「さて、どうかな、マシュー?」

 最初の紳士、マークが、今度は自然に笑いながら二番目の紳士、マシューに訊ねる。

 最初の紳士は、今日は紳士らしく三つ揃いにしているものの、それでも生地はベージュのヘリンボーンツィードにし、緩く糊付されたワイドスプレッドカラーの隙間から伸びるのはウールニットタイ、靴はウィングチップのコンビと崩している。

 最近、英国のウィンザー公がそんな服装をしていたのが雑誌に載っていたので、それを真似たのかも知れない。


「何故僕が最初なんだい?これは君の提案だろう、マーク?」

 二番目の紳士は抗議の声を上げる。

 二番目の紳士は前回同様、街着の中では礼装に近い服装をしている。

 ミッドナイトブルーのウステッドを検襟にし、共生地のダブルブレステッドベストのポケットからは懐中時計に繋がれた銀の鎖とチャームが覗く。そこに白く硬い丸襟にミントグリーンストライプのシャツと紺地にペイズリーのタイがカジュアルダウンしている事を示すが、それでも靴は黒いオックスフォードのパンチドキャップトゥにし硬さを譲らない。


「これもコイントスの結果さ。賽は投げられたのだから、後はその出目に従いたまえよ、マシュー」

 そう言ってマークは50セントハーフダラーコインを振り仰ぐと、それを指で弾いてマシューに投げ渡す。

「全く。運命の女神フォーチュナーには前髪しか無い事を後悔するんだな」

 コインを受け取ったマシューはそう言うと、懐からメモ用紙を取出す。

「どうせ次は俺が最初さ、マシュー」

「黙って聞きたまえ、マーク。『太初世界は言葉であった』、今からその『言葉』を始めるのだから」


「この絵、我等が立派な紳士二名は『何者にもなりたくない』のさ」

「『何者にもなりたくない』だって」

「そう。『何者」にも成りたくないし、成るつもりも無い。今からそれを話すから、静かに聞きたまえ」

 そう言うとマシューは話を始めた。

 その話とは、次の様であった。



 彼、ダニエル・コートマンが漸く今日着ていくシャツを決めた時には、着替えようと思ってから大分時間が経っていた。

 午後のコーヒーはクラブハウスで喫もうと思っていたが、今から自慢の直8エンジンで時速80マイルで飛ばしても随分と間抜けな時間にしか着かなそうなので、先に家で済ませる事にし、その旨を召使いのボーイ・ルイスに告げる。

「了解でさぁ、坊ちゃん」

 ボーイ・ルイスはそう言うと人懐っこい笑顔で会釈をして、燕尾服のお仕着せに付いた金ボタンをキラキラ踊らせながら部屋を出て行った。

 彼はダニエルが生まれる前からの黒人の使用人で、南北戦争の後一家共々解放奴隷となったが、義務教育の年齢は過ぎていた事もあり、そのままコートマン家に務めて続け、ダニエルがニューヨークシティに移ったときに一緒に着いてきた。

 そのせいか、ダニエルが長じてからも未だに彼を「坊ちゃん」と呼ぶが、ダニエル本人もそれを悪く思っていない為か、特に直す事もしなかった。


 ボーイ・ルイスが出て行くとダニエルはクローゼットの棚から今日着ていくことにした白地にキャメルイエローの縞が入ったブロードのシャツを取出し、さっとベッドの上に広げる。

 畳まれたシャツはふわりと広がり、滑らかに輝いた。

 サヴィルロウまで買い付けに行かせた生地をこちらのシャツやに仕立てさせたものである。

 その後、隣の棚にある襟置き場から糊で固められた高い丸襟を取出し、その手前にある箱から留め用金具スタッズを取出し、襟を左腕に掛けるとタイを選ぶ。

 タイはペイズリーの小紋にし、左腕に掛けた襟に通すと、それごとシャツの襟にスタッズで止める。いつもの事とはいえ、糊でガチガチになった襟にタイを挟んだり、首の真後ろに有るボタン穴にスタッズを通すのに多少苦労した。


「コーヒーをお持ちいたしやした、坊ちゃん」

 シャツを羽織り、前立てのボタンを留めて絹糸で刺繍が施されたサスペンダーを上げたところでちょうどボーイ・ルイスが入って来る。

「ああ、ありがとう」

「お安い御用で、坊ちゃん」

 ボーイ・ルイスはダニエルに人懐っこい笑顔で返答すると、持ってきた銀製の盆ごとコーヒーポットとカップ、クッチーの乗った皿をテーブルの上に置き、ポットからコーヒーを注ぐ。

 香ばしいコーヒーの香りが湯気と共に広がる。


「ああ、そうだ、ルイス」

 ダニエルはそう声を掛ける。

「ちょうど良いタイミングなので、喉元のスタッズとカフリンクスを留めるのを手伝ってくれないか?」

 ダニエルはそう言うと、ボーイ・ルイスの方に向き直り、シャツの袖口カフスを開いたまま、摘んだチェーン式のカフリンクスを振ってみせる。

「へへ。お安い御用でさぁ、坊ちゃん」

 ボーイ・ルイスはポットを置くと、ダニエルの方に近づき、カフリンクスを受け取ると、ダニエルが差出す袖口に片面を通し、留める。

 ダニエルは南部出身ではあるが、黒人に触れられそうになる事に然程抵抗は無い様子である。

「最近はトグル式やスナップ式のもあるようごぜぇますが、その辺りはお使いにならないんで?」

 カフリンクスを通したボーイ・ルイスはそのまま手をダニエルの喉元に持って行くと、そう言いながらシャツの襟と台襟を交互に喉元のスタッズで通し、スタッズの頭を曲げて留めた。

 留めるとき、パチリと小さな音がする。


「スナップ式はどうにも外れ易そうで苦手だな」

 ダニエルは顎を上げ、天井に向かいながらそう告げる。

「それに、あれは分厚くてね」

 ダニエルがそう言う間にも、ボーイ・ルイスは何も言われずにタイまで絞め、タイバーとベストをダニエルに差出す。

 ダニエルはそれらを何も言わずに受け取ると、バーを留め、ベストを羽織り、ボタンを留めていく。


「ささ、坊ちゃん。呑み易くなってまさぁ」

 ボーイ・ルイスは先程いれたコーヒーをダニエルに差出す。

「ああ、ありがとう」

 ダニエルはそれを受け取ると、一人用ソファに腰掛け、一口喫む。

「うん。これだな」

 そう独りごちると、カップをサイドチェスとに置き、ボーイ・ルイスに手を差出す。

「新聞か雑誌、あるかね?」

「へい、『フォーブス』と『コリアーズ』がごぜぇますが、どちらにいたしやしょう、坊ちゃん?」

 ボーイ・ルイスはクッキーの用意をしながら確認する。

「ん、では『コリナーズ』を」

「へい、少々お待ちを、坊ちゃん」

 そう言ってボーイ・ルイスはラズベリージャムを添えたクッキーの皿をサイドチェストに給仕すると、『コリナーズ』を持ってきてダニエルに渡した。

 ダニエルはもう一口コーヒーを喫んでからそれを受け取ると、そのまま目次を確認し、目に留まった幻想譚のタイトルをみると、そこまでページを飛ばして読み始めた。

 ボーイ・ルイスはそれを確認すると、何も言わずに部屋を出て行った。


 小一時間程して、ダニエルはより日が傾き始めた事に気が付くと、部屋の隅にあるボタンを押す。

「御用命は何でごぜぇましょう、坊ちゃん?」

 すると、一分もせずにボーイ・ルイスが部屋の入り口までやって来る。

「車の用意を」

 ダニエルはジャケットを羽織りながらボーイ・ルイスに告げる。

「もう、いつでも出られやす、坊ちゃん」

「ん」

 ダニエルは、それだけ返すと、部屋を出て表玄関に向かう。

 良く磨かれた廊下を伝い、大階段を廻って、玄関ホールに敷き詰められた大理石をカツカツと歩きながら玄関脇にいる使用人からトレンチコートを羽織らせてもらうと、そのままボタンも留めずにベルトだけ絞めて、既にエンジンが暖められたクーペに乗り込む。

 ダニエルは数回スロットルペダルを踏んで空吹かしさせてから水温計と燃料計、アイドリングが安定しているのを確かめると、ギアをローに入れ走り出す。

 暫く街中を走り、カントリーサイドに向けたフリーウェイに乗ると、そのままギアをセカンドに入れ、けたたましい排気音エグゾーストノートを上げると、夕暮れの中の風となった。


 ○


「と、どうだい、マーク?こんな感じは?」

 マシューはそう言うと、メモ用紙から目を離し、マークに視線を向ける。

「どうだい、だって?」

 マークは大きく肩を竦める。

「どうだいも、何も、ただ一人の男が身支度を整えて車に乗っただけで、まだ全く何も始まっていないじゃないか」

 そう言うと立ち上がり、最初の絵のキューを持つ紳士を指差す。

「それどころか、もう一人の紳士は出てきすらいないじゃないか」

 その指摘を受けるも、マシューは座ったまま肩を竦めて涼しい顔をしている。

「それは、君が考える余地を残しておいたのさ。敢えてね」

 そこでふと、マシューは左上を見つめる。

「それに『何も始まってない』なんて、『何者にもなりたくない』彼等にぴったりじゃないか」

 どこか嬉しそうである。


「ふん」

 マークは軽く鼻を鳴らすと、再びソファに腰掛ける。

「まったく、これだからショーペンハウアーとかを読んでいるヤツは」

 腰を下ろした勢いのまま、ため息のように言葉を漏らすが、マシューの耳には入っていた。

「寧ろ、僕が好きなのは、エマヌエル・カントやデカルトの方だよ?」

 そして、心外だ、とばかりに大仰に驚いてみせる。

「君のようなのは、哲学よりも先にボートやポロをやり給えよ。『健全な精神は健全な肉体に宿る』さ。『健全な哲学』とは何かを見せてあげよう」

 マークはそう言うと、ソファ横のチェスト上にあるフォルダを取り、もったいぶってタイプ打ちのレター用紙の束を取出す。

「ユウェナリスの『風刺詩集』かい?」

「君はハーヴァードで『皮肉学』でも専攻したいのかい?」

 マークはマシューの言葉にはさして留められず、レター用紙に目を落とした。

「まあ、先ずはご清聴あれ、さ」

 そう言って一つ咳払いをする。


「これは、代々寒冷な気候に鍛えられ、灼熱の厳しい環境の中で磨かれた男の肉体と精神の話さ」

「ん?『進化人類学』の話かい?」

 マークの口上にマシューが疑義を挟むが、マークは気にせず、そのまま続ける。

「まあ、先ずは聞きたまよ」



 ここはペンシルヴェニアの無煙炭田、標高数百フィートの鉱山の表面から地下へ軽く1マイルは潜った灼熱と暗闇の世界。

 巨大な蒸気釜と圧力装置、酸素を送る蒸気機関にこれまた巨大な車輪やそれに組み合わされた滑車が幾重にも層をなしてはエレベーターを、コンベアーを、トロッコを、人も土塊も貴金属も運び、それらが釜の蒸気を1オンスも無駄にすまいと24時間稼働し続ける巨大複合機械。

 あちこちでバルブから蒸気が漏れ、或は歯車がひしめき、メーターが廻る。


 そして、トロッコから運ばれた土塊は、そのまま精製され、ダボ山と石炭、即ち黒いダイヤを吐き出し続ける。


 ここで掘られる無煙炭はこの鉱山街に張り巡らされた簡易鉄道と運河を通じて全米各地オールオーバーステイツに運ばれ、蒸気機関に、開拓に、発電所に、そして家々のストーヴやオーヴンを暖める為に使われる。

 そして、そこで作られた電気が、エネルギーが、人々の活力が、再びこの合衆国全体を輝き照らす。


 そんな冨と危険の奈落の奥底から、1台のエレベーターがもの凄い速度で引き揚げられてくる。

 その籠の中に灼熱と暗黒の中で戦う屈強な男達を乗せて。

 もしエレベーターの操縦者がタイミングを一つでも間違えれば、そこに乗る一個小隊は全員がすぐさま挽肉になってしまう程、滑車はワイヤーを勢い良く巻き上げる。

 操縦者は、しかし、操作を過つ事なく、適切なタイミングでクラッチを抜き、ブレーキを掛ける。

 耐熱陶器で挟まれた金属ワイヤーが火花を上げ、暗闇の中で待ち構えるスプリングやダンパーを照らし出す。

 急激な減速が籠の中に強烈な慣性負荷をかけるが、中の男達は泰然としている。

 既に、行きの時点で自由落下に近い負荷に耐えているのだから、当然である。


 棺桶と紙一重の昇降機の箱が行きよい良くタラップに近づく。

 火花を上げたワイヤーは赤く光、籠のダンパーが昇降装置のサスペンションに辺り、大きくスプリングが縮む。

 急激に圧縮された事で熱を持ったダンパーオイルによって膨張した空気がバルブを通じて排出され、プシュと大きな音を立て、その後、クラッチを抜かれた昇降機の滑車の動力シャフトが空転する音が引いて行く。


 チン


 安全装置によってロックされ、籠の扉が開く準備が整ったベルが鳴る。


 プシュー


 扉内の圧縮蒸気が抜かれ、白い冷えた蒸気と共に扉が解放される。


 そこから現れるのは、鍛え抜かれ、美しく汚れた屈強な男達。

 鶴嘴とヘルメット、ジーンズで武装した現代の戦士達。


 彼等は蒸気の鳴物に迎えられ、堂々と地上に繋がる通路に出て来る。

 その顔は自身に満ちていた。

 彼等が出て来る横では幾つもレンズが付いたルーペを額に着けた地質学者がサンプル用の鉱石を砕き、獲物を鑑定する。


「これは上等だ……」

 思わず嘆息の声を漏らす。

「当然だろう?俺たちが採ってきたんだからな」

 戦士達の中でもリーダー格の男が当たり前のように告げ、通路の先に見栄を切る。

 通路の先には縞ズボンに三つ揃い、山高帽を被った恰幅のいい男が立っていた。

 その上等な服を着た男は地質学者から渡されたデータを見ると、満足したように頷き、暗闇から生還した戦士達に顔を向け、軽く会釈する。

 戦士達はその会釈を見ると、通路の向こう、外界へと向かって歩きながらヘルメットを脱ぎ挨拶をしながら、結果を見ている男に近づく。


「今回もご苦労。ボーナスだ」

 三つ揃いの男はそれだけ言うと、戦士達のヘルメットに札束を投げ込んで行く。

 男の声は後ろでけたたましく鳴る蒸気機関と歯車の男に掻き消され殆ど戦士達には聞き取れなかったが、札束分増えたヘルメットの重さを腕に感じながら、山高帽の男にウィンクを返す。

 そのままぞろぞろと外界への行進を続けていくと、後ろでダイナマイトが炸裂する爆発音が響く。


「崩落事故か!?」

「消火器の用意は!」

「イヤ、大丈夫らしい!」

 後ろで様々な声が行き交う。


 戦士達は職員達の声から安全を確認すると、肩を竦め、そのまま外界に出て行く。

 暗闇の炭鉱から外界に出ても、そこに広がるのは星空であった。

 24時間動くこの巨大機械には昼も夜も関係無い。

 戦士達の今回の任務は昼から深夜へのシフトであった。

 戦士達は星空を見ながら紙巻きタバコやパイプ、葉巻に火をつけ、漸く一息入れる。

 様々なガスが噴出している炭鉱内では決してできないブレイクの煙草。


 静寂な時間。


 その後、たっぷりと肺に入った煙を吐き出すと、視線を下に向ける。

 金属や木材を組合せて作られた足場の下には、24時間稼働する炭鉱に合わせて広がった24時間輝く不夜の城下町が広がり、戦士達の手柄によって灯された電灯が酒場、劇場、娼館……様々な娯楽を浮き上がらせていた。


 戦士達はそこで一服しながら各々の手柄を自慢し、讃え合うと、タール等の染み付きそうな汚れを落とすべく、各々の家に向かった。

 そして、そのまま家族と共に過ごす者。

 着飾り、夜の街に繰り出す者。

 シャンパンを開ける者。

 女を巡り殴り合う者。


 各々が各々の命懸けの手柄をカネにし、それぞれの命を輝かせる。

 幾らでも稼げる。

 幾らでも積める。


 この屈強で頑健な体と、強靭な精神を使って、この世界だって輝かせてみせる。

 それが、この街の戦士達である。



「どうだい?」

 マークはレター用紙から顔を上げると大見得を切ってマシューに顔を向ける。

 声をかけられたマシューは目を半開きにしてため息で応える。


「マーク、君こそ、状況描写ばかりで『物語』なんてどこにも無かったじゃないか」

「何を言っているんだ?英雄譚は大抵こう、英雄達の状況描写から始まるだろう?つまり、これこそが現代の一大英雄叙事詩、と言う訳さ」

「そうかい。それと、それは君の炭鉱をモデルに書いたのかい?」

「当たり前だろう?僕の家の炭鉱にいるのは、こう云う屈強で素晴らしい戦士達ばかりさ」

 マークは誇らしげにそう言うと、レター用紙を扇のように左右に拡げる。


「仕事は充分立派かもしれないが、少なくとも、『健全な精神』は見えなかったね」

 しかしマシューは肩を竦めてそれだけ返す。

「何だって?」

 マークも、実に心外だとばかりに両手を拡げてマシューに反論する。

「少なくとも、君の頽廃主義的倦怠感よりは余程『健全』じゃないか」

「何を言っているんだ。僕のは、正しく僕達自身の頽廃を内省的に見詰めた、正しく写実主義的近代小説じゃないか」

 マークの反論に対し、マシューは文学論で返す。

「まあいい、次は、お互いにそれぞれの物語を交換して、その続きを描くんだ。楽しみにしているよ」

 マークは方眉を上げると、挑戦的な視線でマシューに告げた。

「ああ、楽しみにしていてくれ給えよ」

 マシューもまた、マークと同じような表情で応えた。

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