赦し

アフロマリモ

第1話

 中学の頃、なんてことのない体育の授業、他のクラスと合同で行っていたリレーでそれは起こった。


「おい! マイケル!」


 走っている最中、応援の掛け声の中に聞こえたその悪意を、俺は聞き逃すことができなかった。


 もちろん、俺の名前はマイケルでもジョーダンでもない。


 おそらくそいつは、海外の人の名前っぽい「マイケル」を選んで、俺をそれで呼び、馬鹿にしたかったのだろう。


 俺の父は黒人だった。そのせいで俺の肌の色は濃く、そのせいで小さい頃から目をつけられた。


 幸い友人も先生も恵まれ、登校が嫌になるほどのいじめはなかったが、些細なからかいや嫌がらせは止まず、次第に俺は諦めた。


 この世にはあらゆる人間がいて、みんな違ってみんな良い。そんな当たり前を理解できない奴らがいる。


 これが小学校六年間の間に学んだことだった。


 あの時の言葉も、いつもだったら笑って聞き流しただろう。


 だが俺はそれを見逃すことができなかった。


 何故かは分からない。けれど走っている最中、激情にかられ続けた。




 授業が終わり、俺はすぐに友人たちを集め、


「あいつの名前って、なんていうの」


 そう質問した。


「あいつはAって名前だよ」


「ふーん、そうなんだ」


 そして俺はこう続けた。


「Aってさ、うざくない?」


 そして俺のこの一言が、全ての始まりだった。




 最初はただの悪口だった。いつしかそれを本人に聞こえるように言うようになる。嫌がる顔をよく観察するように。


 ブレーキを知らない無垢な加虐心に、火がついていき、行為はどんどんエスカレートしていった。


 帰宅するAを数十人でバカにし続け、家についても家の前でAの容姿を愚弄する。


 靴を隠し、クラス単位で無視し、陰口をたたく。


 これらは全て俺が指示したわけではない。ただ勝手に大きくなっただけだった。


 そしてそれを俺は止めもしなかった。


 理由は簡単だ。


 死ぬほど楽しいから。


 学校という娯楽の少ない環境に、「イジメる」という玩具はあまりにも中毒性が高い。


 ほとんど実行に関与しなかったが、必ずその現場にいて、良く観て、大いに笑った。


 何故こんなに楽しい遊びを、今まで知らなかったんだろうとも思った。


 いつの間にか俺をイジメる者は減り、Aをイジメる者は増えていく。




 ある日楽しそうに帰宅した俺を見て、母さんは嬉しそうに質問した。池に落とされるAの無様な姿がたまらなく面白くて、思い出し笑いしていたのだった。


「学校楽しそうね。新しい友人でも見つけたの?」


 俺は喜々として答えた。俺を馬鹿にしたAってやつが、今どんなに哀れな状況に陥っているかを。


 その話を聞く母は、終始悲しそうな顔をしていた。俺を叱るでもなくただ悲しんでいた。


 俺はそれが理解できなかった。こんなにも楽しいのに。


 俺の話を聞いて、母は静かにこう言った。


「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出しなさい」


 キリスト教の母らしい返しだった。


 その時の俺には、それが理解できなかった。右頬を叩かれたら、相手の両頬をぶん殴る。そうしなければ相手は付け上がる。だからぶん殴る、そうすれば相手は黙り、自分も楽しい。


 これが中学一年で学んだこと。


 俺はまた思い出し、嗤う。


 その時の俺は気づいていなかった。笑った顔が、俺のことをイジメたやつと、同じ顔になっていることを。




 学年が上がる前から、Aは学校に来なくなった。


 大抵のやつは遊ぶ玩具が減った程度にしか、考えていなかっただろう。


 そして雨の続く六月。


 Aは死んだ。先生は、死因を教えてくれなかった。


 はじめ俺も、他のやつらも、お互いに責任を擦り付け合っていた。


 しかし遺書は見つからず、冬になる頃には、誰もAのことを話さなくなった。誰もが忘れ去ろうとしていた。


 その中、俺はずっと罪悪感に駆られ続けた。


 俺は毎晩祈った。許してください、許してくださいと。けどもう死んでしまった人間から赦しを得ることはなかった。



 あれから時がすぎ、俺にも子供ができた。


 まだ言葉も喋れない娘を抱き上げる。その肌の色は、俺の血を引いていた。


 あうあう、と言いながら俺の右頬に触れる娘。そのかわいらしい仕草に笑みがこぼれる。


 俺は娘に、左頬差し出す。恐る恐る左頬に触れる小さな手。


 娘は嬉しそうにキャッキャッと笑う。


 俺はその姿に、涙を零す。


 何故こんなにも簡単なことを、俺はできなかったのだろうと。


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