外伝8:徳川家康(下)
それから歳月が流れ、長年の宿敵であった武田が滅び、ワシは信長公から安土で宴の席に招かれた。ワシは信長公の誘いを受け、少数の家臣と共に安土へ向かった。ワシは信長公の接待を受けていたが、ある問題が起きた
「光秀!なぜ京の料理を出した!」
「申し訳ございません!」
どうやら接待に出した膳が全部、京風の料理だと言う。京風の御膳は薄味で、信長公は水っぽくて食えないのだと言う
「織田殿、どうかお怒りをお沈めください!京風の膳もなかなか風流でござるぞ。」
ワシは気を利かせて、信長を宥めた。せっかく宴を台無しにしたくないという思いから信長公も怒りを収めた
「あい済まぬ。」
「いいえ、某は田舎者にて。」
「はぁ~、光秀、もう良い。」
「ははっ。」
明智はトボトボと席を後にした。明智もよかれと思ってやったのだろう、ワシは京風の膳を食べてみたが、やはり味が薄い。田舎育ちのワシには物足りなかった
その後、信長公より堺への見物を勧められ、ワシは堺へ向かった。堺で見物している途中、何と、明智光秀が謀反を起こした。思い返せば、信長公は明智に対する仕打ちを考えれば、殺されもおかしくはないと思い、ワシは三河へ帰ることにした。三河へ帰る道中、ある知らせが届いた
「何!信長殿が御存命だと!」
「はい、信長公は信忠公と共に京を脱出され、安土に到着し、逆賊である明智光秀を征伐されましてございます!」
その知らせを聞いたワシはある決心をした
「皆の者、ワシは信長殿、いや上様に臣従することにした。」
「「「「「殿」」」」」」
ワシは三河に帰った後に、信長公に臣従した。その後、信長公は天下を統一された。ワシは三カ国の太守として徳川家を残し、長松を徳川秀忠と名付け、その地位を盤石の物とした。だが信長公はワシを昔のようには見てくだされなかった。信長公が隠居され、信忠公が跡を継いだ。ワシは挨拶がてら、信忠公に秀忠の嫁探しを願い出たがとんでもない返答が返ってきた
「秀忠に嫁を?」
「ははっ!」
「断る。」
「それは何ゆえに・・・・」
「徳の二の舞は御免じゃからな。」
「な、何と。」
「徳から聞いておるぞ、信康の事も、お主の正室である築山殿の事も。それにお主の事を世間では【三河の妻子殺し】【日ノ本の袁紹・劉表】と陰口を叩かれておる。そのような者に嫁の世話はできんな。」
ワシが行った瀬名と信康の処置は世間からは快く思われていなかった。ワシは今になって後悔した
「殿、申し訳ございません。」
その噂を聞いたのか酒井忠次はワシへの詫び状を残し、屋敷にて自害した
「忠次、何も死ぬことなかろうに・・・・」
そこからのワシは苦労の連続だった。織田家の人質として出した双子の一人である於義丸(結城秀康)は信長公に気に入られ、養子に迎えられた。於義丸は自ら津田信康と名乗った。ワシが自害に追い込んだ兄の名である信康を名乗ったのだ、明らかにワシへの当て付けとしか思えなかった。そんな津田信康も今では伊予国36万6千石の太守である。津田信康はワシを父とは思わず、会っても・・・・
「おお、於義よ。」
「これはこれは三河殿、ご機嫌麗しゅう。」
「他人行儀はよせ。我等は身内ぞ。」
「某の身内は織田信長公・信忠公、実の母と異母兄、松平信康殿だけでござる。では、此にて。」
「於義!ここまで育てた恩を忘れたか!」
「・・・・三河殿に言われとうございません。」
「何だと!」
「三河殿はかつて大恩ある今川家を見限り、織田と同盟を結んだと聞き申した。そのような御方に言われたくはございません。」
「くっ!」
「・・・・ご無礼いたしました。では此れにて。」
「待て!待つのだ!」
ワシは呼び止めたが、津田信康は無視していった。今にして思えばあの時、親子だと認めていれば良かったと後悔している。秀忠の嫁選びも難航を極めた。ワシの悪評が大名たちの間にも轟き、辞退する大名が続出した。結局、秀忠の嫁は成り上がりの小大名(数万石)から取ることで話がついたが、今度は息子たちと娘たちの婚約がありまだまだやることがいっぱいあった
「また普請か。」
「・・・・御意。」
ワシの下にまた普請の命がくだった。城普請・道普請に徳川は駆り出され、財政がひっ迫し、質素倹約や半知借上(はんちかりあげ)や殖産興業等を行った。家臣たちの中には、これ以上、我慢が出来ず、徳川を去り、他家に仕える者たちが続出した。ワシはそれを防ぐために、奉公構(ほうこうかまい)を行った。大名が、罪を犯して改易された家臣、または主人の不興を買って(暇を請わずに勝手に)出奔した家臣について、他家がこれを召し抱えないように釘を刺す回状を出すことである。だが、これがかえって徳川の評判を悪くした
「けっ!徳川はケチだと聞いたが、ここまでするかね。」
「牢人になった家臣たちが気の毒だよ。」
「んだんだ。」
「やはり三河の妻子殺しのすることは卑劣じゃのう。」
やること成すこと裏目に出た徳川家に仕官する者はおらず、徳川の名声が益々、地に堕ちていく一方だった。やはりワシが行った事が今になって帰ってきたのである
「はあ~。」
ワシは馬に乗ってとぼとぼと大坂を散策していると、民衆はワシの顔を見るなり小声でヒソヒソと話していた
「あれが三河の妻子殺しだぜ、ふてえ野郎だ。」
「実の妻と子を殺した蛇野郎がよくもまあ、堂々としてるぜ。」
「質素倹約なんて嘘で、きっと贅沢三昧の暮らしをしてるぜ。」
小声でも言っても分かるほどワシは民衆にも嫌われているようだ。ワシは憂鬱な気持ちで散策中、ふとある屋敷に止まった。そこは信長公お気に入りの御伽衆である新名内蔵助の屋敷だった。新名内蔵助といえば、かつて離縁した妻との間にできた息子に命を狙われたが、内蔵助は息子たちの助命嘆願をしたという。ワシはこの男にワシの愚痴を聞いてほしかった
「これはこれは徳川様、当家に何用でしょうか?」
「ううむ、新名殿に用事があるのじゃが・・・・」
「分かりました。では我が屋敷へ。」
屋敷に入り、新名内蔵助に茶室を案内された。そこで新名内蔵助は茶を点てていた。ワシは新名殿の息子の事を聞いた
「新名殿は、倅に殺されそうになったのにも関わらず命を助けたと聞いたのだが・・・・」
「え、ええ。全て、私の身から出た錆にございます。」
「ワシには信康という倅がおった。」
「聞いております。」
「・・・・せめて信康だけは出家させれば良かったのかのう。」
「畏れながら、後悔しても、もう遅そうございます。是非もなしという事にございます。」
「是非もなし・・・・か。」
「さて茶ができました、どうぞ。」
「・・・・忝い。」
ワシは新名内蔵助が用意した茶を一気に飲んだ。ワシは悪行を全て受け入れることにした。ワシは茶を飲んだ後、礼を述べ、屋敷を後にした
「こうなればどこまでも生きて生きて、ワシの役目を果たすまでよ。」
その後、徳川家康は長生きし、元和2年(1616年)に亡くなった。遺骸は駿府の久能山にて埋葬されたが、その葬式は非常に簡素で訪れる人は少なかったという
徳川家康の死後、跡を継いだ徳川秀忠は優れた政治手腕を発揮したが、世継問題「嫡男である徳川家光と次男の徳川忠長の対立、家光派と忠長派の対立、秀忠は病弱な家光よりも利発な忠長を寵愛等」で失敗し、大坂幕府の介入を受け、3カ国【三河国・遠江国・駿河国(69万5千石)】を没収され、信濃国川中島4郡【高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡(10万石)】へ国替えとなり、徳川秀忠は隠居謹慎、徳川家光と徳川忠長が流罪となった。秀忠の跡を継いだ徳川正之(家光と忠長の異母弟)は父譲りの政治手腕を発揮し、徳川の家名を守り続け、現代まで徳川家の血脈が続いている
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