第2話:〇んこの礼

 平日の朝、通学。

 大半の学生にとってその時間は辛い。

 しかし佐山一矢にとっては、トラブルメーカーが自分の周りにいない、心休まる時間であった。寮から学校までの僅かな時間ではあるが、その尊さを彼は毎日噛みしめていた。“授業中と朝はおれの友達だ”と、彼は思っていた。

「ん……?」

 昇降口の前に列が出来ていた。一定の時間を置いて、生徒達が一人ずつ校内に入っていく。彼らは皆、カバンを肩にかけなおしたり、中途半端に腕に提げたりしていた。

 列に並んで前を窺う。最前列の生徒が、昇降口の前にいる教師にカバンの中身を見せていた。どうやら、持ち物検査をしているようだった。

 一矢は安堵した。菜々羽や紗月が何か騒動を起こしているわけではなかった。持ち物検査くらい、どうということはない。見られて困るようなものは何も持ってきていない。寮にはいまだに例のラブドールがいるが、あんなもの持ってこれるわけがないので問題はない。

「一矢君、おはよう。これ何の列?」

 気付くと、一矢の後ろに紗月がいた。彼女も大きい体を揺らして列の前方を見やる。

「検査みたいだ」

「検査?妊娠の?」

「朝からそのボケは胃に重いんだわ……」

 朝食に唐揚げとトンカツを出されたような感覚だ。

「持ち物検査だよ、持ち物。おれは何も持ってきてないから時間食うだけなんだけどな。紗月も別に……」

 何も持ってきてないだろ、と言おうとしたが、そういえば彼女は校内でロケットランチャーや刀を振り回している。検査対象者筆頭ではないか。

「大丈夫。そういうのはここにあるから」

 と言って、紗月は突然シャツの隙間から、自分の胸の谷間に手を突っ込んだ。そして、谷間の奥から刀の柄を見せた。

「抜く?」

「紛らわしいことを紛らわしいポーズで言うな!しまってくれ!」

「なるほど、一矢君は先が見えないほうが好き」

「余計な解釈をするな!」

 そうこうしている内に、列が進んだ。一矢は急ぎ足で昇降口の教師の元へ向かう。

「カバン開けて」

「はい」

 言われるままカバンを開け、教師の前の机に置く。教材と財布くらいしか入っていない。引っかかる要素はこれっぽっちもない。20秒も掛からないだろうし、一矢は教師の顔も見ずにその場を通り過ぎるつもりだった。

「はい、じゃあここに名前書いて」

 しかし呼び止められる。

「名前?」

「ああ。問題がないことの証明だ」

 教師に1枚の紙とボールペンを手渡される。

「はあ……わかりました」

 渡されたものを机に置き、ボールペンを右手に持つ。こんな手続き、他の学生はやっていただろうか?

「どこに書けばいいですか?」

「ここだ」

 教師が指さした場所に目を向ける。

「……ええと、“私、____は、野球部に入部します”……?はっ!」

 そこで初めて顔を上げ、教師を見る。

 ジャージ姿で、全体的にシュッとした美人顔。前日に職員室で野球部に勧誘してきた、光森だ。

「あ、アンタは!マズイ!」

「ふんっ!」

 逃げようとした一矢だったが、光森に右手を抑えられた。

「ち、力つよっ!」

 振り切ろうとするが、機械で固定されたように全く動かない。

「どうした?ちゃんと書いてくれなきゃ困るじゃないか」

「いやいや!これ野球部の入部届じゃないですか!」

「おやおや、な、何を言うのか。それのどこが入部届だと?」

「はっきりと書いてますけど!」

「そんなまさか。これはただのメモ用紙だよ。たまたま、それが野球部の入部届だっただけだ」

「入部届をメモ用紙にするな!顧問!」

「あら?一矢?」

 名前を呼ばれて顔を上げる。隣のレーンで検査を終えたらしい菜々羽が、校舎に入ろうとしていた。

「祠堂……!検査終わったのか?」

「ええ、そうですけど……貴方何してるんですか?腕相撲?」

「ペン持ったままやる腕相撲があるかよ……っていうか、聞きたいことがある!検査のときサインしたか!?」

「サイン?」

「自分の名前!どっかに書いたか!?」

「いや、別に……イカサマ用のトランプは没収されたけど、サインとかしてない」

「お前!今日のババ抜きそれでやるつもりだったな……ってそれより!今の聞いたでしょ光森先生!入学してから2回も停学になってる祠堂が書いてないんですよ!おれが書く道理はないですよね!?」

「くっ……!」

 光森の力が一瞬弱まる。その隙に一矢は光森の手を振り払った。

「サンキュー祠堂!後で何か礼する!」

 そう言うと、カバンを抱えてダッシュで校内に駆けこんだのだった。

「せっかくのチャンスだったのに……!」

 光森は悔しそうに机を殴った。

 状況が掴めていない菜々羽は、ただただ困惑していた。

「……何か若干ディスられた気もするけど、役に立ったみたいですね!全く、私がいないとダメなんですから!おーっほっほっほ!」

 細かいことはわからなかったが、とりあえず気分の良い菜々羽であった。


「(何だったんだあれは……)」

 体育館で授業前にバレーボールのネットを準備しながら、一矢は朝の騒動を思い出していた。

 そして感じる。

 あの教師、光森美穂は紗月と菜々羽に通ずるものを持っている。

 今日は振り切ったが、今後も強引な勧誘に来るだろう。一難去ってまた一難だ。

 しかし体育の授業だけは大丈夫だと、一矢は安心していた。男子は体育館でバレーボール、女子はグラウンドでサッカーをすることになっている。誰が担当かはまだ知らないが、教師と生徒の性別は合わせられるため、光森がここに来ることはない。何なら、紗月と菜々羽もいない。

「(その割には何故だろう、胸騒ぎがする……)」

 普通であれば、彼女たちが一矢の前に現れることはない。“普通であれば”。

 しかしここは、日本中から個性が集まる某高校である。

「一矢君、得点板持ってきたよ」

 からからと、キャスターを転がして得点板が運ばれてきた。

「ああ、ありがとう。ポールの横に……え!?」

“バッ”という擬音が見えそうな勢いで一矢が振り返る。

 嫌な予感とは、当たるものである。

「さ、紗月!?」

「何?あ、スコア0にしないと」

 体操服姿の紗月は何食わぬ顔で数字がプリントされたシートをめくる。

「お前、なんでこっちにいるんだ!?」

「え、だってほら、私一矢君のマネージャーだから」

「女子はグラウンドだろ!」

「大丈夫大丈夫」

「無理がある」

 そう言って一矢は紗月を見る。伸縮性のある体操服が紗月の体のラインをはっきりと描いている。この世の全員に当てはまるわけではないが、それが何よりも女性を表している。

「いや、これバレーボールだから」

 そう言って紗月は体操服の中に両手を突っ込み、胸の辺りをまさぐる。

「思春期男子の前で何してんだ!」

「何するも何も……ほら」

 そう言って紗月は、服の中からバレーボールを2つ取り出した。

「は?」

 呆気に取られる一矢に、紗月はボールを渡す。

 正真正銘のバレーボールだ。少し生暖かい以外は、何もおかしな点は見当たらない。

 そして何より。

 つい先ほどまで存在感を強調していた、紗月の乳がなくなった。

 一矢を失神させたあのボリュームはなくなり、女性特有のラインが消えていた。

「お、お前まさか……いやでも、そんなはずは……」

 一矢は混乱していた。彼の中で紗月と言えば高身長巨乳だった。イメージの50 %が消えた今、目の前にいる人物を紗月だと認識出来なかった。

「ほら一矢君、そろそろ授業始まるよ。集合しないと」

 一矢の脳内に謎の記憶が流れる。中学生時代の記憶だ。一矢と紗月が野球部に所属していて、共に汗を流し、本気で勝利を喜んだ、そんな記憶。そうだ、紗月は当初、身長があったもののなかなか技術が伸びなかった。最初はスタンドで応援しかできなかった。けど一矢と共に練習を重ね、その体格を生かした力強いバッティングと送球を武器に外野のレギュラーを勝ち取った。一矢がヒットで出塁した後に紗月がホームランを打ったことは、一生忘れられない。

 そうか、間違っていたのは自分だったのかもしれない。紗月とはこれからも親友として、苦難を乗り越えていくんだ。

 みち……みち……。

「ん?紗月、何か胸の辺りから音がしてるぞ」

「え、何が?」

「ほら、みちみちって……」

「あっ」

 バツン、という音がして、突如紗月の胸が膨らんだ。再び体操服がパツパツになる。

「うーん、やっぱ普通のサラシじゃだめか」

 紗月は胸の周りをさする。彼女の指が少し沈んでいる。明らかにボールとは異なる柔らかさがある。

「……はっ!?」

 刹那、一矢は何かから返ってきたような感覚を覚えた。まるで自分の意思で悪夢から目覚めたときのようだった。

「お、おれは何を見ていたんだ!?え、紗月なんでここにいるんだ!?」

「ちっ、出直すか」

 そう言うと、紗月は一目散に体育館から駆けて行った。

「集合!」

 何か恐ろしいことに遭った気がするが、授業開始の時間になったため、一矢はこれ以上考えないことにした。

「体育だが、私が担当することになった。これからよろしく」

 整列した生徒らの前に立ち、挨拶をする担当教員。帽子を目深に被り、長袖長ズボンのジャージを着ている。何故か気になって教師の胸を見たが、平たい。紗月でないことは確かだ。少し安心した。

「さて、それじゃあ準備運動の時間だ。各々5分間、好きに体を動かせ」

「あの……ラジオ体操とかはしないんですか?」

「ないぞ。ここは某高校だ、それくらい自由にやっていい」

「おぉ……」

 男子たちがざわざわとする。一矢も内心驚いていた。色々と自由な学校だと思っていたが、ラジオ体操がないとは。ちょっとサボっただけで教師からグチグチ言われた中学時代とは大違いだ。

 生徒が体育館に散らばり、ストレッチやランニングなど、準備運動を始める。一矢も軽い体操から始めることにした。

「君」

 不意に教師から話しかけられた。一矢は屈伸運動を止める。

「はい、何でしょう」

「ぱっと見ただけだが、君はいい体をしているな。何かスポーツを?」

「あぁ、はい。野球をやっていましたが……はっ!?」

 最近のあれこれを思い出し、一矢は瞬間的に教師から離れる。まさかこいつ、光森か!?

「何だ、どうかしたか?」

 と思ったが、やはり胸が平らだ。一矢の記憶上、紗月には遠く及ばない(というか紗月がデカすぎる)が、光森もバストサイズはあった(おそらくDくらい)。あと声も低い。光森とは別人だろう。

「いやその……何でもないです。ああ、そう、スポーツは野球を」

「高校ではやらないのか?」

「そうですね。今はやる気はないです」

「そうか……けどあの部は今体験入部が出来るはずだ。バッティングセンター気分で行くだけ行ってみてもいいんじゃナイカ?」

「ん?」

 今、教師の声が徐々に高くなり、最後は女性のようになった気がする。

「……あの、もしかして喉痛いんですか?」

「……そ、そんなことはないぞ」

「でも、やっぱり声が高くなってきたような……」

「イヤイヤ、ソンナコトハナイゾ」

「明らかに女声なんですけど」

「あ゛ーっ!!つべこべ言わずに野球部入れー!!」

「おわーっ!!」

 突如帽子を脱ぎ捨て、襲い掛かってきた。一矢は反射的に飛びのき、そのまま猛ダッシュで逃げる。

「おい待て!」

 帽子で隠れて見えなかったが、やはり光森だった。

「うわ!やっぱりか!さっき声低かったのは何だ、ヘリウムガス的な奴か!?っていうかアンタもサラシか!?」

「サラシ……?何のことだかわからないな!それより待て!待たないと留年させるぞ!」

「職権乱用が過ぎるだろ!誰か助けてくれ!」

「一矢君!目を閉じて耳を塞いで!」

 一矢と光森の間に何かが投げられる。誰かに言われた通り、一矢は目を閉じて両手で耳を塞いだ。

 その直後、瞼越しでもわかるくらいの閃光と、塞いでいても鼓膜に刺さる爆音が鳴り響いた。

「無事?」

「うわっ!誰だお前!」

 目を開けると、一矢の眼前にやけにごついヘルメットとガスマスクを着けた人が現れた。

「私だよ、私。あ、オレオレ詐欺じゃないから」

 こんな変なことを言うのは紗月しかいない。実際、装備を外すと、ふぁさりと彼女の髪の毛が流れ出た。

「対面でオレオレ詐欺やる奴いないだろ……それにしても助かったよ。まさか最初から、このパターンを考えて体育館にいたのか?」

 であれば、追い返してしまったことに少し申し訳なさを感じる。

「いや、元々は一矢君のストーキングが目的」

「あ、そう……」

「で、さっき泣く泣くグラウンドに行ったら男子を担当する先生が簀巻きで転がってて」

「ほんまかそれ」

 ただ、この学校なら起こり得る。

「嫌な予感がして体育館に来たら、案の定だった。早く逃げよう。このままだと一矢君の大事なものが奪われる」

「えーっとまあ今はツッコミはいい!逃げよう!」

「待て、貴様ら……!」

 フラッシュバンに目を焼かれたはずだが、光森は瞼を開けて真っ赤な目で一矢を見る。

「待たないよ。行こ、一矢君」

「いいか、佐山一矢!私は君を諦めない。三国志において劉備は三顧の礼を持って諸葛孔明を迎えたという。しかし私は何度でも君を訪ねる!三で足りないのなら十顧、百顧、千顧の礼でも……いや、それも足りないなら!」

「おい紗月!マズイぞ、何かとてつもなくマズイ予感がする!」

 一矢の予想通り、光森はその言葉を発した。

万顧まんこの礼を持って、君を迎えるとしよう!」

「言いやがったな!?」

「やはり色目!不穏分子は取り除きたいけど……今は一矢君を守ることが大切!」

 またしても自分が追われる立場になったことを呪いつつ、一矢は紗月と共に授業から脱走したのであった。

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