魚の娘、水の音 参
「それは……、危険な生き物なのだな」
「迂闊に触らず、餌を十分お与えになれば、ご心配には及びません。ただ、見かけよりは力がございます。最初のうちはあまり水槽に近づくのもやめておいた方がよろしいかと。旦那様の身の丈くらいには跳ねることもございますからね」
商人の声は抑制がきいて、張り上げずともよく響くいい声である。それが、ふと聞き覚えのあるもののような気がした。
どこかで聞いた。
どこだろう。
雛子の客ではない、と思う。それならば全員覚えている。別れた男から送りつけられた綾取り紐の若い女も、夜逃げした店子が置いていった奇妙な猫を持ち込んだ大家も、その他のあらゆる客人たちをどれもはっきりと思い出せる。
「それにしても君、惜しいじゃあないか。こんなに美しい顔に触れることも叶わないなんてなあ」
「なに、半年も経てば慣れてきて、お手から餌を取るくらいはいたします。最初のうちだけの辛抱ですよ」
商人はハハハと声を上げて笑う。その笑い声を聞いてようやく正体に思い至る。
あれは、猪瀬のおじさんだ。
近所の商店街で魚屋をやっている。
目利きが確かで値段は手頃、店主であるおじさんとおばさんの愛想も良く、いつも適度に繁盛している。陽気で体格もいいおじさんは町内の人気者で、祭りなどの催しでは大きな声で笑いながらひっきりなしに冗談を飛ばす。
普段と身なりがあまりにも違って、今の今まで気づかなかった。気付いてみれば明らかなことだ。首に手拭いをぶら下げてハハハと笑いながら鯛だの鯵だのをさばく姿と、黒い三つ揃いの堂々たる紳士然とした姿は、まさかと思うほど印象が違った。
「ふむ――、まあ、確かに気に入った。君の言い値で引き取ろうじゃないか」
「毎度、ありがとうございます。旦那様のようなお優しいお方に面倒をみていただけるなら、私どもも安心です」
「こいつは何を食うのかい」
「海の魚を一日に二回、朝と夜におやりになってください。それから水槽の水にも塩を少し混ぜてやりますと、鱗がつやを保ちます。他にもこまごまと注意がございますが、いつもの通り執事さんにお伝えしてようございますか」
「ああ、そうしてくれ。あとで人手を寄越す」
「今後もどうぞごひいきに」
若旦那は小切手らしき紙にさらさらと金額を書き記し、猪瀬のおじさんに手渡した。水槽に名残惜しげな一瞥を投げて部屋を後にする。
深々と頭を下げて見送る商人、もとい猪瀬のおじさんは、こちらを振り向いて手招く身振りをした。
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