加減がわからないから本当に、少し、少しだけいつもの私から変身する。
いつぶりだろうか? こんなに胸が、体が、心が緊張しているのは……。
みんなに会うことがこんなに怖くて、不安で、嬉しいなんて……。
ねぇ? 奈々、これも楽しいなのかな?
帰ってこないとわかりつつ、自分の左手に疑問を投げつける。
ふぅと一つ息を吐くと、私はあの喫茶店へと足を運ぶのだった。
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