嵐の夜
健司に肩を抱かれたまま、美紀は廊下に出た。
「あの」
小さく声をあげる。健司の体温を感じているのは決して嫌ではない。だが、胸が騒いでしまう。
会話の流れから見て、健司は各務に対してのジョークでやっていることだ。
紳士の健司にしては、こんなセクハラすれすれなジョークは珍しいけれど。
「ごめん」
健司は腕を外す。顔が若干赤い。
「各務のおっさんに変なこと言われて、つい調子に乗った。すまなかった」
「大丈夫ですよ」
美紀は微笑み返す。健司の真面目さが胸を刺す。そんなに真剣に謝られるとかえって、本気じゃないということを強調されているようで、美紀としては辛い。
自分だけでなく、他の女性でも同じようにするのだろうか。そう思うと、胸が痛い。
「それより、宿を探しましょう。もう時間的に遅いですから、なかなか厳しいものがあると思いますけれど」
「……そうだな」
遅い時間で予約もない客はなかなか受け入れてもらえない。
「俺一人なら、カプセルホテルとかネットカフェでいいんだがなあ」
「草野さんはゆっくり休養しないとダメです。いざという時、困りますから」
美紀は携帯を取り出した。
「いや、休まなきゃいけないのは、俺だけじゃないだろ?」
美紀は答えずにネットを検索していく。
「この近辺から少し動いた方がありそうですね」
「俺の実家もあるんだが、そんなに広くないしなあ」
「草野さんはこちらのご出身ですものね」
「まあな。でも、実家ではゆっくり休めそうにない」
健司は大きくため息をついた。
「まず、八坂に迷惑がかかりそうだ」
「どういうことですか?」
「ええと。俺も三十歳だから。その、いろいろ言われている。見合いしろとかね」
健司は苦虫を噛んだように顔を歪める。
「寝に帰るだけだって言っても、すぐ寝かせてもらえそうにない」
「草野さんのご家族なら、そうでしょうね」
美紀は頷いた。
四六時中仕事をしている健司である。実家に帰ることもあまりないのだろう。
健司の親族は熱田神宮の社人が多いと聞いている。健司は幼いころから、熱田の宮に出入りしていた。それだからこそ、神に選ばれたのだろう。
「あ、ありました。金山のビジネスホテルが取れました」
「金山か。そんなに遠くないな」
健司は頷いた。
金山は名古屋では名古屋駅に次ぐ総合駅である。熱田神宮から金山はそれほど遠くない。
外に出ると雨粒が当たった。
「あれ? 雨か」
「本当ですね」
この時期だと夕立かもしれない。少々時間が遅いけれど。
「タクシーを使おう」
「ええ」
泊まるホテルは駅から五分。歩く距離はたいしたことないけれど、あまり雨にぬれたくはない。
ここからタクシーで行っても大した距離ではない。
雨粒がしだいに大きくなり始めた。
タクシーを拾ったのは正解だった。
雨は本降りとなり、雷鳴がとどろき始めた。
ホテルの玄関に横づけしてもらったにもかかわらず、斜めに降る雨のせいでかなり濡れる。
一階のラウンジのカフェは既に閉店していたので、二人はそのままチェックインをすることにした。
部屋は七階で、ならんで二部屋。バストイレ付ではあるが、ベッドとテレビ台の他に申し訳程度の机があるだけの部屋である。
美紀は健司と別れると、部屋に置いてあったカップ麺を食べた。通常価格の二倍はするが、それは仕方ない。
こんなことなら支部で弁当を食べてこればよかったとは思うが、今さらである。
健司はルームサービスをとると言っていた。
外は激しい雨が降っている。
──そういえば、自販機があったわ。
お風呂に入る前に飲み物を買っておこうと、美紀は小銭をもって外に出た。
エレベーターホールの隣にある自販機コーナーには、ジュースの他にカップ麺とお菓子が置いてあり、氷のサービスもあった。
──とはいえ、アルコールを飲むわけにはいかないわね。
実際のところ、神崎が見つかれば夜中でも連絡は来るだろう。いくら『声を掛けるな』と言っていたとしても、それは無理だ。これは仕事なのだから。
お茶を買って、自販機コーナーを出ようとした美紀は、突然激しい頭痛に襲われた。
──何?
あまりのことに美紀は頭を抱えたまま膝をつく。
──これは、神崎?
相田の部屋に置いてある符から流れ込んできている。いや、流れ込んでいるのではない。
神崎はわざと符に気を流している。美紀の符とわかっていて、美紀を攻撃しているのだ。
──符を、結界を張って、気を遮断しなくては。
美紀は這うようにして、廊下を戻り扉の前で倒れこむ。たかが自販機までの距離と侮った。符がなければ、美紀はあまりにも無力だ。
「符を」
健司の部屋の扉に手にしたペットボトルがコツンと音を立てる。
「符を……うた……なきゃ」
必死でドアノブに手を伸ばしたが、美紀はそれ以上動けなかった。
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