踏み出せないその足は。

猫寝

第1話

 歩く、とはなんと野蛮な行為なんだろう。

「キミ、まだ歩いてるの?」 

 そんな言葉が飛び交って流行語になったのは、今から40年前だと言う。

 僕が生まれた時にはもう歩くという風習は廃れていて、座ったままどこへでも移動できる座動機が一人に一台与えられるのが当たり前だった。

 昔はほとんどの人がリースやレンタルで使っていたらしいが、座動機の購入に補助金が出るようになったのは、25年前。

 僕の産まれる少し前だ。

 今では、マイ座動機を持つのが常識で、座動機にいかに個性を出していくのかが最重要ファッションになっている。

 座動機は歩くよりも格段に速いし、センサーで衝突も避けてくれるし、転ばないようにバランス制御もしてくれる。

 座動機の普及とともに、バリアフリーの欠片もない「階段」とか言う原始的な段差は消え去ったので移動に困ることはない。

 昔のドラマなどを見ると、階段から落ちて怪我したり、階段から落とす殺人事件があったり、なぜあんな恐怖と危険の塊のようなものを昔の人が使っていたのか不思議で仕方ない。

 座動機万々歳だ。



 ある日の朝、通っている大学へ向かう途中で、大学の周りを走っている人を見かけた。

 ユニフォームを着ている事からも、大学の陸上部だとわかる。

 世界的に座動機が常識の世界になっても、陸上競技がこの世から消えることはない。

 歩くという行為は野蛮ではあるが、陸上競技はスポーツなので話は別だ。

 ボクシングやプロレスはそういう競技だから問題ないが、街中で殴ったり人をぶん投げたりしたらこれは暴力、陸上も同じことだ。

 なので、競技としてフォームを整えて走っている姿はそれはそれで美しいと思う。

 特に――――あの子は。

 この大学ではちょっとした有名人の彼女は、日本陸上界の期待の星、らしい。

 競技の実力はもちろんのこと、その見目麗しい外見と綺麗な走り方は、どうしたって他人の視線を引き付ける。

 当然、この僕の視線と心も、だ。

 けれど、彼女の隣を座動機で走るのは何か違うのではないかと思ってしまう自分が居る。

 今この時代に、あえて走ることを選択している彼女の孤高さこそが、美しいのだ。

 座動機でその隣を走るのは、その美しさを壊してしまいそうで少し怖い。

 だから、僕は見ているだけでいい。

 見ているだけで、幸せなんだ。


 

 少し小雨が降る肌寒い日に、雨を切り裂くように走っている彼女を見かけた。

 座動機には雨天時用の屋根が収納されていて、ボタン一つで展開・収納が可能なので、雨に濡れながら移動する、と言う感覚はほぼ記憶にない。

 だからこそ、雨を浴びながら走っている彼女に距離を感じてしまう。

 しかし―――彼女がふと立ち止まった瞬間、座動機で近づく人間が居るのがわかった。

 若い男のようだったが、彼は意を決したように彼女に話しかけ、傘を手渡した。

 彼女がそれを断ると、男は悲しそうに去って行った。

 まあ、よくある光景だ。

 彼女ほどの美しい花には、密に吸い寄せられる蜂のように言い寄ってくる男も多い。

 そんな数多くの男の一人が、今日もまた恋に破れた。

 それだけの話だ。

 そう思っていた。その時は――――



 数週間後、何がそんなに悲しいのか、空は今日も泣いていた。

 そして、濡れながら走る美しい彼女――――けれど今日は、いつもと違っていた。

 隣を、男が走っていた。

 あの時の彼だ。傘を断られた彼が、同じように濡れながら隣を走っていた。

 座動機ではなく、自らの足で。

 座動機が普及したこの世界でも、いざと言う時に立って走れないのでは危機を回避できない可能性がある。

 ゆえに座動機には足の筋肉を維持するための筋トレ機能も付いているし、学校や会社の朝礼には、軽い運動として「歩行の時間」が設けられていることが多い。

 それでも、本格的に陸上をやっている彼女の隣をすぐに走れるかと言われれば、そんな訳はない。

 実際に、彼は少しずつ遅れ始め、すぐに彼女に距離を離されていった。

 ふらふらとよろけながら道にへたり込む彼の様子はとても滑稽であったけれど―――――それでも、伝わってきた。

 彼が、本気で彼女の隣に並ぼうとしている、その想いが……。



 それからの日々は、彼女を見かけるたびに、彼も見かけた。

 隣を走っていることもあれば、相変わらずついていけずに倒れ込んでる時もあったし、2人で休憩中にドリンクを飲みながら談笑している時もあった。

 なにより、僕の心に刃先を押し付けるような痛みを与えたのは……彼女が、以前よりもずっと楽しそうな笑顔を見せているという現実だった。



 数か月も経つ頃には、彼はすっかり彼女の隣に並んで走れるようになっていた。

 もちろん、本当のレースなら彼女が圧勝するだろう。

 けれど、練習で軽く流す程度の時は、隣で会話しながら走れるくらいに彼は成長していた。

 もう、疑い様も無かった。

 2人が、特別な関係になっているのは。

 走っている時以外でも、彼は常に彼女の隣にいた。

 自分の足で、隣に立っていた。

 彼は、彼女と一緒にいるために座動機を捨てたのだ。

 2人で並び立つために、快適さを捨てたのだ。

 今この世界において、それがどれだけのことなのか、わからない人間は居ない。

 その本気を感じたからこそ、彼女もその想いに応えたのだろう。


 その間、僕が何をしていたかと言えば―――――何もしていなかった。

 ただ、この座動機の上から、彼女を見ていた。

 彼女と彼が仲良くなっていくのを、何もできずに見つめていた。



 ああ、僕は―――――踏み出せなかった。

 最初の一歩さえ、踏み出すことが出来ずに、座ったまま、眺めていた。


 踏み出すための足は、確かにそこにあるのに。


 そっと、足を地面に着けてみた。

 足の裏に広がる硬い感触に、僕は――――怯えたように、足を座動機の上に戻した。


 僕は今日も―――踏み出すことなく、この世界を生きていく。


「座ったままで何でも出来るのに、どうして自分の足を動かす必要があるんだい?」


 歩くことを、動くことを、行動することを野蛮だと笑いながら、それでもいつか、一歩を踏み出す日が来るのだろうか……なんて、自虐的に笑いながら。


この平凡な日々を、今日も生きている。

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踏み出せないその足は。 猫寝 @byousin

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