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─────


 平成22年(2010年) 12月


 夢の中では時が流れて行くのに、現実世界の尾形佑馬の時は止まった儘だ。

 あの日あの時から一歩も進めぬ儘、決して覚める事のない酷い悪夢を見続けている。


 だが例え悪夢でも溺れていたい。

 目覚めれば、それこそ悪夢としか言い様のない現実と向きあわなければならないからだ。


 魘され目覚めれば、更なる地獄に突き落とされる。

 彼は悪夢と過酷な現実にある地獄の境を常にさ迷っていた。


 その地獄は、彼と妻の心、まだ幼い長女の麗香の無垢な魂さえ蝕んだ。


「あなた……」


 瞼を開けると妻の綾乃の窶れた顔が直ぐ近くにあった。

 労るような優しい瞳。

 だが、とても悲し気な──


 常に朗らかに笑い、輝いていた美しい瞳から永遠に光は失われてしまった。


 目覚める度、並べて敷かれた三組の、真ん中の布団を必ず確認せずにはいられない。


 長女の綾乃の無邪気な寝顔。


 そしてその横で寝ている筈の──


 次女の愛美の姿は、今日も無かった。


─────


「佳奈ちゃんちは子供部屋あるんだって!二段ベッドだって!いいなあ」


「うちも、そろそろ子供部屋作るか」


 長女の麗香が母親にねだるように言うのが耳に入り、テレビでニュースを見ていた尾形は妻の綾乃に提案した。


「そうねえ。もう麗香も三年生だし。その為に、この家買ったんだものね」


 尾形は上場企業の食品会社に勤める極々普通のサラリーマンだった。

 妻の綾乃のパート代を合わせなくても、彼の年代の平均年収は十分上回っており、次女の愛美が産まれてからマイホームを購入した。


 勿論、年頃になれば一人部屋を欲しがるだろうと考えたからだ。


 将来に不安を感じる事は無かった。


「でも、あたしはママと一緒に寝られないのはヤダ! 」


 愛美はまだ小学校一年生になって半年も経っていない。

 まだまだ親に甘えていたいようだった。


「じゃあ子供部屋は作るけど、愛美はママと一緒に寝ればいいだろう? 」


「ええーーじゃあ、あたし一人で寝るの?愛美と一緒でなきゃ怖いよ」


 麗香と愛美は本当に仲が良かった。


「だったら子供部屋作ってパパやママと一緒に寝る? 」


「うん、そーするーー」


「おいおい、それじゃ子供部屋作る意味ないだろう」


 尾形は妻と娘達の会話に苦笑しながら、クラフトビール片手に再びテレビのニュースに意識を傾けた。


「パパ、見て! 」


「ん? 」


 愛美がソファの上に乗り、爪先を差し出してきた。


「可愛い?ママがマニキュア塗ってくれたの」


 小さな足の爪にはピンクのマニキュアが塗られていた。


 そんなもの塗って学校で怒られないのか、とチラリと綾乃の方に視線を送る。


「足の爪ならバレないわよ」


 直ぐに察して返してきた。


「ああ、可愛いな」


 そう褒めてやると、愛美は嬉しそうに笑っていた。


────


 尾形はパソコンのキーボードを叩いていた手を止め、大きく伸びをした。


「尾形さん、紅茶飲みます?伊東さんのお土産」


「紅茶? 」


 同じ部署の女性の声に振り向く。

 尾形は日頃紅茶を飲む事は殆んどない。

 コーヒーばかりだ。


「フォートナム&メイソンの。凄くいい香りですよ」


「俺に紅茶の違いなんて分からないと思うけど、折角だから頂くよ」


 フォートナム&メイソンの厳選茶葉は確かに良い香りだった。


「そこら辺で売ってるティーパックのとは香りが違うね」


 同僚達と雑談を交わしながら、たまには紅茶も悪くないなと思った。


「尾形さん……警察から……」


 そう伝えにきた女性の顔は緊張で強張っていた。


 悪い予感に胸がざわついた。


 尾形が救いを求めるように壁掛け時計に目を遣ると、針は3時16分を指していた。


────


 遺体には白い布が掛けられていた。

 嘘だと思いたかった。


 膨らみは余りにも小さく、そこに横たわる遺体が子供である事を如実に物語っていた。


 無情にも白い布が胸の辺りまでめくられる。


「お嬢さんの愛美ちゃんで間違いないですか? 」


 愛美の顔は白く、まるで人形のように造り物めいて見えた。

 愛美に良く似た人形、或いは他の子供の遺体の間違いではないのか。


「─────」


 身体ががくがく震え言葉が出なかった。

 愛美であると認める事も、愛美ではないと叫ぶ事も出来なかった。


 白い布から微かに溢れる爪先が、僅かな希望に縋り付く尾形の手を払い除け崖下に突き落とした。


 小さな爪には、昨晩妻が塗ってあげたピンクのマニキュアが施されていた。



────


 その日その時から、尾形の世界は黒く塗り潰された。


 何故──何故──


 性的暴行を加えられていたという事実を告げられ、彼は耳を疑った。


 幼女や少女達に歪んだ欲望を抱く頭のおかしな連中の存在は勿論知っている。

 だが彼が生きてきた世界、今まで触れてきたものの中に、そのような如何わしい者達は存在しなかった。


 地域の住民達は皆温かく子供達を見守ってくれる。

 平和な住宅街に、そんな奴等が紛れ込んでいるとは思いもよらなかった。


 確かに、日常的に幼女や少女に対するワイセツ事件のニュースを目にしてはいる。

 その中には遺体で発見されたという極めて痛ましい事件も含まれている。

 だが、それは何処か非現実的で、酷い事をする奴がいるものだと人並みな感想は抱いても、その実態について深く知る事は無かった。


 愛美のような小さな子供に本当に?

 身体を触っただけとかではなく?


 

 


 


 


 

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