第6話:沈む
クレーンゲームの陰から状況を見守っていた一矢は、決断した。
「よし、逃げよう」
光森がしゃがみ込んだ時はどうとも思わなかった。それくらいの奇行、本気部にはよくある。しかし立ち上がり菜々羽に詰め寄った時、彼は二次災害の気配を感じた。この後の展開は読めている。菜々羽の事だから、一矢達を囮にして脱走しようとするに違いない。その前に手を打つ。
一矢は紗月に“逃げるぞ”と親指で合図する。紗月は人差し指と中指の間から親指を出し、サムズアップのように掲げた。我が国でそのハンドサインは卑猥な意味を含むが、まずはこの場を乗り切るために、あえて何も言わなかった。
足音を立てないよう、ゆっくりとその場を後にする。
「紗月、静かにな」
「うん、音立てないように舐める」
「足音を立てるなって意味だ!」
「え?抜け出して1億2千万人計画を始めよう、って事じゃないの?」
「そんなわけないだろ!?とにかく抜き足差し足で……」
「抜いて差せばいいんだね」
「足をな!」
一矢と紗月は静かにその場から離れようとする。が。
「ちょっと!どこ行くんですか貴方達!?」
「やべっ、気付かれた!走るぞ!」
「させませんっ!」
走り出そうとした一矢だったが、相手が悪すぎた。身体能力お化けの菜々羽は身を屈めると、ロケットミサイルのように一矢に向かって跳んだ。そして勢いのまま、自分に背を向けかけていた彼の脇腹に飛び込んだ。
「ぐぇぇっ」
突然大砲のような衝撃を受け、一矢の口から断末魔が漏れる。彼は背中からゲームセンターの床に倒れこんだ。
「お、お前、何してくれてんだ……」
「何逃げようとしてるんですか。そうはいきませんよ」
菜々羽は顔を上げ、ニヤリと笑う。
「こ、この泥棒猫……」
その様子を見て、紗月がわなわなと震えていた。
「いつか一矢君にアタックするんじゃないかと思ってたけど、そこまで強引だとは思わなかった……!」
紗月の目から、墨のように黒い光が漏れだす。それは紛れもなく彼女の怒りを表していた。
「えっ?ちょっと紗月、なんでそんなに怒ってるんですか!?」
「今自分がどういう姿勢なのか考えてみたら?」
「どういう姿勢かって……はっ!?」
そこで菜々羽は理解した。自分がどういう状況になっているかを。
「えっ!?あっ!?こ、これはちがくて……ちがくて!!」
「何が違うの?」
紗月は威圧感たっぷりの表情で見下ろす。
どう見ても、菜々羽が一矢を押し倒していた。
「わたっ、私はただ一矢にタックルしただけです!全然、全然変な意味はありませんわ!」
菜々羽は顔を真っ赤にして弁解する。
「まず、何の前触れもなくタックルするな……死ぬかと思ったわ」
一矢は死にかけの病人のような声を出し、菜々羽に抵抗する。
「それは貴方が逃げるからでしょう!」
「わかった、もう逃げないからとりあえずどいてくれないか……」
「それは嫌です!だって逃げるじゃないですか!」
「ちっ!」
病人のような土色の表情から、一瞬で普段の顔色に戻る一矢。フィジカル自体は菜々羽並みの彼は、タックル程度では死なない。彼女を欺くための嘘だったが、あえなく看破されてしまった。
「ざ、残念ですね一矢。貴方は道連れです。というより、ここで逃がしたら破廉恥な事をしてまで貴方を捕まえたことが無駄になってしまいます!“掴んだら離すな!”が祠堂家の家訓です!」
なおも真っ赤な顔をして目を回しながら、菜々羽は腕に力を込める。
「はった迷惑な家訓だな!」
道連れのために男に抱き着くなよ、と思ったが、本気部の部長だ。目的のためなら手段を選ばない。
「何故逃げるんだ、お前らぁ……!」
そして、手段を選ばない者がもう一人。
光森は悲し気な表情で、倒れ込むようにして菜々羽と一矢に抱き着いた。
「私はただ一緒に遊びたいだけなのに、どうしてぇぇ……」
瞳を潤ませるその様は、まさしくフラれた地雷系であった。
「み、美穂ちゃん!私は逃げたんじゃなくて、一矢達を誘ったんです!」
「あっ!てめえ卑怯だぞ!」
「佐山ぁぁ、私と遊んでよぉぉ!!」
「落ち着け先生!っていうかアンタ、球技大会のとき完全に敵だったよな!?ちゃんと覚えてるからな!?」
「もうあんなこと言わないからぁぁ……野球部とは縁切るからぁぁ……」
「いや縁は切るな……はっ!?」
散々騒いでいた一矢たち。しかし彼らの視界が突然暗くなる。夜の闇とは違い、禍々しく黒い瘴気が3人を包む。
「殺す」
その元凶は上村紗月だった。
彼女の全身から溢れ出したオーラが、ゲームセンター全体を包まんとしていた。照明が小刻みに点滅し、クレーンゲームがガタガタと揺れ出す。客達の不安げなざわめきが湧き起こる。
「おいたが過ぎた」
「お、おおおおおお落ち着け紗月」
彼の体も、声も震えていた。眼前に機関銃を向けられ、ギロチンで固定され、アイアンメイデンに入れられたような、そんな非現実的な恐怖に襲われていた。普通におしっこ漏らしそうになっていた。
「一矢君、私は悲しい。貴方が妻の前で3Pする人間だとは思わなかった。」
「3P!?これのどこがそう見えるんだ!?」
「どこからどう見ても3P」
激昂した紗月に、人間社会の常識は通用しない。
「貴方を殺して私も死にたい」
紗月は一矢の脇の下に手を入れる。菜々羽と光森が抱き着いているにも関わらず、するりと、まるでこんにゃくのように簡単に抜けた。
そして紗月は“たかいたかい”するように一矢を持ち上げる。
「ま、待て、紗月、謝る、謝るから……」
「大丈夫」
真っ青な顔をしている一矢に向かって、紗月は微笑んだ。
「母としての私は、貴方を許したいと思っている」
「そ、そうか……」
一瞬安堵した一矢。しかし、目の前の女子が上村紗月であることを忘れてはならない。
「けど、お仕置きは必要だよね」
「え、なにを……」
全て言い切る前に、一矢の体が落下していく。
彼の視界がスローモーションになる。グレーのニットに覆われた、圧倒的なバストが迫る。
「あっ」
と思ったとき、一矢は谷間に沈んでいた。
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