外伝17:側近衆

やあ新名内蔵助だ。今、俺は織田信長・織田信忠に仕える側近を招いての茶会を開いている。織田信長に仕える側近、堀秀政・森成利・弥助の3人と、織田信忠に仕える斎藤利治・前田玄以の2名である


「今日はようこそお越しくださいました。新名内蔵助、【初客心茶】の精神にておもてなしいたします。」


「こちらこそお招きいただき忝い。」


「某も新名殿の茶を一度、飲んでみたいと思うておりました。」


「チャノユ、ハジメテダカラ、ヨロシク。」


「内蔵助殿、お招きいただき感謝いたす。」


「世間で評判の新名殿の茶、楽しみでござる。」


俺は茶道具の他に白一色の陶器製の天目茶碗を用意した。それを見た堀秀政が・・・・


「おお、白の天目茶碗ですな、村井殿が自慢してござった。改めて見ると美しいですな。」


「左様ですか、お世辞でも嬉しゅうございます。」


「誠にどこから見ても、白一色ですな。」


「ウ、ウツクシイ。」


「さすが内蔵助殿、茶碗も優れた逸品ですな。」


「見事。」


堀秀政が白一色の天目茶碗の感想を述べたのちに森成利・弥助・利治・玄以の順で感想を述べていった。話は変わるが、信長・信忠の側近について紹介しよう


まず織田信長の側近である堀秀政は永禄8年(1565年)に13歳の若さで信長の小姓・側近として取り立てられたという。堀秀政は美貌の持ち主だったそうで、信長とは衆道の関係だったと言われている。堀秀政は何でもそつなくこなす事から、「名人久太郎」とあだ名され、織田信長から重要な仕事を任されるようになった。現在は近江国佐和山城主を務めている


次に紹介するのは同じく織田信長の側近で森成利である。父親は森可成は元は美濃国土岐氏に仕えていたが、斎藤道三に滅ぼされ、牢人し尾張で織田信長に仕えた。父である森可成・長兄の森可隆亡き後、次兄の森長可が家督を継ぎ、森成利は弟の森成隆と森長氏とともに織田信長の小姓・側近となった。森成利は美貌の持ち主で織田信長から寵愛され、衆道の関係だったと言われている。堀秀政と同じく織田信長から重要な仕事を任されるようになった。現在は近江国長浜城主を務めている


次に紹介するのは同じく織田信長の側近であり、初の外国人(黒人)の家臣である弥助である。元は宣教師の奴隷だったが、織田信長から気に入られ、側近として取り立てられた。身長は6尺(約182㎝)、力持ちでカタコトながら日本語を話せる弥助に織田信長は寵愛した。その後、弥助は外国人初の城主となり、現在は和泉国岸和田城主を務めている


さてここからは織田信忠の側近の話である。信忠の側近である斎藤利治、あの斎藤道三の末子であり、俺の最初の妻の弟、俺にとっては義弟にあたる存在である。最初は信長の側近として働き、武功を重ねていき、その後、信長の命で後継者である織田信忠の側近となり、現在にいたる。現在は摂津国尼崎城主を務めている


最後に織田信忠の側近、前田玄以について紹介しよう。若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧ともいわれている。最初は織田信長に仕え、思慮深く無私無欲の性格が信長に気に入られ、信長の命で後継者である織田信忠付きの家臣となり、現在にいたる。僧侶出身である実績を買われ、法律・外交・宗教政策の一躍を担い、【黒衣の宰相】と呼ばれるほど辣腕を振るう。現在は丹波国亀山城主を務めている


5人とも城主ではあるが、普段は信長・信忠の下に仕えているため、家臣たちが領地の経営をしている。まあ、それはさておき俺は既に沸かしていた茶釜から、お湯を柄杓で取り出し、白一色の天目茶碗に入れ清めた。その間、弥助は正座に慣れていないのか、苦しそうな表情をしていた


「弥助殿、無理をなさらず、楽にしてください。」


「カ、カタジケナイ。」


弥助は正座を解き、胡坐をかいた。そして抹茶の入った茶器から、抹茶の粉末を茶杓で掬い茶碗に入れた後、柄杓でお湯を取り出し、茶碗に注いだ。注いだ後は、茶筅でかき混ぜ、お茶が出来上がった。俺は最初の客である堀秀政に渡した


「ではお先に。」


堀秀政が最初に茶の作法に則り、茶を飲んでいった。堀秀政の作法は一寸の隙もないほど洗練されており、まさに「名人久太郎」と呼ぶにふさわしいほどである。次に森成利は洗練された作法が目に映る。茶を飲み終わった後、弥助の出番になった。弥助はぎこちないながらも茶の作法に則り、茶を飲んだ。飲み終わった後、斎藤利治に渡した。斎藤利治は堀秀政・森成利ほどではないが、洗練された作法で茶を飲んでいた。最後に前田玄以は一寸も隙もなく茶を飲んだ


「結構な御点前でござった。」


「ありがとうございます。」


茶会が終わり、世間話になった。話はやはり、これからの織田家の行く末の事である


「織田信雄亡き後、大御所様と上様は親類縁者への統制を強めておられる。」


「左様ですな、うつけではありましたが、やはり大御所様、上様の御身内の裏切りが答えたのでございましょう。」


「ウラギリヨクナイ。オレ、ダレデアルトモ、テキヲツブス。」


「弥助殿、落ち着かれよ。今は大御所様、上様にお任せするほかござらんて・・・・」


「・・・・ワカッタ。」


「やれやれ戦の世が終わり、国内にやっと太平の世が来たというのにやることがいっぱいあるのう。我等もなかなか休む機会が減ってしまうのう。」


織田信長・織田信忠に仕える側近衆はそれぞれ形は違うが己を信奉する主のために考え働く姿に俺は・・・・


「左様ですな、日ノ本だけではなく海の彼方の領地にも目を配らなければなりませんからな。公平無私の境地にて大御所様・上様に御奉公できる皆様方の存在有ればこそ、大御所様・上様も皆様方を頼りになされてございます。」


「新名殿・・・・」


「私にできることは皆様方のご苦労を癒す事にございます。いつでもお越しくだされ。新名内蔵助、【初客心茶】の精神にておもてなしいたします。」


「新名殿・・・・」


「「「「「忝い(カタジケナイ!)」」」」」


側近衆から感謝された事を感じた新名内蔵助は・・・・


「私の役目を果たしたまででございます(まぁ、側近衆を敵に回すと色々と危ないからな。今のうちに唾をつけとかないと。)」


当の新名内蔵助は織田信長・織田信忠に仕える側近衆を懐柔するために奔走したのである。もし側近衆に嫌われれば、側近の讒言により、家が没落することが歴史的にも明らかである。俺としても同じ轍は踏まないように側近衆に媚を売る必要がある。史実においても、かの千利休も石田三成ら、側近衆の讒言によって死んだのである。俺だけでなく新名家や新名屋が何とか生き残ろうと画策を続けるのであった


その後、側近衆は、公平無私の境地にて織田信長と織田信忠に仕え、その後の織田幕府の礎を築いていったのである。その後の側近衆はいうと・・・・


堀秀政は信長の側近を務め、【名人久太郎】と呼ばれるほどの博識多芸を見せた。天正18年(1590年)に37歳の若さでこの世を去る。信長は秀政の死を悼んだ


森成利は信長の側近を勤めたが信長の死後に側近の座を返上し領内の発展に尽力した。寛永7年(1630年)に領地で亡くなった。享年65歳、森成利の跡を継いだのは嫡男の森成次である


弥助は信長の側近として働き、後に外国人初の城主となったが、経営は家臣たちに任せている。信長亡き後、引き続き信忠の側近として働き、大坂で死去した。享年は不明


斎藤利治は斎藤道三の末子で織田信長・織田信忠に仕え、絶大な信頼を得た。更に新名内蔵助の義弟であり、交流が深い。慶長11年(1606年)に大坂にて病没する。享年65歳


前田玄以は織田信長・織田信忠2代に仕え、後継者である織田信武の相談役として活躍し、慶長7年(1602年)に、大坂屋敷にての生涯を閉じた。享年63歳


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