桜の花、貸したもの 肆
彼女がいつからこの家にいるのか、確かなことを私は知らない。
お手玉やあやとりをしておとなしく遊び、甘い菓子をもらうとたわいなく喜ぶ。毛並みの良い高価な子猫のように可愛い。人見知りはするが寂しがりでもあり、一度手懐ければいつまでもまとわりつく。友人の頼みなら大抵は断らない。人喰い桜の伐採も、何度捨てても戻る人形の処分も、死者から着信のある携帯電話の破棄も、ありとあらゆる怨念をひとまとめに引き受けて平然としている。
引き受けられた怨念のうち、稀に仕返しにくるものもあるが、雛子が負かされたところを私は一度も見たことがない。
「さ、ユキちゃん、」
何とも言えない微笑みをほんのりと目元ににじませて、私に向かって頷いてみせる。私は湯呑を女の前に置いた。蓋つきの素朴な白い湯呑だ。
「さあさあ、どうぞ召し上がれ」
女はゆっくりと蓋を開け、白い湯気が立ち昇り、中を見るなりものすごい顔で雛子の顔を睨みつけた。
透明な湯の中にふわり揺れていたのは、白い桜の花だった。
さあさあ、たくさん召し上がれ。雛子は次々と重箱を指差す。私は言うなりに次々と蓋を開ける。桜餡の薄紅色がかわいらしいきんつば、ねっとりと甘そうな桜ジャム、桜の塩漬けを練りこんで酒を振りかけたアイスクリイム。桜の香りがどろどろと広がり、たちまちに部屋に満ち満ちた。
ふと、一瞬だけ白昼夢を見た。
湯に浸かっているのは切り取られた白い指、重箱に詰められているのはなま白い女の腕の輪切り。目の前で座布団に座っているのは、灰色にあちこち朽ちかけた、古い大きな桜の木――
雛子は花を煮詰めたジャムを匙ですくい、私が差し出した紅茶にくるくると溶かした。鈴を振るような声で繰り返す。
「さあさあ、どうぞ召し上がれ」
朽ち木は全身に怒りをみなぎらせ、膨れ上がり――、
膨れ切って、ぱちんと割れた。
あ、と雛子が小さく声を上げる。
はらはらと白い花弁が落ちた。卓の上の菓子にも降りかかる。
「ごめんね、ユキちゃん、崩れちゃった。ちょっと怒らせすぎたかな」
「――お疲れさま、雛ちゃん。あの、変なこと聞いてもいいですか?」
なあに? と振り向く。長い黒髪や着物にも白い花弁が留まっていて、指でつまんで取り除けてやる。髪に触れるとくすぐったがって笑う。雛子の真っ白な指が伸びてきて、私の服についた桜を払う。
「お菓子の桜、この前とったものじゃないでしょう。塩漬けだって桜餡だって、去年から仕込まないと間に合わないですよね」
「そう、間に合わせだよ。よそでとった桜。ユキちゃん、よくわかったねえ」
でも、それらしく見えたでしょう? にこにこしながら甘い菓子を差し出してくる。
「せっかくだからお茶会しましょう、ユキちゃん。アイスクリイムを食べましょう」
私は甘い匂いを胸いっぱいに吸い込み、喜んで、と頷いた。
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