第7話 孤独な炎
どんなことが起きても太陽は沈み、また昇る。
日が昇る前、ドーマは外に出た。リージアから受け取った薬をもって川へ向かう。その薬を使うには適切な瞬間が重要だ。太陽が昇り日が照りだしたその時に薬液の入った小瓶を日にかざす。すると液体は日の光を含んだ輝きを放つ。天界に生息する薬草を使ったこの薬は、太陽の恵みを受けることで効果を最大に発揮する。
液体を川へ垂らした。
水面に波紋を打ち溶け込んでいく。数時間も経てば水は綺麗に浄化される。作業を終えて王室へと戻った。
ドーマが戻った時、学院に向かうため外に出ていたノアとアリアベルに会った。
「上手くいったか」
ノアが言う。
「あぁ」
ドーマは頷く。状況を確認してからノアは車に乗り込んだ。
「町の様子も見ておいてくれ。頼んだぞ」
ドーマに言うと車が動き出した。ドーマはそれから時間が経つまで隊員たちと訓練を行った。
昼頃、ドーマはセパルとクリスを連れてフォークス病院へ訪れた。現状の様子では水の使用を禁止してからの新たに来訪する患者はいなかったようだ。川の状態を確認してから問題ないことが分かったため伝える。
「水の使用は問題ないですが念のため、少し日を空けてからまた様子を見に来ます。それまでで何か問題事が出た時は王室の方へ連絡を入れてください」
「我々だけではこんなに早く解決することはできませんでした。本当にありがとうございます」
グレイブはドーマの手を取って頭を深く下げた。ドーマは言った。
「私たちがこの国に要請されたのは、こういった事件や事故を解決するためですから気にしないでください。後で患者に服用させる薬を渡します。完治するまではあなた方の力が必要です。町の皆のために尽力を尽くしてください」
グレイブはドーマの真っ直ぐな眼差しに力強く頷いた。そしてドーマは元の仕事に戻るため病院を後にした。
その頃学院では、午前の授業が終わり休み時間に入っていた。アリアベルは一人で庭園に来ていた。以前見ることができなかった新しく植えられた花のある花壇へと向かう。
(やっぱり、この場所が一番落ち着く……)
庭園には季節に合わせてたくさんの花が植えられている。花と本が大好きなアリアベルにとっては図書館と同様に癒しの空間だった。その癒しを一身に受けながら歩いていると、知らぬ間に自分の背後に人の気配を感じた。
「おい」
気づいた瞬間に声をかけられた。一瞬体が跳ねる様に反応する。声の主はノアだった。
だがノアは何らかの理由がない限りアリアベルの元へ来ることは無い。また何かあったのか、不安を感じながらノアの方を振り向く。
「お前の一人行動をなるべく避ける。よく一緒に行動している連中がいただろう? あいつらがいない時は俺が傍に付くことにする」
急な話にアリアベルは不思議に思った。
「それってカリナ様とフィーリー様のこと? どうして学院内なのに私の一人行動をさけるの?」
「詳しいことをここで話すことはできないが、俺が隣にいるということはそれだけ良くない状況になりつつあるという事だけ伝えておく」
アリアベルは不安な顔をする。
「……まあ、すぐに何か事件が起きるかと言えばそういう訳でもないが。とにかく、起こりうる危険を極限まで減らすためだ」
ノアの役目は調査も大事だがそれよりもアリアベルの護衛が第一だ。態度や関係性はどうであれノアはちゃんと優先順位を理解している。
アリアベルは深く聞くことをやめ、ノアの言葉を聞き入れた。
「あと、俺の名前はここでは口にするな。呼び名は、そうだな……。『スワイ』とでも呼べ」
「スワイ……。分かったわ」
アリアベルは頷いた。ノアも話が終わったのか黙ったところで気分を紛らわそうと並んでいる花壇に目をやるが、なんとも気まずい。ほとんど顔を合わせるのも移動する際の車内以外では特になかったので急に二人きりになり余計に意識をしてしまう。
少し距離を置いて二人が同じ方向に歩く。今までなら癒される一時に心を委ねていたところだが、今はどうにも落ち着けない。
「あの、スワイ? えっと……、そろそろ休み時間が終わるから教室に戻るわね」
アリアベルはノアに言い足早に教室に向かった。
この日からノアはアリアベルに言った通り誰かと一緒にいない時は必ずノアが傍に行き行動を共にした。最初は慣れない空気に落ち着かなかったが、数日経つ頃には少しの会話をするまでになってきた。
そんなある日の放課後、アリアベルは図書館で新しく借りる本を探していた。アリアベルは歴史書や古文書が好きだ。昔の偉人や世界に存在したとされる様々な種族についての史料、古い伝統が書かれた書物、現代風に書かれた小説などをよく読んでいた。
今日も数冊の本を手に取り窓際の席に座った。本を開き紙を一枚めくる。一行目を読み始めた時、後から来たノアが向かいの席から一つ空けて腰を掛けた。ノアは適当に持ってきた本を開いて眺めている。
アリアベルはノアに気付き目を向けたがすぐに本へ意識を戻す。数分、本を見つめていたがふと気になってノアの方へ視線を向けた。人間の書いた本に興味があった訳でもなく適当に流し見しているようだ。窓際の席だったため入り込んだ日の光が薄く照らす。
ノアの目に優しい光が反射して枯れ葉のような濃茶色だった瞳が赤みを増し弁柄色になっていた。その瞳にかかる長いまつ毛が妖艶としていて思わず見とれてしまう。ノアはアリアベルの視線に気づき、目が合った。慌てて目をそらし本にしがみつくがノアは視線をずっとこちらに向けている。
一層恥ずかしくなり顔の熱が上がっていくのが分かる。
「……、何読んでるんだ」
ノアがぽつりと言った。その声に鼓動が大きく跳ねる。
「え、えっとこれは、『掟の終末』っていう名前なんだけど一応恋愛小説なの。大地の妖精と獣人が恋に落ちる話よ」
意外にもノアは興味を示しているようだ。アリアベルは他にも持ってきていた本も見せた。ノアはその中で狼人間の絵が描かれた表紙の本に目が行く。絵を指でなぞった。
「あぁ、それは獣系の種族のことが書かれている本よ。他にもいろいろあって妖精や竜人、海洋獣とかあるの。ここの出版社のシリーズ本はね、他の出版でも同じ系統の本があるんだけど、特に史料の少ない種族のことが多く書かれているのよ」
「史料の少ない種族……、例えば?」
ノアが聞く。
「そうねぇ、海洋獣の彗虎(すいこ)や鳥獣の雷鳫(らいがん)とか。この前は竜人族の本も読んだわ」
アリアベルは思い出したように言い、どこか嬉しそうにしながら続けて言った。
「そう! 唯一その本にねっ、他では書かれてなかった暗黒竜のことも書かれていたのっ。説明文と一緒に挿絵も書かれてたんだけど初めて見てすごく気分が高揚したわっ」
その言葉にノアは反応する。
「へぇ。で、その竜についてはどう書かれてたんだ?」
嬉々として話していたが一度冷静になって気持ちを落ち着かせ、書かれていた内容を思い出していく。
「史料があまり残っていないこともあって、書かれている内容も短かったわ」
そしてアリアベルは読んだ内容を話した。
【暗黒竜は竜人族の中でも神の化身とも言われており、圧倒的な力に自然をも操ることができたとされている。ある地域では『千年竜』と呼ばれており、千年生きることから神の化身と言われる一説でもある。群れで行動することは無く、他の種族に対し非常に攻撃的だったとされ、冷血で残酷な種族と言われている】
これが書かれている全文だった。
内容を聞いてノアは鼻で笑った。
「ふんっ、そうか。なんとも人間らしい文じゃないか」
聞いていて気持ちの良いものでもなく、ノアは吐き捨てるように言った。
「そうね。この世界で一番非力とされているのは人間だから、それ故でしょうね。同じ人間同士で争うくらいだから」
アリアベルは笑いながら言った。 ノアはその反応に意外に思いつつ同感していた。
アリアベルは言う。
「こうだろう、とか。こうかもしれない、とか。やっぱり憶測にしか聞こえない部分もあるけど、そこからいろんな世界を想像して、いろんな存在に知って触れていって。初めて見えてくる、初めて知ることが増えていくこの感覚が私は好きなの」
ノアは黙って聞いていた。ノアは人間に興味を持つことが殆どなかった。だがアリアベルの言葉が妙に気を惹かれる。
「名前だけは所々で聞くけどそれだけだったから。何よりもあの挿絵を見れたことが嬉しかったわ。もうしかしたら実際と違う所もあるだろうけど目にすることは叶わないから、想像でもいいの。この星で生きていた全ての種族をもっともっと知りたい」
ここまで話して我に返る。
(一方的に話しちゃった。さすがに喋りすぎたかな……)
自分ばかりが話してしまったことに反省するも、後から気恥ずかしさが込み上げてくる。ノアの方を見れない。
ノアが一つ息を吐いた。アリアベルは恐る恐る目を上げる。
「そうか」
(えっ……)
ノアが笑っている。いつも何か考え込んでいて硬い表情ばかり。だが、鼻で笑った時のとは違い今の笑みは、温かみを含んだ柔らかいものだった。
初めてのことにアリアベルの心臓が大きく脈を打った。
(な、何……、私っ何考えてるの。落ち着かなきゃっ)
奇妙な感覚に困惑する。
「そろそろ車が着く時間だ、行くぞ」
頭の中が混乱しているがノアの声でなんとか平静を保つ。
「えぇっ、そうね」
急いで本を片付けて図書館を出た。
その夜。
アリアベルはベッドの中でいつものように目を閉じて眠りに就こうとするがなかなか寝付けづにいた。ノアの顔が頭から離れない。
何とか眠ろうときつく目を閉じる。やっと浅い眠りに入れたがそのまま朝が来てしまった。少々疲れが残っているが仕方なく、起き上がり支度をして学院に向かった。
車内では慣れていたはずのこの空間に若干緊張してしまっていた。
授業を受けている最中、あまり寝れていないせいで体が気怠さを感じ休み時間は庭園のベンチに座って体を休めた。アリアベルはフィリーシャとカリアーナも呼んで庭園に来ていた。そうしないとノアが傍に来ることになりますます落ち着けなくなってしまうからだ。
「アリア様、お疲れなんですかぁ? なんだか調子が悪そうに見えますねぇ」
カリアーナが心配して言った。
いつもは雑談をして会話を楽しんでいるところだが、疲労感で座ったままアリアベルは目を瞑っていた。
「気分が悪いのですか?」
顔を覗き込むフィリーシャにアリアベルは笑みを見せて大丈夫だと言った。
ある人が気になってあまり眠れなかったなんてことは恥ずかしくて言えるはずもなく、商談があって疲れが残っているだけと誤魔化して目を閉じていたが二人はアリアベルの体調を気にかけ横に座り静かにしていた。
そうして三人が休んでいる場所へ、偶然と言っていいのかマーガレットが通りかかった。
「あら、そこにいらっしゃるのはアリアベル様ですか」
声が聞こえた瞬間アリアベルは目を開き顔を上げる。
アリアベルは挨拶を交わしたが、正直今マーガレットと話をするのは気が引けていた。最近マーガレットはシリウスと仲が良くなったのか二人でいるところを見かけたり、噂を耳にしていたことがあったからだ。その上、シリウスはアリアベルとは殆ど会話を交わしていなかった。
構いもせず話しかけるマーガレットに見かねてフィリーシャが間に入った。
「マーガレット様、申し訳ございませんがアリア様は今、体調が優れない様ですので要件は後程でお願いします」
「あっ私、配慮もせずに……、申し訳ございません! 失礼しますっ」
フィリーシャの言葉にマーガレットは謝罪し、急いでその場を去っていった。
「フィーリー様、お気遣いありがとうございます」
「いいんですよ。ですがそろそろ教室に戻らなくてはいけませんね」
あっという間に時間が経ってしまっていた。三人は急いで教室に向う。午後の授業も全て終わると、アリアベルはフィリーシャと一緒に図書館へ行った。カリアーナは委員会の仕事があったため二人で行くことになった。
アリアベルはいつもの本棚で次に読む本を悩みながら探し始めた。すると後ろから同じ棚の列へと誰かが歩いてきた。
「あ、アリアベル様っ! 先程は失礼いたしました」
「マーガレット様……。いいえ、大丈夫ですよ」
アリアベルが言うとマーガレットは笑顔になった。
マーガレットの声が聞こえてフィリーシャは心配になりアリアベルから少し離れたところへ移動し、気にしない素振りで本を眺める。
それからマーガレットは本に関する小話を始めた。アリアベルは相槌を打ちつつ受け答えをしながら会話を交わす。
会話の途中でマーガレットはシリウスとのことを口にしだした。
どうやら以前会って以来意気投合したらしく、同じ系統の本を読むことから最近ではよく二人で本を読みに来ていたと嬉しそうに話した。
近くでそれとなく聞いていたフィリーシャは血の気が引くのを感じた。
(この方は、アリア様の婚約者がシリウス殿下だということを知らないの?)
不安に思ったフィリーシャがアリアベルの顔を伺う。アリアベルは無表情ではあるものの焼き付く様な空気を漂わせている。
明らかに怒りを滲ませ無理に平常を保つアリアベルを見ていられなくなりフィリーシャが間に入ろうとする。
そんなことも察しないままマーガレットは気にせず話を続けた。
「シリウス様を見かける時はいつも暗い顔をなさっていました。ですが一緒に本を読んでいる時はすごく明るい顔をなさるんです。やはり普段は何かと忙しいようなので無理をなさってるんでしょう。暗い顔をされてる時のシリウス様はなんだかお辛そうで……、少し可哀想に思えてしまうんです」
その言葉をきっかけにアリアベルの目付きが変わる。
「でも私のような下級の者がそんなこと思うのも」
「殿下はっ、この国の未来を担うお方です。国のためにも今は勉学に励み、全ての事を身に付けていかなくてはなりません。心配なさるお気持ちも分かりますがそれが今、私達のしなくてはならないことなんです」
マーガレットの言葉を遮ってアリアベルは低く、冷たい声で言った。
その言葉に対してマーガレットよりもフィリーシャの方が凍るような思いだった。間に入ろうとしたフィリーシャだがこの場をどうするべきかも分からなくなり動けなくなってしまう。
「ですが、たまには……その、少しくらい友人の方々と遊んだりするくらいの時間があっても、いいのでは……」
おどおどしながらもマーガレットは言い返した。
だが、アリアベルに対する言葉としてそれは間違いなものだった。
「少しくらい、ですか。お二人は結構な頻度で会われてるようですが、いつも楽しく過ごされているのでしょう? 私も今この時のように友人と一緒に過ごせているので殿下にとっても十分だと思いますが」
「けどっ」
マーガレットの反論に耳を傾けることもなくアリアベルは鋭い眼差しで続けた。
「それに先程も言ったように将来国を担うことになるお方が多忙なのは全て必要なことなのです。これはお遊びではないのですよっ」
アリアベルは感情的になりきつく言い放ってしまった。
「アリア様っ……」
心配になったフィリーシャの声で我に返る。言い切ってしまったことに後悔の念を抱きつつもこの気持ちを抑えきれなかった。マーガレットは肩を震わせ何か言おうとしていたが、そのまま走って図書館を出ていってしまった。
「アリア様、大丈夫ですか?」
フィリーシャが声をかけた。アリアベルは荒くなった呼吸を落ち着かせる。
「申し訳ありません、フィーリー様。せっかく一緒に来てくださったのに……」
「いいえっ、構いませんよ。今日はもう帰りましょうか」
フィリーシャは優しく笑って言った。アリアベルは気を遣わせてしまったことにも罪悪感を感じた。
図書館を出て二人は玄関へと移動している時、前方からシリウスがこちらえと歩いてきた。シリウスはアリアベルの前で立ち止まり、紳士的な笑みを浮かべて話しかけた。
「こんにちは、フィリーシャ嬢。申し訳ないんだが少しアリアベルに用があるんだ、いいかな?」
フィリーシャは嫌な予感がした。だが断るわけにもいかず、小さく返事をする。
「……分かりました。では、アリアベル様。私はお先に失礼いたします」
「えぇ、御機嫌よう」
フィリーシャが歩いていくと同時にシリウスはアリアベルを連れて近くの教室に入った。教室に入るまでの少しの間、シリウスの用が何なのか大体の予想が頭を巡った。そしてその教室の中には案の定、椅子に座る一人の女生徒、マーガレットがいた。
シリウスは戸を閉め、アリアベルの前に立つ。
「御用とはなんでしょうか」
「アリア、メグに一体何を言ったんだ。何故彼女は泣いていたんだ」
やはり用はマーガレットとの事だ。アリアベルは心を落ち着かせながらシリウスの目を見て言った。
「マーガレット様とは始め、本の話をしていたのですがその最中、シリウス殿下の事で悩んでおられる様でしたので気になさらずにと申しただけです」
「それだけで何故泣く思いをするんだ。悪気があって言ったのではないのに厳しい言葉を投げ掛けられたと申していたぞ! 何故そんなにも人を傷付ける様な事が平気で言えるんだっ!」
シリウスは声を大にしてアリアベルに怒鳴った。
アリアベルの肩が跳ね上がる。驚きと恐怖で混乱する。それでもシリウスの誤解を何とか解こうと必死に訴えた。
「私はマーガレット様を傷付けたくて言った訳ではありません! 殿下のお立場としてマーガレット様が思われている事は仕方のない事なのだと分かって欲しかっただけなのですっ」
アリアベルの言葉にシリウスは眉をひそめ睨みつけた。
「僕の立場だと? そうか……。アリアは王族だからな。そんな君と身分が違う僕が、必死になって足掻いているのを見下していたのか」
「そんなことありませんっ! 私は殿下が努力されている事を誰よりも知っています。そんな殿下のことを尊敬しておりました」
アリアベルは言う。だがシリウスは冷たい目をしたままだった。
「シリウス様っ」
その時、マーガレットがシリウスの元へと駆け寄った。シリウスの怒るところを目にしたことがないマーガレットにとっては、今のシリウスの様子に困惑しているようだ。まるで恋人のように寄り添うマーガレット。腕にそっと手を触れる。
「メグ……。大丈夫だよ」
そしてそれに返すようにシリウスは優しく言った。
「アリア。やっぱり君が言うと、皮肉にしか聞こえないな。僕と君は身分が違う、それは大きな欠点だった。毎日学院の授業とは別に、家でも専属講師との勉強にも必死だったよ。見も心も疲れ切っていた僕に一時の心休める時間を与えてくれたのはメグだったんだ。僕にとってそれは心の支えになってたんだよ」
シリウスは俯きながら言う。アリアベルは感情が押し寄せ言葉が詰まって何も言えず、ただシリウスの言葉を聞くことしかできなかった。
胸の奥が痛い。握る手に力が入り体が震える。
「君と前に図書館で居合わせた時に一緒にいた男とたまに会っているのを僕は知っていたよ。お互いの有り様で変な噂も少し立ってたけど、それでも僕は君にその事を言うことはしなかった。それなのにどうしてメグだけが冷たい言葉を受けなきゃいけないんだ。そんなこと王族だからってしていい権利はないっ」
「殿下、……私はっ」
何か言いたいのに言葉が出せない。アリアベルは黙ってしまった。
そうじゃないという否定の気持ち。
ノアのこともちゃんと話しておけばよかったという後悔の気持ち。
様々な気持ちで渦巻いて息がしづらくなる。
シリウスはマーガレットの手を取り涙の滲む目元を撫でた。
「アリア……。君との婚約を、破棄するっ」
「!?」
アリアベルは目を見開いた。急な展開に更に混乱した。それを聞いていたマーガレットも驚いているようだ。
「国王にはきちんと報告するよ。国王が認めないとしても僕はもう君とは一緒になれない。メグの優しさは僕の心の支えなんだ。彼女は僕が守る。もう手出しはさせない」
そう言い、シリウスはマーガレットの手を握りアリアベルに背を向けた。アリアベルは呼び止めるが聞く耳を持たずにそのまま二人は出ていってしまった。
一人教室に取り残され、しばらくの間放心状態になっていた。
静けさが襲った部屋の中でアリアベルは力なくその場に崩れた。怒りよりも出たのは悲しみだけ、どうして自分の気持ちには見向きもしてくれなかったのか、話す言葉にすら耳を傾けてくれなかったのか。様々な思いが疑問から悔しさに変わり、情けなさも感じて目の奥が熱い。
「おい」
静寂の中、音もなく突然に声をかけられ瞬時に振り返る。
「車、もう来てるぞ」
そこに居たのはノアだった。どれほど時間が経っていたのかも忘れていたが、とにかく今の気持ちを押し殺し平常を保つように自身に言い聞かせた。顔をそらし目元をさっと拭いて荷物を持って立ち上がる。
「すぐ行くわ」
俯いたままノアの横を足早に通り過ぎる。
「……」
ノアは何も言わず後ろに続いて歩いた。生徒が少なくなった放課後の静けさは、より少数の声がはっきりと聞こえる。もちろんアリアベル達の話も全て聞こえていた。意識しないようにはしていたが話している相手がシリウスとなると、どうしても警戒対象であるため無視できなかったのだ。
『自分にはまったく関係のない当人同士の問題』だと、そう思っていた。なのにどうしてか、アリアベルのことを少し、気にかけている自分がいた。
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