樋上家の負け犬

藤目

ユキちゃん①

 ――いつの間に、ユキちゃんの背を越したんだろう。

 居間でアルバムを見返しながら、月子はふと思った。樋上家のアルバムは母の手によって、時系列順にきれいに整理されている。月子のゼロ歳の写真から始まり、高校一年生の今に至るまで七冊のアルバムがあるが、そのほとんどが月子とユキちゃんの写真で、母が映っているものは数えるほどしかなかった。それは恐らく、ここにあるほとんどの写真の撮影者が母自身だからだろう。

 三冊目の終わりの方に、月子とユキちゃんが並んで眠っている写真があった。写真の横に丁寧な文字で八月七日と書かれている。お腹の上に掛かっている薄い水色のタオルケットは、今でもユキちゃんが愛用しているものだ。二人の頭の位置はほとんど変わらないのに、タオルケットからはみ出したユキちゃんの足の先は月子のよりも下まで伸びている。この頃はまだ、ユキちゃんの方が背が高かったのだ。

 月子はアルバムを閉じて机の上に置くと、ユキちゃんを探しに立ち上がった。家族三人で住むには広すぎる家だったが、ユキちゃんがどこにいるか大体の見当はついている。

 縁側に面した八畳間から、開け放した障子の向こうに見える青空には大きな入道雲がかかっている。その鮮やかなコントラストを背景に、色濃く影の落ちた畳の上でユキちゃんが寝そべっていた。その瞳は閉じられ、おなかのあたりがゆっくりと上下している。月子はポケットからスマートフォンを取り出すと、シャッター音が響かないように注意を払いながら、その光景をカメラに収めた。

 軒下につるされた風鈴が音を立てる。ユキちゃんのとがった耳がぴくりと動く。部屋の中を風が通り抜けて、それは入り口に立つ月子のスカートをもはためかせた。これだけ気持のいい風が吹くのなら、ユキちゃんが自室ではなくここを昼寝場所に選んだのも納得だ。月子は忍び足でユキちゃんの傍まで近寄ると、その隣に向かい合わせになるようにして寝ころんだ。顔の位置を合わせると、ユキちゃんの足の先はちょうど月子の脛のあたりに来た。

 裏の山から蝉の声が聞こえている。夏はユキちゃんにとって過ごし辛い季節のはずだが、目の前の寝顔はとても穏やかだ。蝉の声に、すり、すり、という微かな摩擦音が混ざって、月子は何事だろうと少しだけ頭を持ち上げた。音の発生源を見ると、ユキちゃんの絵筆に似た白い豊かな尻尾が上下して、ゆっくりと畳の上をなぞっていた。何か夢でも見ているのかもしれない。

 風鈴が鳴るたび、ユキちゃんの耳が反応する。ユキちゃんの耳は尻尾と同じ白い毛に包まれていて、中心部は淡い桃色をしていた。月子はそれを眺めているうちに段々うとうととしてきて、少し目を閉じた後あわててまた開いた。――いかんいかん、もうすぐお母さんが帰ってくるんじゃから。

 そう自分に言い聞かせてみても、気がつかないうちにやはり眠ってしまっていたらしい。次に目を開いたとき、そこにユキちゃんの姿はなく、月子は部屋に一人取り残されていた。炊事場から水を勢いよくシンクに流す音に混じって、話し声が聞こえてくる。母とユキちゃんだ。

 あれだけ鮮やかだった青空は水で薄めた水彩絵の具のようにぼやけて夕闇と溶け合い、それを見て月子は少し寂しさを覚えた。ユキちゃんに、話したいことがあったのに。



「あんな、ママが、つきこちゃんと遊んだらいかんって」

 小学二年生の夏、クラスメイトから言われた言葉に、月子は大して傷つかなかった。泣きながら話すその子のことを、「ずるい」と思ったが、何も言わずに離れていく子もいる中で、正直に話してくれるだけよかったのかもしれない。

 月子は幼心に、友だちが少ないのはわたしんちがお化け屋敷じゃけんかな、と思っていた。

 樋上一家が暮らすのは、祖谷地方の山間にある、山の斜面を拓いて作られた集落のうちの一つで、その中でも月子の家はひときわ古く立派だった。まさに〝屋敷〟と呼ぶにふさわしい日本家屋で、遡れば豪農や地主といったルーツにたどり着きそうだが、母からもユキちゃんからも詳しい話を聞いたことはない。日本古来の風習が色濃く残るこの地に住みながら、月子はお盆にもお彼岸にも墓参りをした覚えがなかった。家には仏壇もなく、神事に関係あるものといえばユキちゃんの部屋の神棚くらいだ。

 なぜ自分の家だけが悪名高いお化け屋敷なのか、月子は知らなかった。近所の男の子に、「お前んち、ようけ人が死んどんだろ」と言われたことがあったが、それが本気なのか冗談なのかさえ分からなかった。そういう噂について尋ねるたび、母は、「まあまあ、どないしましょ」と顎に手を当てて困った顔をするが、大抵次の日には忘れている。決して真面目に取り合っていないというわけではなく、少々楽観的過ぎるのだ。お化け屋敷の噂は子どもたちだけの間に留まらず、一部の大人たちにも避けられていることに月子は気が付いていた。いや、むしろその大人たちが自分の子どもに、「樋上の家に関わったらいかん」と言い聞かせていたのかもしれない。

 そういうわけで樋上母娘は孤立気味だったが、それでも全く近所付き合いがないというわけではなかった。集落の中に親切な家もあれば、遠方からわざわざ訪ねてきてくれる友人もいる。その相手が全て人間とは限らなかったが。

 月子が通っていた小学校は、全校生徒百人余りの小さな学校で、一学年につき一クラスしかなかった。つまり転校がない限り六年間クラスの顔触れは変わらないということで、クラスの人数が少ない分刺激は少ないが結束は固い。半分は同じ保育園からの持ち上がりということもあって、無邪気な友情で結びついていられた。

 三年生の時、朝の一分間スピーチが始まった。担任の先生が考えたテーマに沿って、毎朝一人ずつみんなの前に立ってスピーチをするというもので、二十人いた月子のクラスでは大体ひと月に一度順番が回ってくる計算だった。五月のテーマは「家族」だった。〝ひがみつきこ〟は出席番号で言うと女子の後ろから二番目で、月子に順番が来たのは梅雨入り前の五月末のことだった。それまでに発表を終えたクラスメイトは両親や兄弟のことについて話していたが、月子は母とユキちゃんのことを話した。ほかに身内のいない母娘にとって、ユキちゃんは時に父であり祖父母であり姉妹であり、まさしく家族だったからだ。

「ユキちゃんってだれ?」

 人数の少ない学校では、全校生徒が学年を超えてお互いに顔見知りみたいなもので、誰と誰が兄弟姉妹か、いとこ関係か、という事までみんなが知っていた。月子が一人っ子だという事も当然知られていて、ユキちゃんとはいったい誰なのか、そういう質問が出るのは当たり前のことだったが、月子は戸惑った。だって、ユキちゃんはユキちゃんだ。本当は父でも祖父母でも姉妹でもないが、大切な家族だ。月子はユキちゃんのことを示す言葉を、ユキちゃんという呼称以外には一つしか知らなかった。

「いぬがみさま」

 自信なさげに呟いた言葉に、クラスメイトの多くは首を傾げた。その中で一番利発だった女の子が、「だからツキ子なんだ」と言ったが、月子も他の誰も、その言葉の意味を理解していなかっただろう。

 そのことがあってから、また少し友だちが減った。ちょうど女子は、みんな分け隔てなく仲の良かった時期から、徐々に個別のグループで固まり始める時期でもあった。月子はどこの仲良しグループにも属せず、けれど、「仲間に入れて」と頼めば一緒に遊んではもらえる、宙ぶらりんの状態が続いた。けれど不思議といじめはなかった。陰で、「たたられるよ」と噂されていることは知っていたから、やっぱり家がお化け屋敷なせいだからだ、と思った。

 長い梅雨だった。月子には、一緒に帰ろうと声を掛けてくれる友達はいなかった。隣の席の男の子が、「まだ帰らんのん?」と訊ねてきたが、その時は絵を描くのに夢中で、「もうちょっと」と返した。そして次に気が付いた時には、教室からは誰もいなくなっていた。時計は十六時を回っていて、月子は慌てて通学かばんを背負うと廊下に出た。放課後の校舎は明かりが消えていて、暗くひっそりとしている。窓ガラス越しに聞こえるざあざあという雨音以外には何も聞こえず、校舎内には自分以外に誰もいないかのように思えた。

 下駄箱で靴を履き替えて、傘立ての前に立った。下駄箱の横に学年ごとに設置された傘立ては、誰がどこに傘をしまうか決まっていて、白い名札シールが貼られている。今朝はたくさん立っていた黄色い傘も皆が下校してしまった今はほとんど出払っていて、月子は自分の傘を探すために、他の傘を掻き分ける必要もなかった。それは一目でわかったのだ。

 ――わたしの傘が、どこにもない。

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