ユキちゃん③

 軒下で折り畳み傘を閉じてから、月子は玄関の鍵を開けた。靴を脱ぎながら家の奥に向かって、「ただいまぁ」と声を掛けたが返事はない。農協で働く母の帰りは夕方になるだろうから、いないとして、ユキちゃんはまた昼寝でもしているのだろうか。

 いつも学校から帰ると、月子はまず台所に向かう。手を洗って冷凍庫からアイスキャンディを取り出すと、それをかじりながらユキちゃんを探して家の中を歩いてまわった。居間、客間、昨日昼寝に使った八畳間の他に、家には普段使われていない部屋もたくさんあるが、日中は風を通すためにふすま戸が開けっ放しになっているので、廊下沿いに並ぶそれらの部屋を覗いてまわるのにそれほど時間はかからない。しかし、そのどこにもユキちゃんはおらず、あとは母の部屋かユキちゃんの部屋くらいしか残っていなかった。玄関に靴があったので、外出しているという事はないだろう。

 月子は縁側の廊下にまわると、ユキちゃんの部屋の閉じた障子戸をほんの少し開けて、その隙間から部屋の中を覗いた。明かりはついておらず、ひっそりとしている。一見誰もいなさそうだが、中央に置いてある卓袱台の下に潜り込んで眠っている場合もあるので、月子は思い切ってこっそり部屋の中に忍び込んだ。春に張り替えたばかりの、い草の匂いのする畳の上に立って、ぐるりと部屋の中を見回す。桐の箪笥、神棚、水瓶、時計。この部屋に入るのも久しぶりな気がする。壁に貼られた落書きは、月子が保育園児のときに描いたユキちゃんの似顔絵だ。

 部屋の中にユキちゃんの気配はない。それでも一応卓袱台の下を確認しようと、月子はかがみこんだ。その瞬間、背後から声が掛かった。

「何しとんじゃ」

「ひっ」

 振り返るとユキちゃんが立っていた。逆光になった顔の中心で、怪訝そうな半目が月子を見ている。驚いた月子がぱっと立ち上がると、その瞬間手に持っていたアイスの棒から、わずかに残っていた欠片がぽろっと溶け落ちた。

「おっと」

 アイスの欠片は、咄嗟にのばされたユキちゃんの手のひらの上に着地した。「こら、気を付けんか」

「ごめん」

「畳が汚れんでよかった」

 そういうとユキちゃんは受け止めたアイスを口に含み、手のひらをぺろぺろと舐めだした。対して怒っている様子はなく、月子はほっと胸をなでおろす。手のひらをねぶるユキちゃんが「ん」と言ってもう一方の手で座布団を指し示したので、月子が大人しくそこに座ると、ユキちゃんも卓袱台を挟んだ正面にきちんと背筋を伸ばして正座した。それから、「で?」と言って首を少し傾けて見せる。

「え?」

「わたしに何か話があるんじゃろ?」

「それは、そうじゃけど」

 なんでもお見通しというわけだ。月子は内心でため息をついた。目の前のユキちゃんは月子よりもずっと幼い女の子に見えるのに、ずっと特別な能力を持っている。もしかするとこれから話す内容も分かっていて、その結果もすでにユキちゃんの中では固まっているのかもしれない。そう思うと、やれいつ話そうか、どう切り出そうか、そんな風に迷っていたここ数日間の自分が馬鹿みたいに思えてくる。

「ほれ、言うてみ」

 月子が言いよどむのを話し辛いからだと思ったのか、ユキちゃんがすました顔で促す。ここまで来て黙っていても仕方ないと、月子は正直に打ち明けた。

「……好きな人がおるんじゃけど」

「相手は?」

 間髪入れず飛んできた質問に、やっぱりユキちゃんはわかってたんだ、と月子は思った。

「部活の先輩。田尾明臣さん」

 きっと相手もとっくに割れているに違いない、そう思い半ば投げやりに告げたつもりだが、それでもその名前を出す瞬間は頬が熱くなった。

 意外にもユキちゃんはその名前を聞くと目を細め、想定外だといわんばかりに長いため息をついた。

「田尾の三男坊か……」

 腕を組んでうーんと唸っている。

「え、なんかいかんの?」

「……樋上と田尾じゃ相性が悪い」

「何それ」

 思いがけない答えに拍子抜けする。

 好きな人ができたらユキちゃんに相談するというのは、いくつかある〝樋上家の決まりごと〟のうちの一つだった。母曰く、「ユキちゃんに任せておけば何もかもうまくいくから」とのことで月子は少なからず期待を寄せていたのに、まさか、「相性」なんてふんわりしたもので片づけられては納得がいくはずもない。

「相性を馬鹿にしたらいかんで。特に結婚は家同士の問題じゃし……」

「結婚するなんて誰も言ってないやん!」

 月子が驚いて大声を出すと、ユキちゃんは頭の上の両耳をぺたんと畳んで眉を顰めた。

「添い遂げる気もない男のことを相談に来たんか?」

 その表情に怒りが混じる。「わたしは月子をそんな風に育てた覚えはない」

 月子も負けじと言い返す。

「そんなん今どき普通じゃし、ユキちゃんの考えは古いし、固いし、時代遅れなんよ。っていうか思い出した! ヒロくんの時もユキちゃんおんなじこと言っとったよねえ⁉」

 幼い初恋の記憶が、またわずかによみがえった。「相性が悪いって……、真に受けるんじゃなかった!」

 月子がびしっと指を突きつけると、ユキちゃんはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「なんじゃ、そんな昔のこと。樋上家に相応しい男を連れて来んのが悪い!」 

「なんよ、相応しい男って。田尾先輩のことなんも知らん癖に!」

 言い争いはどんどんヒートアップし、二人とも前のめりになって卓袱台から身を乗り出さんばかりの勢いだ。そしてしばらくぎゃいぎゃい言い合っていたが、ついにユキちゃんが爆発した。

「えーい、やかましい! わたしは田尾の女狐が大っ嫌いなんじゃ!」

 大きな屋敷全体を揺るがさんほどの怒声に、月子は両耳をふさいで固まった。体全体がじーんと小刻みに震えている。動けないでいるうちに、一体その小さな体のどこにそんな力が潜んでいるのか、ユキちゃんに首根っこを掴まれて部屋の外にぽいと投げ出されてしまった。背後で障子戸がぴしゃりと閉まる。

 雨はいつの間にやら上がり、縁側から見える庭にはわずかに日が差している。月子はしばらくの間動けずに、目の前の風景を見つめているほかなかったが、ようやく金縛りが解けると、

「……ユキちゃんのばか」

と、障子戸に向かって悔しげに呟いた。

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