第7話:茶道
“くすぐりの刑”からおよそ10分。
「今回は情状酌量の余地ありでこれくらい。反省した?」
「は、はひっ……」
「よろしい」
紗月が仕事は終わりだと言わんばかりにパンパン、と手をはたく
彼女の足元に菜々羽が転がっていた。うつ伏せで白目を向き、時折ピクピクと思い出したように震えている。10分間くすぐられ、呼吸困難になるほど笑っていたのだから無理も無いだろう。
「……生きてるか?」
菜々羽の傍で屈む一矢。
「しゃ、社会的に死んでしまいました……あんな恥ずかしい姿を晒すなんて……」
「心配するな。人はその程度じゃ死なない。おれが保証する。」
これまで紗月に沈められてきた一矢の言葉には重みがあった。
「にしても紗月ちゃん、指めっちゃ動くね」
「これ?」
紗月がグニャグニャと指を動かす。
「どうしたら一矢君がお尻で喜んでくれるだろう、って考えてたらたどり着いた。まあお尻以外にも使えるかなって」
「大切だよね。そういうテクニック」
「何の話してるんだお前ら」
大前といる事で、紗月のリミッターが1つ外れているようだ。話の内容がいつも以上に生々しい。自分の尻が狙われている事を、一矢は今初めて知った。
「(けど、変だな……)」
和室に入って以来、一矢にはずっと違和感があった。
これまで一矢が女子と仲良くしていると、決まって紗月が圧を掛けてきた。ゲーセンで地雷ファッションの光森を見ていただけで浮気を疑われたし、大前から“一矢のファンがいる”と聞いて舞い上がった時はリストカットしようとしていた。
しかしメアリに抱き着かれても脱がされかけても、一切お咎め無しだ。即乳没の刑でもおかしくないと思うが。
「壁に耳あり障子にメアリー!」
その時、障子が開け放たれる。メアリが着替え終えたようだ。あの口上は障子から出てくる時の挨拶らしい。
「キャー!やっぱ可愛いー!」
メアリの和服姿を見た大前が黄色い声を上げる。
「えへへ、ありがとう大前サン。ねえ、見て見て一矢クン!どうかな?」
走りづらいからか、ぴょんぴょんと跳ねるように近づいてくるメアリ。
鮮やかな緑色の着物に、朱色の帯。顔の右側の髪を、耳に掛けている。青色の瞳やプラチナブロンドの髪、そして名前から、東海林メアリが日本以外のルーツを持っている事は明白である。そんなメアリが和服を着ると、菜々羽とは対照的な良さがあった。例えるなら、金閣のメアリ、銀閣の菜々羽だろうか。
「良いな。着物」
「ホント?一矢クンが言ってくれると嬉しい」
にっこりと笑うメアリ。
「せっかくだし、お茶飲んでいってよ!ワタシ点てるよ!」
「良いのか?じゃあぜひ」
「うん!」
そう言うとメアリは障子の奥からテキパキとお椀や窯などの道具を取り出し、部屋の隅に置く。そして跪くと、お茶を点て始めた。
何となく、一矢はメアリから1人分ほど離れたところに正座し、様子を眺めていた。抹茶風味のお菓子を食べた事はあるが、飲んだり、本格的な茶道の手法を目にしたりするのは初めてである。好奇心で少しワクワクしていた。
まずは窯の蓋を取る。ふわりと、湯気が立ち昇る。ひしゃくで中の湯をすくい、お椀に入れる。そのお椀に入った湯を、白い別の器に移し替える。
せっかくお椀に入れたのに、その湯ではお茶を作らないのだろうか。そんな事を思っていると、一矢の隣に菜々羽がすっ、と座った。
「あれは一度、お湯を冷ましているんです。お茶には最適な温度があるんですよ」
「へえ。そういえば祠堂は茶道やってたんだっけか」
「ええ、まあ」
特に何の感情も無く、当たり前のように淡々と言う菜々羽。部室の前で「茶道をやっていた」と聞いた時はまるで信じていなかったが、彼女の姿を見て一矢は納得した。すっと背筋を伸ばして座る姿は“一輪の花”の美しさを感じさせる。ギャンブルで大負けして床を転がったり、パンチで衝撃波を生み出す人間とはとても思えない。やはり、祠堂菜々羽は永遠に黙るべきではないだろうか。
「っていうか、くすぐられたのはもう大丈夫なのか?」
「……黙秘権を行使します」
少し身を捩る菜々羽。いまだに少し顔は紅潮し、たまにピクピクと身を震わせていた。くすぐりの刑、侮れない。
そんな中、メアリはお茶の準備を進める。左手で漆塗りの器を手に取り、孫の手のような形をした小さい杓で器の中から抹茶の粉をすくい、それを2杯ほどお椀に入れる。そして、冷ましたお湯もお椀の中へ。
そして右手で茶筅を手に取った。茶筅とは、湯と抹茶を混ぜるための道具である。竹で出来ており、持ち手の部分とブラシのように細く裂かれた部分に分かれている。ブラシの部分を湯の中に漬け、まずはサッサッサッ、と湯・抹茶・茶筅をなじませるように混ぜていく。ある程度なじませたら、シャカシャカと速く。細かい泡が立ったところで、最後に「の」の字を描くように茶筅を抹茶から取り出す。ホイップクリームのように、水面が少し盛り上がる。
メアリはお椀を手に取ると、それを2度ほど回して一矢の目の前に置いた。お椀の外側と内側には、花の絵が描かれていた。外側にはコップを囲むように、内側にはちょうど一矢と顔を合わせるような位置にワンポイントで描かれていた。
「おお……」
先ほど写真を撮った時の天真爛漫な姿とは違う、しなやかかつ無駄の無い動き。一矢は感動していた。今日まで茶道の体験は無かったが、これは素晴らしい。ダンスや音楽などが“動”、あるいは“発散”の芸術だとしたら、茶道は“静”、あるいは“霧散”の芸術。
「(けどこれ、どうやって飲めば良いんだ……?)」
そんなメアリの芸を見せられたことで、逆に一矢は戸惑っていた。友達の家でジュースが出てくるのとは違う。完璧な所作でもてなされた以上、こちらも相応の対応をしたい。しかし茶道の世界に疎い一矢はどうすべきかわからない。しばし、お椀の花とにらめっこしてしまう。
「一矢。まずはお椀を持ってください。右手で持ち上げて、左手でお椀の底を支える」
逡巡していたところに、菜々羽が助け舟を出してくれる。
「お、おう、わかった」
右手でお椀を持ち上げ、左手で底を支える。
「次に、頭を下げてください。感謝の気持ちを込めて。そしたら、お椀の内側のお花が自分と向かい合わないよう、2回右に回してください」
「はい」
菜々羽の雰囲気に気圧され、一矢は思わずしゃきっと返事した。言われた通り、小さく頭を下げる。もちろん、“いただきます”とメアリに感謝の気持ちを込めて。そして、お椀に描かれた花が自分と向かい合わないよう、2度右に回す。
こんなに真剣な菜々羽は見た事が無い。普段の部活でも本気を見せるが、それとは違う。ピリッとしていて、冷たい刃のように緊張感がある。
「もう頂いて大丈夫です」
「はい」
お椀を口元の高さまで上げ、抹茶を飲む。
「(へえ、甘くない!)」
1口目に感じた率直な感想はそれだった。抹茶と言えば、チョコレートやラテなど甘いものと一緒になる事が多い。てっきり抹茶自体が甘いようなイメージを持っていたが、それは違う。素の味はあくまで“お茶”である。
「(甘くはないけど、これは……“美味”だ)」
味のベースは緑茶で、それに苦みが足された感じ。その苦みが、味を立体的にしている。ただのお茶ではなく、“抹茶”を飲んでいる事を舌が認識する。スナックやジュースを口にした時とは違い、深く噛みしめたくなる。“美味い”というより、“美味”。
「……ほぉ」
結局、一息で飲み干した一矢だった。
「では、お茶碗の飲み口を指で拭ってください。親指と人差し指で挟んで、左から右に」
「こうか?」
「そうです。では、最後にお椀を左に回し、お花が自分と向かい合うようにしてください。お椀を再度畳の上に置けば、それで完了です」
最後まで菜々羽の言う事に従い、初の茶席での所作をこなした一矢だった。
「どうかな……美味しかった?」
正座したメアリが、少し眉尻を下げる。
「ああ、美味しかった!初めて飲んだけど、抹茶も良いな」
「ほ、ホント!?良かったぁ、嬉しい」
ほっ、と胸を撫で下ろすメアリ。口に合っていたかどうか、かなり心配していたようだ。
「ありがとう、メアリ。また今度来るから、飲ませてほしい。あ、作り方も教えてくれないか」
「うん!今度はもっと美味しいお茶点てるね。えへへ、一緒にやるのも楽しみだなあ……」
両手を頬に当て、顔を赤くするメアリ。この着物を着た天使以上に可愛い存在は、この世のどこにもいない。定期的に通おう。
「いえ。東海林さんが指導していただくには及びません」
そんな彼らの今後に待ったを掛ける者がいた。菜々羽である。
「何故なら同じ部に、茶道の心得を持つ者がいますから」
自分の胸に手を置き、微笑む菜々羽。
「むぅ。茶道の事は茶道部に任せてほしいな!」
「一矢は本気部の部員です。わざわざ茶道部にご足労いただく必要はありません」
頬を膨らませて反論するメアリ。しかし菜々羽は微笑を崩さない。
「せっかくですから、一矢に私のお茶も召し上がっていただきましょう。こちら、お借りしてもよいですか?」
「いいよ。お手並み拝見!」
「ふふっ。ありがとうございます」
菜々羽は小さく頭を下げる。一見すると、とても奥ゆかしい仕草。しかしそこには圧倒的な自信と、“メアリには絶対に負けない”という強い闘志が感じ取れた。紗月にくすぐられて呼吸困難を引き起こすほど笑い転げていた先ほどの姿とは、似ても似つかない。
そして、メアリと同じようにお茶を点て始める。窯の蓋を取り、水を汲むところから茶筅で抹茶を混ぜるところまで、やっている事はメアリと変わらない。
変わらない。が。
「(……な、何だ今の……!?)」
菜々羽のそれは、圧倒的に次元が違った。
一矢の目には、メアリも十二分に美しく見えた。決してメアリの技術が劣っているとは思わない。
正直、どう言い表すべきか全然わからない。強引に例えるとしたら、“個の消失”だろうか。
一矢は、自分の膝の前に置かれたお椀に目を落とす。そこには菜々羽が点てた抹茶がある。しかし彼は“菜々羽がお茶を点てた姿を見ていない”。
もちろん、それは比喩だ。彼の網膜にはしっかしとお茶を点てる菜々羽が映っていたのだから。
“認識していない”というのが正しいかもしれない。
風景を見る時、基本的に人は“それが誰の土地か”などは考えない。ただあるがままの色、空気、香りを楽しむ。それと同じように、菜々羽は“自然”だった。
「……あ、ええと……」
惚けて、頂く事を忘れていた。先ほどと同じ要領で、抹茶を口にする。
「(すげえ、全然違う……)」
温度、泡の舌触り、ジン……と染み込んでいく味。同じ抹茶の粉から作られたとは到底思えなかった。
「ス、スゴイ……」
「何なの、今の……」
茶道部の2人ですら、度肝を抜かれていた。
そんな彼らを見て、菜々羽は訥々と語り始める。
「日本の芸術は、引き算です。それは茶道も同じ。無駄を省く事で美を追求し、道に至る。自分自身を省き、自然と同化すること。これが、茶道において祠堂家がたどり着いた真理です」
薄く微笑む菜々羽。自信、矜持、優越……彼女の感情の全てを表す、無駄の無い究極の表情に思えた。
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