本気《まじ》ならいいってもんじゃない

第7話：ドッジボールってそういうスポーツ！！

　これまでと同じように、試合はジャンプボールから始まる。今回も紗月がその長身を生かし、一矢にボールが渡った。

　本気部は一矢と紗月が内野で、菜々羽が外野という編成だ。ジャンプボールで先手を取り、固定砲台の菜々羽にボールを渡し、攻撃をするという戦術をメインとしている。決勝もそれは変わらない。

　一矢が外野に向かってボールを高く投げる。菜々羽はノーバウンドで捕球することができない。彼女が捕りやすくするため、一度ワンバウンドさせる。

「ふぎゅっ」

　まあ、ワンバウンドさせても何故か顔面に当たるのだが、ボールの勢いは死んでいるので気絶するようなことはないし、弾いて相手コートに転がっていくこともない。

「よし、いきます！」

　菜々羽はボールを右手で構えると、コートに背を向けて助走を始める。その様子を見た生徒たちがどよめき、彼女が投げたボールが“真後ろの”相手コートに飛んで更にどよめいた。

「うおぉっ！？」

　ボールの射線上にいた野球部の男子が一瞬固まるが、何とか体を屈めて避ける。

　しかし、本気部のこの戦術はただの不意打ち作戦ではない。極めて狭いこのコートにおいて、抜群の強さを発揮する。

「ん」

　菜々羽から投げられたボールを、紗月がキャッチする。そして紗月は振りかぶらず、バスケットボールのパスのように両手で弾く。

「くそ……っ！」

　菜々羽のボールに戸惑っていた野球部は反応に遅れる。何とか捕球しようとしたが尻もちをついてしまい、ボールは足に当たって相手コートに転がった。アウトだ。

　決勝戦で早くも1つ目のアウト。体育館は観客の歓声に包まれた。

「紗月、ナイス！」

　一矢が紗月に向かって親指を立てる。

「……ふふ」

　一矢に褒められ、紗月は笑顔になった。褒められて嬉しいようだが、爽やかというよりは妙にねっとりとした、いつもの不気味な笑みだ。

　そしてその表情が、電光掲示板に大きく映されていた。それを見た観客達は引いたようだ。

　それはさておき、ボールは相手コートに転がっている。野球部の攻撃、本気部の守備の時間だ。

「許さない……」

　ボールを拾った光森は、相変わらず本気部を睨んでいた。

「私に唯一残った野球部っていう居場所を荒らして、お前たちは楽しいのか！？」

「ドッジボールってそういうスポーツ！」

「うるさいうるさい！うわぁぁ！」

　叫びながら、光森は一矢に向かってボールを投げる。

「意外と速い！」

　一矢は可能性があったらボールをキャッチしようと考えていたが、光森のボールは気持ちが乗っているのか、やけに勢いがある。無難に避けることにした。

「そうかそうか、佐山は私の気持ちを受け取ってくれないんだな……最初から、野球部に勧誘した時からそうだったもんな……」

「だからドッジボールってそういうスポーツ！！」

「一矢君はあの女のボールなんか受け取らないよね？全部避けてくれるよねそうだよね？」

「いや、チャンスがあったらさすがに捕るけど」

「そうなんだ、ふぅーん。ワンチャンあったら手出すんだ、ふぅーん」

「ドッジボール！！！」

　いつからこのスポーツは修羅場の暗喩になったのだろう。

「貴方達、何遊んでるんですか！ボールが来ますよ！」

　内野の痴話げんかを見かねて、菜々羽が物申す。

「わかってるよ！」

　そう、ふざけている場合ではない。今本気部がすべきことは無駄な口論ではなく、外野からの攻撃に備えることだ。

「まあそれはそれとして、一矢はもうちょっと自制すべきだと思います」

「祠堂お前！外野に思いっきり投げてやるからな！！」

「ちょっと！それは勘弁してください！」

　このやり取りだけを見るとふざけているようだが、その後、至って真剣にドッジボールは進んだ。一進一退の攻防が続き、ついに野球部側の内野は光森だけになった。

「くそっ、許さない許さない許さない……！」

　ボールを持っている光森は、相変わらず本気部に向かって呪詛を呟いている。が、彼女は既に肩で息をしていた。運動部の顧問と言えど、目まぐるしく展開が動く某高校ドッジボールで集中力を維持し続けるのは体力的に難しい。

「あと1人だぞ、紗月」

　本気部の内野は、一矢と紗月である。開戦時と同じ布陣だが、一矢も紗月もそれぞれ1回ずつアウトになっている。体力には自信のある一矢も肩で息をし、徐々に脚の力が入らなくなっていた。彼の頬を汗が伝い、顎の先からコートに落ちる。

「はぁ……はぁ……」

　紗月も肩で息をしていた。

「大丈夫か？もうちょっとだからな」

　一矢はいつボールが来てもいいように構える。当然、その視線は相手コートを向いている。

「わかってる」

　そして紗月は、構えている一矢を見つめていた。正確には、コートに落ちた一滴の雫を凝視していた。

「（一矢君の汗一矢君の汗一矢君の汗一矢君の汗一矢君の汗）」

　何故彼女が肩で息をしているのか、もはや言うまでもない。

「っ！」

　光森がボールを一矢に向かって投げる。その球に開戦時の勢いはない。しかし一矢も疲労が溜まっており、上手く反応できない。キャッチすることは出来ず、倒れこむようにしてボールを避けた。そのままコート中央のラインに向かい、攻撃に備えるために外野を向く。

　ここが、勝敗の分岐点だった。

　一矢の意識は外野に向いていた。そのため、背後からの精神的な攻撃に対応できなかった。

「……なあ、佐山ぁ。私を見てくれよ。こんなに求めてるのに……」

　光森は、吐息交じりに一矢に囁いた。

「ヒェッ！？な、何だ！？」

　ぞわり、という感覚が一矢の背筋を走る。否が応でも集中が途切れる。

「ヤ、バいっ！」

　気付いたとき、野球部の外野は投球モーションに入り、ボールが放たれる寸前だった。完全に一矢は後手を踏んだ。反応が大事な某高校ドッジボールにおいて、一瞬の散漫は命取りである。

「くそっ！」

　一矢は外野の野球部を一切見ず、全力で左にダイブした。この状況を何とか切り抜けるためだけに行った、完全なギャンブルであった。

　そしてボールは、奇跡的に一矢の上を通過した。賭けは成功した。この瞬間は、乗り越えた。

「助かった……」

「一矢君！！」

　一瞬安堵した一矢。しかし紗月の悲痛な叫びが響いた。

　そして彼は思い出す。これはドッジボール。外野の攻撃を避けても、終わりではない。

　体育館にうつ伏せになっている一矢の視界を、影が遮る。

　そこには、笑みがあった。相手を見下し、勝ち誇ったような表情だった。ボールを持ったその女は、絶望した一矢の顔を目に焼き付けるために、自らも床に伏せた。

「その顔が見たかった」

「くそっ……！」

　起き上がろうとしたが、もう遅い。ぽん、と一矢の背中に当たったボールは、野球部の外野に転がって行った。

　一矢、アウト。

　体育館を大歓声が包んだ。

「あっはっはっは！！残念だな佐山、アウトだ！！」

　その空気を貫くように、光森の高らかな笑い声が響いた。

「やられたっ……！！」

　一矢は悔しさのあまり、体育館の床を殴る。ここまで、彼なりにベストなプレーが出来ていた。しかし最後の最後に相手のダーティープレイに嵌ってしまった。

「はははは！まあそう落ち込むな！」

　光森は一矢の顔を両手で挟むようにして、彼と目線を合わせる。

「またいっぱい遊ぼうな。佐山」

　目いっぱい彼の傷に塩を塗り、悦に入った表情を紗月に対しても向けたのだった。

「一矢！」

　外野に来た一矢に、菜々羽が駆け寄る。

「ごめん、祠堂……」

「いえ……相手にやられました」

　普段であれば光森と一緒に一矢を嘲笑う菜々羽だが、今日は彼女も悔しそうにしていた。

　これで1対1になった。紗月か光森、どちらかがアウトになればゲームセットだ。

　しかし戦況は互角ではない。今、ボールは野球部の外野にある。内野に残された紗月は、狭いコートの中で相手からの攻撃を避け続けるだけでなく、どこかで捕球しなければならない。ここから野球部は紗月を当てるため、間違いなく本気で投げてくる。本気部が攻撃に転じるのはかなり難しい。

　紗月は外野の野球部と光森から投げられるボールを淡々と避けているが、これではジリ貧だ。一瞬のミスで本気部の敗北が決まる。

「さっさと負けろ、本気部！」

「……」

　光森からの煽りを無視して、紗月は避け続ける。

「っ！」

　その紗月の目を見た一矢の背筋に、またしてもぞわりという感覚が走った。先ほど光森に引き起こされたものとは別種のものだった。

「……祠堂」

「な、何ですかこんな時に！ああ、このままじゃ紗月が……！」

「ヤバい」

「ヤバいのはわかってます！喋ってる暇があったらせめて応援でも！」

「違うんだ」

「えっ？」

　一矢はごくり、と唾を飲んだ。

「先生が、ヤバい」

「美穂ちゃんが？この状況で？」

　菜々羽は一矢の思考を理解できなかった。いや、彼女だけではない。この瞬間、一矢を除く体育館にいる全員が、光森の心配など一切していなかった。

「しつこいな……そろそろ降参したらどうだ」

　それまで止まることなくボールを投げ合っていた野球部チームだったが、さすがにスタミナが切れる。光森はボールを持ったまま、シャツの袖で強引に頬の汗を拭いた。

　逆に一切息を乱さず、汗も流していない紗月。彼女は徐に口を開いた。

「楽しいですか？」

「何？」

「楽しいですか？」

　冷静そうな表情・口調で、紗月は光森に向かって尋ねる。

　突然の問いかけに、一瞬困惑する光森。

「……なるほど」

　しかし紗月の質問を理解し、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「ああ、楽しい。私の作戦で佐山をアウトに出来て、とても楽しい」

「そうですか」

　紗月は光森の挑発には動じない。“傍から見ると”冷静に見える。

　動じない紗月に対して不満を覚え、光森は更に口撃するために一歩前に出る。

「そういえば上村と佐山は仲が良かったな。残念だったな、佐山は私が取った」

「そうですか」

　紗月も、一歩前に出た。

「じゃあ、私も殺してもらっていいですか。早く一矢君のところに行きたいんです」

「そうかそうか。悪いな、心中させられなくて」

　光森はボールを振りかぶる。紗月との距離は2メートルもない。

「だったら私が殺してやる！本気部をここでぶっ潰してやる！」

「やめろ、先生！」

「もう遅いぞ佐山！私を誘わなかったことを後悔しろ！！」

「違う！！！」

　一矢は喉がちぎれそうになるほど、叫んだ。

「今の紗月を相手にするな！！！先生が危ない！！！」

「はっ、見苦しいぞ佐山！」

「ヤっバい！！」

　一矢だけは気付いていた。紗月の両目から、墨のように漏れている黒い光に。

「ふんっ！」

　光森がボールを投げる。至近距離で投げられたそれは、一瞬で紗月の胸に届く。

　紗月は、自分の胸と両腕で挟み込むようにして捕球した。しかし勢いを殺しきれていないのか、紗月の体は震えている。

「先生。私が一矢君とどういう関係か知ってますか」

「……？」

　光森は怪訝そうな表情をした。

「……確か、幼馴染か何かだろ？それが？」

「正解です。けど、間違いです。私は一矢君の幼馴染であり、友人であり恋人であり妻であり妹であり姉であり母です」

「は？」

「つまり！」

　紗月はボールを更に抱え込む。まるで、力を溜めるように。何が起こっているかは定かでないが、彼女の髪の毛が重力に反発して逆立っていく。

「幼馴染としてぽっと出の女を潰し！恋人として恋敵を抹消し！妻として不倫相手を破壊し！妹として兄を、姉として弟を、母として息子を守る！それが上村紗月のすべき事！！」

「ヤバい！祠堂、こっちだ！！」

　顔面蒼白になった一矢は、祠堂の手を掴んで走り出した。

「え、ちょっといきなり何ですの！？は、恥ずかしいからやめてください……」

「んな事言ってる場合じゃねぇんだァーッ！！」

「はぁぁぁーっ！！」

　そして、紗月は両腕を広げ、胸を突き出し、力を解放した。

　放たれたボールは一瞬の内に光森の顔の横を通り過ぎ、空気を切り裂きながらぶっ飛んでいく。ドッゴォン！！、というとてつもない音を轟かせ、体育館の壁を破壊した。

「えっ……えっ？」

　光森はペタン、と尻もちをつく。何が起こったか理解できていなかった。

「……メス猫の祠堂さんが目に入って狙いが外れたけど、まあいいか」

　紗月は光森を見下ろす。

「次は顔に当てます。一矢君に近づいた罪は重い」

　光森のシャツは、右肩の部分が引き裂け、焦げ付いていた。紗月の放ったボールが掠めただけで、そうなっていた。

　何はともあれ、光森のアウト。野球部の内野はゼロ。

　本気部が、勝利した。