第8話 謎のお姫様(1)

 結生子ゆきこさんは、冷たいお茶を少し口にしてから話し始めた。

 「杏樹あんじゅが最初にこの研究室に来たとき、安寿あんじゅ姫の話をしたでしょ? 安寿と厨子王ずしおうの物語の」

 杏樹が「あんじゅ」なので、関心を持ちました、というような話だった。

 「はい」

 先に答える、クールないずみ仁子じんこ

 で。

 「わたしが、お姫様の最期さいごの話を読んで気もち悪くなったって話ですね」

 なんで死ぬ話を最初にする?

 杏樹をひやっとさせて、そこまでして杏樹を涼しくしたいのかな?

 物語の安寿姫は、杏樹が読んだもり鴎外おうがいの小説では自殺する。しかし、その「原作」にあたる物語ではさまざまな責め苦の末になぶり殺しにされるのだそうだ。仁子はその「原作」を読んで気もち悪くなった、という話だった。

 「それで、岡平おかだいら市の海岸地帯、わたしの生まれたところも含むんだけど、その一帯にもね、悲運のお姫様の物語が広がってるの」

 そこでちらっと大ヌシ大藤おおふじ千菜美ちなみ先生の顔を見る。千菜美先生は澄ました顔で小ヌシ結生子さんを見返した。

 結生子さんは、それを、続けていい、という合図と思ったのだろう。

 「その岡平藩の改革を推進したっていう、相良さがら讃州さんしゅう易矩やすのりっていう家老がいた、ってさっきの話にあったでしょ? その相良讃州が、藩主の娘のお姫様が藩主を殺そうとしたってことにして、藩の乗っ取りを図った、っていう話があるの。そういう話が、その岡平市、っていうより、昔の岡平藩に伝わっているのね」

 「いや。ちょっと待ってください」

 引き続きクールな泉仁子が言うので、何か言うのは仁子に任せ、杏樹は安心してお茶を飲み、じゃがいもデンプンのお菓子をゆっくり味わうことにする。

 「戦国時代とかならともかく、江戸時代って簡単にお家乗っ取りなんかできなかったんじゃないですか? 江戸時代って、幕府の統制が強く効いてて、そんなことになったらまず藩取りつぶしになっちゃいますよね?」

 なんで北関東の古墳について調べたいとか言っててそんなのを知ってるんだ、仁子は?

 「だから、公式の記録にはそんなことは何も残ってないのよね。騒動があったことはいちおう書いてあるんだけど、詳しい事情も書いてない。そして、そのお姫様のことは、江戸時代の記録には一つも出てこないの。出てくるのは、明治時代の、それも後半になってまとめられた本が最初」

 「だから、伝説なのよ」

 大ヌシ千菜美ちなみ先生が効果的なところで一撃を加える。

 「そう。ひどいのよ」

 結生子さんは、そこで、急に、訴えかけるように身を乗り出して言った。

 「わたしはね、岡平で育ったから、そのお姫様がほんとうはいなかったなんて可能性はまったく想像もしなかったわけ。それで、そのお姫様について研究したくてここの研究室に来たのよね。それで、研究したいって言ったら、先生は、その藩の公式記録をわたしに渡して、ここに出てくるそのお姫様の話をまとめて来なさい、って言ったの。ところが、いま言ったように、公式記録には、出てこないわけ。だから、その史料を使うかぎり、不可能なのよ。でも、それをやってきなさいって言って、それでレポート書かせて、そんなこと史料には書いてなかったはず、とか、めちゃくちゃに酷評して、あとで「出てこないのよ」って言うっていう。この先生、そういうのやるから、気をつけてね」

 げっ。

 大ヌシの千菜美先生は、黙って、笑いを浮かべて、その睫毛まつげの長い目を結生子さんに向けている。

 「それは」

 何か言おうとする、けなげでクールな泉仁子。

 「なんか意味があって、やったことですよね」

 はい?

 なんで、「先生、ひどいですね」とか、「わたしも気をつけます」とかじゃなくて、そんな質問?

 千菜美先生は答える。

 「まあね。結生子ちゃんが情熱的で、とても意気込んでたから、ちょっといじめておこうと思ってね」

 平気で言う。

 それって。

 露骨にハラスメントでは?

 「それってハラスメント相談窓口に言っていいですか?」

 あ、結生子さんもおんなじこと考えてた。

 先生はぜんぜんこたえないらしい。お茶のお湯みを持ったまま言う。

 「ええ。それでわたしの指導を受けられなくなってもいいんならね」

 「あの」

 またクールな泉仁子。

 「そうやって自分の影響力を誇示するのもハラスメントだってきいたんですけど」

 先生がその睫毛の長い目を瞬かせる。

 瞬かせたまま動かない。何も言わない。

 さっきの結生子さんの言ったことはこたえなかったのに、仁子のはこたえたらしい。

 ハラスメントとか言い出した結生子さん自身も凍りついている。

 ヌシを上回る泉仁子!

 そのクールな泉仁子は発言したまま動かない。笑いもしないし、凍りつきもせず、まじめな顔をして、半分ぐらいなくなったお茶と、じゃがいもデンプンのお菓子がなくなったお皿を前にして無表情で座っている。

 あれ?

 ぜんぶ食べちゃったの? いつの間に?

 いや。そうではなく。

 だれも何も言わない。

 うむ。

 なんとかしなければ。

 「えっと」

 ホットさをまだ残している杏樹が言う。

 「それ以外にも、目的があるわけですよね? その、わざわざむだに終わるに決まってるレポートを書かせた、っていうのは」

 そう言って大ヌシ先生を刺激しないかを考えてしまう小心者の杏樹!

 「まあ」

 それに答えたのは、凍っていたはずの小ヌシ結生子さんだった。

 「伝説は歴史ではない、ってことを教えたかった、ってことよね」

 声はぜんぜん普通だ。いや「ぜんぜん普通」という表現はダメらしいんだけど。中学校で国語の先生に言われた。

 つまり、結生子さんはじつはぜんぜん凍結していなかったらしい。この表現ならOK。

 「わたしが、伝説でこれだけ言われている以上、ほんとうに違いない、って思い込んでたから。でも、歴史というからには、史料にあることをもとに説を立てなければいけない、物語や伝説は史料とは言えない、少なくとも質のいい史料とは言えない、ということを、ま、教えるためよね」

 「ああ。かわりに学部学生の指導をしてくれてありがとう」

 三年生にハラスメントを指摘された先生はまだ凍りつき風味を残している。

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