魚の娘、水の音 壱

 ――ユキちゃん、もう少しこちらにいらっしゃい。

 

 雛子の声は聞き取りにくい。

 甘くやわらかく、ふわりと耳をすり抜けるような、捉えどころのない声をしている。いつまでも聞いていたいような気になるが、うっかりすると意味を理解し損ねる。いい声だなあ、とぼんやり味わっていると、当人は焦れたように手招きをしてきた。

「そこじゃあ陰になってよく見えないでしょう。もう少し近くにいらっしゃい」

 雛子と二人、天鵞絨のカーテンに隠れ潜んでいる。

 重たい布の隙間から見えるのは、ぎらぎらと飾り立てた豪奢な洋間だ。床には頭のついた熊の敷物、壁には剥製の鹿の首。中央には深紅の天蓋で覆った、四角く大きなものが鎮座している。ほとんど布に覆い隠されて見えない。しかし、大きさとしつらえからすると寝台のように思われる。艶のある布地がなまめかしい。


「――あのう、本当にいいんでしょうか。見つかったら厄介なことになるのでは」

「ちゃんと話は通っているから。ユキちゃんはなんにも心配しないで」


 このやんごとないお姫様であれば、多少の気まぐれは許されるのかもしれない。

 しかし、私はそうではない。お姫様のお付きであるというそれだけの者だ。彼女の笑顔を見るためならば火の中水の中の覚悟はあるが、しかし不要な面倒は背負い込みたくないというのも正直なところである。


「何なら、雛ちゃんだけでご覧になったらいかがですか。私はあとでお迎えに来ますから。ここで二人は窮屈ですよ」

「おもしろいものを見せてあげる」と言う雛子に手を引かれ、屋敷街を抜けて繁華街を抜けて、木々に囲まれてひっそりと建つ小さな洋館にやってきた。雛子の顔を見るなり「お待ちしておりました」と頭を下げた執事の案内で部屋に通され、椅子に座って待つのかと思いきや、連れていかれたのはカーテンの陰だ。

 客を招くらしい暗い部屋。

 成金趣味の調度品。

 舞台のように中央の寝台だけを浮かび上がらせる照明のおかげで、壁際に小さくなった私たちの姿は外からはほとんど見えないだろう。

 寝台を囲むように、いくつか椅子が置いてある。

 部屋の真ん中の寝台といい、人目をはばかるような屋敷のたたずまいといい、まさかとは思う、まさかとは思うが、何か大変にいかがわしいことが始まったらどうすればよいかという不安が先ほどから頭から離れない。

 ついついと袖を引かれ、はっと我に返る。

「来たみたい。ユキちゃん、静かにしていてね」

 逃げ出す時間は既にない。

 私は息をひそめ、いよいよとなればこの世間知らずの目をふさいでやらねばという固い決意をもって身を縮こまらせた。

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