狸①
足音が聞こえる。
それは、階段を何度も上り下りするかのように、部屋の壁のすぐ向こうから頭上までを行ったり来たりしている。またか、と思って、月子は目を閉じた。夜中にこの足音に起こされるのは今回が初めてではなかった。もうずっと昔から、年に数回は同じことが起こる。決まって、ユキちゃんがいない夜に。
ユキちゃんは、夕方、仕事から帰ってきた母と入れ違いになるように、ふらりと出かけて行ってまだ帰らない。月子から昼間の喧嘩の顛末を聞いた母は、「まあ、二人とも元気やね」と言っただけで、どちらを責めることも庇うこともしなかった。それがまた月子には面白くない。あの時の発言から察するに、樋上家と田尾家の相性が悪いという話も、ユキちゃんの私怨によるものではないだろうか。〝田尾の女狐〟が誰で、二人の間に何があったのかは知らないが、そんなことで先輩への恋慕を否定されてはかなわない。
そもそも、ユキちゃんはご近所問題を起こしすぎている。月子が産まれる前の話なので詳しくは知らないが、この辺りの神社は軒並み出禁だという。月子が小さい頃から耳にするお化け屋敷の噂も、ユキちゃんが何かやらかしたせいではないかと睨んでいる。この有様では、もしも月子がユキちゃんの言うように結婚を前提としたお付き合いを始めようとしても、とてもじゃないが樋上家と相性の良い家が見つかるとは思えない。ユキちゃんは私を一生結婚させんつもりかもしれん、とまで考えたところで馬鹿馬鹿しくなって、月子は勢いよく寝返りを打った。
月子がぐるぐると思考を巡らせている間にも、壁の向こうを、とんとんとんとん、と軽快な足音が行ったり来たりしている。この足音のことを、月子は大して気にとめたことがなかった。物心つく前からこうだったので、疑問を持つまでもなく耳に馴染んでしまっているのだ。幼さを感じる軽やかな足取りには、むしろ親しみさえ感じる。
この足音の主は、果たしてどんな姿をしているだろうか。閉じた瞼の裏にその姿を描こうとして、月子はいつの間にか眠りに落ちていた。
しかしまあ、怖くはないといっても不思議といえば不思議ではある。この家にはそもそも階段など存在しないのだから。
翌朝、月子がいつものように家中の雨戸を開けて回っていると、ユキちゃんの部屋のそばの廊下の雨戸だけが、なぜか中途半端に半分だけ開いていた。もしや、と思いそのままユキちゃんの部屋を覗くと、案の定、部屋の主が畳の上で大の字になって眠りこけている。近寄るとわずかに酒臭く、呼吸が浅い。見た目が幼いからといって、未成年飲酒だと騒ぐつもりはないが、果たして昨夜はどこでどれだけ飲んできたのだろうか。
月子は心の中で、「不良娘め」と独り言ちると、居間の母の元へ向かった。
「お母さん、ユキちゃん帰ってきとる」
鏡に向かっておしろいをはたいていた母が、顔を上げて月子を見た。
「あらまあ、ほんまに?」
「酔っぱらって部屋で寝とる」
月子がぶすっとして答えると母は、「うーん」と唸りながら鏡に向き直った。鏡面に眉の下がった困り顔が映っている。
「お母さんもうお仕事に行かないかんし……。月子ちゃん、あと頼める?」
「おそなえ?」
「そうそう、足りんかったらご飯炊いてあげてね。ユキちゃん、よう食べるから」
頬紅を塗り終えた母は、かちゃかちゃと音を立てて化粧道具をしまうと、鞄の中身を確認しながら忙しなく玄関に向かった。月子もその後をついていく。
「夕ご飯は?」
「うーん、何食べたい?」
「カレー、作っとこうか」
「ほんま? 助かる」
ヒールを履いた母が振り返る。「月ちゃんもすっかりお姉ちゃんじゃねえ。それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
母を見送った後、月子は台所に向かいながら今の言葉を頭の中で繰り返していた。
――そりゃもう高校生なんじゃし、家には大人か子どもかもようわからん、全然成長せん神様がおるんやから、私がしっかりせんと。
年季の入った古い台所に立って、月子は、「よし」と呟いた。今日は部活を休んで、家のことに専念しよう。まずはユキちゃんの朝ごはんづくりだ。起きてきたユキちゃんを、あっと言わせてやるのだ。
コンロの上の小鍋には、母の作ったひじき煮が入っている。それを横によけて、月子は水の入った鍋を火にかけた。それから勝手口を出て畑の隅に向かうと、きれいに伸びたねぎを二、三本ぷちぷちとちぎる。味噌汁には新鮮なねぎが一番だ。
卵を溶いていると、突然居間からテレビの音が聞こえ始めた。台所からひょいと顔をのぞかせると、起き出してきたユキちゃんが、卓に頬杖をついてぼーっとテレビを見ている。
「ユキちゃん」
「ん……、ああ、月子か。暁美は?」
言いながら、ユキちゃんは大きなあくびをした。まだ眠いらしい。
「お母さんやったら、とっくに仕事に行ったで」
「ごはん……」
「今、準備しよるから待って」
酒が抜けきっていないのか、ユキちゃんは随分怠そうで目も半分しか開いていなかった。しかし、食卓にご飯が並ぶ頃にはだいぶ目も覚めてきたようで、きょときょとと目をしばたかせながら、料理と月子を交互に見た。
「月子が作ったんか?」
「そうじゃけど」
月子が頷くと、ユキちゃんはそろそろと箸をとった。しばらく無言のまま、箸をお皿から自分の口まで何往復かさせた後、ぽつりと呟いた。
「ひじきがおいしい」
「それはお母さんの」
樋上家の負け犬 藤目 @ma_na_co
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