第2話 武蔵野を描いた『波の塔』


 

 諏訪の竪穴住居という言葉が受話器から聞こえて来たとき、冒頭の花梨漬けと合わせて長編小説『波の塔』のことを指していらっしゃるのだと諒子は直感したが、その手の迎合ないしは追従を好まれないような気がしたので、軽い相槌に留めておいた。


 どういう脳の仕掛けか、その代わりに、土地を入れ替えるようにして引き出されて来たのは、くだんの推理小説の重要な舞台に設定されている武蔵野の深大寺だった。


      🍃

 

 ――深大寺付近はいたるところが湧き水である。それは土と落葉の中から滲みでるものであり、草の間を流れ、狭い傾斜では小さな落ち水となり、人家のそばではかけひの水となり、溜め水となり、粗い石でたたんだ水門から出たりする。歩いていて、林の中では絶えずどこかで、ごぼごぼという水のこぼれる音が聞こえてくるのである。


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 美しい描写に導かれて登場する深大寺蕎麦なるものをまだ食したことがなかった。

 蕎麦といえば、言わずと知れた信州が本場だが、ひょっとして、深大寺周辺の土地も米作の不適がゆえに蕎麦が主食になったのだろうか……そんなことも考えていた。


 それに、物語の後半で、汚職事件の担当検事と容疑者の妻という抜き差しならない関係に陥る男女が、何とはなしの不安に怯えつつ再訪した夜の記述もよみがえった。


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 ――森の下は暗かった。境内をはずれてから道は湿っていた。湧き水がたえず道をぬらしているのだった。水の音がいたるところで聞こえた。葦簀よしずをおおって閉めた小さな茶店の前を通った。ここにもすぐ足もとで水のこぼれる音がした。林はくらかったが、月の光がを径に落としていた。

 

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 妙に人懐こい感じの作家の声は、それからずっと、何十年も、諒子の耳朶の片隅を占めており、日頃は忘れていても、ひょっとしたときチラチラ顔を覗かせたがった。


 武蔵野の地を逍遥し、人目を忍ぶ小野木と頼子のあとを辿って深大寺蕎麦を食べてみたいと思いながら、経済的にも時間的にも心理面でも余裕がないまま時が過ぎた。


 そのうちに松本清張さん自身が逝去され、のちに、出生地であり、第28回芥川賞を受賞された『或る「小倉日記」伝』(そういえば文壇デビューは純文学でいらしたのだ!)の舞台でもある北九州市の小倉に記念館が開設されたことを報道で知った。


 だが、相変わらず仕事と生活に追われっぱなしの諒子は、1日として余裕がなく、同じく清張ファンの新聞記者の旧友の、多忙をやり繰りして、畏敬してやまない作家の足跡を丹念に辿って来たという熱い報告を、うなずいて聞いているばかりだった。

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