ユキちゃん②

 ふと、集中の線が途切れた。

 月子は作業の手を止め、席から近いグラウンドに面した窓を見た。ぽつ、ぽつ、と水滴が二、三、窓に叩きつけたかと思うと、それはすぐさま量を増し外は大降りの雨になった。練習に励んでいた運動部員たちが、大慌てで道具を片付けている。それを横目で見ながら、月子は筆を握った腕を真上に突き出し、ぐっと伸びをした。気が付けば十四時だ。まだ昼食も食べていないのに。

 昔から、一度何かやり始めると時間を忘れて没頭してしまうきらいがあるが、高校で美術部に入ってからは一層ひどくなった気がする。夏休みだというのに今朝も九時から部室にやってきて、一度も休憩を挟まないまま、五時間ぶっ続けで絵を描いていた。下絵を何度もやり直したせいであまり進んでいないが、こだわった分なかなか納得のいく出来になった。誰かに意見を求めたかったが、生憎、今日はまだ顧問も他の部員も誰一人顔を出していない。もともと部員も七人しかおらず、活動方針もないに等しいような弱小部なので仕方がない。それに、描きたいときに描けばいい、その緩さを月子も気に入っていた。

 雨は降り続け、月子はしばらく窓を流れる水滴を眺めていたが、それにも飽きて帰り支度をすることにした。絵の参考にと、キャンバスの横に立てかけていたスマートフォンの画面を切って鞄に放り込む。晴れの日の着彩は晴れた日にするに限る。

 帰りのバスを降りる頃には、雨はだいぶ小降りになっていた。バス停から家までは徒歩二十分ほどで、ずっと上り坂が続く。夏の昼間とはいえ悪天候の下、鬱蒼とした木々に覆われた道は薄暗く心もとないようだが、月子にはなれっこだった。この道を通い続けて十年になる。小学校に入学したての頃こそ怖がって、雨の日は母かユキちゃんがいなければ通れずにいたが、いつの間にか平気になっていた。

 ――そういえば、昔、誰かとここを歩いた気がする。

 月子はふと、そんなことを思い出した。母でもユキちゃんでもない誰かだ。持ってきたはずの傘を失くして、学校の下駄箱で途方に暮れていたあの日。てっきり誰もいないと思っていた校舎の奥から出てきて、声を掛けてくれた上級生の男の子。たしか皆から、ヒロくんと呼ばれていた。


 月子はほかの子たちに比べて、人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではなかった。なので、誰がどこに住んでいるだとか、誰と誰が兄弟だとか、みんなが当然のように知っていることにあまり詳しくなかった。だからヒロくんが六年生だというのは、名札の色を見たからわかったことで、呼び名は、たまたま同じ日に学校の廊下でそう呼ばれているのを見かけて知っていた。

 親切なヒロくんは傘を失くしたという月子に、

「そんなん、その辺の傘借りたらええやん。明日また持ってきたらええんじゃけん」

と、なんでもないことのように言った。月子が

「人のもんとったらいかん」

と渋ると、

「ほんなら、僕の傘貸したげるわ」

と言って持っていた傘を月子に渡し、自分はその辺の傘立てから適当に一本抜きとって開いた。「ちょっと小さいけど、まあええか」

 それからヒロくんが玄関を出ていこうとするまでの一連の流れを、月子はぽかんとして見ていた。あんまりに堂々としていたので、呆気に取られてしまったのだ。ヒロくんが振り返って、立ち尽くしている月子に不思議そうに、「帰らんの?」と言ったので、成り行きで一緒に下校することになった。

「樋上さんちの子やんな。僕んちもあっちの方なんよ」

「そうなん?」

 二人は歩道のない県道沿いを、おしゃべりしながら登っていった。県道は車一台がやっと通れるほどの道幅しかなかったが、ほとんど車が通らないので話しやすいように横並びに歩いた。

「そうそう。僕のおじいちゃんが、君んちのことよく話しとったわ」

「ふーん」

 ヒロくんは月子のことを知っている風だったが、月子の方は近所にヒロくんが住んでいることを知らなかった。

「いつも一人で帰ってるん? あの辺さ、妖怪も出るし一人やと怖ない?」

「別に、怖ないよ」

 ヒロくんの質問に平然として答えたのは、強がりではなく本心からだった。ヒロくんは、へえ、と頷いて、

「まあ、君は平気かもなぁ。僕らみたいな半端もんはどうもいかん」

 月子は道端のカーブミラーを見上げた。ちゃんと、人間の子どもが二人映っている。

「じゃあ、いつもはどうやって帰ってるん?」

「だいたい弟と一緒。四年生なんじゃけど、今日は風邪ひいて休んどる。じゃけんもしかしたら、途中までおばあちゃんが迎えに来てくれとるかもしれん」

 しばらく歩いていくと、山道の入り口に、えんじ色の和傘をさした女の人が立っているのが見えた。着物姿で、この辺りでは見かけない面長の美しい顔をしていたので、月子はてっきり、ユキちゃんのお客さんだろうかと思って声を掛けようとしたが、それよりも先にヒロくんがその女性に向かって手を挙げた。

「ただいま。やっぱり来てくれとった」

「おかえりなさい。あらその傘、今朝のと違うわね」

 言いながら、女性の切れ長の目がちらりとこちらを向いたので、月子はどきりとして傘の柄をきつく握った。ヒロくんが自分に傘を貸すために、他の子の傘を持ってきたと知れたらどうしよう。月子の心配をよそに、ヒロくんは悪びれもせず、「ちょっと借りた」とだけ答えた。

「借りたって、持って行った傘は?」

「月子ちゃんに貸した」

「まあ」

 月子には女性の顔が、一瞬般若に豹変したかのように見えた。しかし、すぐにもとの上品な顔に戻ると、月子には、「樋上さん、傘は明日私がおうちまで取りに伺いますから」とだけ言って、「さあさあ、早く帰りましょう」とヒロくんの手を引いて山道を登り始めた。月子は何も言えなかった。女の人は、帰りを急いでいるというよりも、自分と早く別れたがっているように見えた。ヒロくんは月子を振り返って、塞がった手の代わりに軽く傘を振って見せた。

 次の日学校から帰ると、玄関に立てかけておいたヒロくんの傘は無くなっていて、あの女性と顔を合わせたくなかった月子は少しほっとした。望みが叶ったのか、その後も近所に住んでいるはずの彼女と顔を合わせることはなかった。ヒロくんとも学校以外で会うことはなく、その年度末にヒロくんが小学校を卒業すると、完全にその姿を見ることすらなくなった。だから忘れていたのだ。あれから七年以上が経った今日まで。

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