第7話 じゃがいもデンプンのお菓子をいただきながら

 いきなり、杏樹あんじゅの前に、ガラスの茶托ちゃたくに載せたガラスの湯みが置かれた。ガラスの湯呑みは緑の葉っぱが描いてあったりして涼しげだ。

 「はい。お茶も飲まないで難しい話なんかして」

 「あ、ありがとうございます」

と頭を下げたときには、大ヌシ大藤おおふじ千菜美ちなみ先生は結生子ゆきこさんの前に同じようにお茶を置いていた。

 入っているのは、冷やした煎茶か、冷やした番茶か、そういうものらしい。

 千菜美先生は向こうに回って、いずみ仁子じんこのまえにも同じように冷たいお茶を置く。身のこなしがおねえさまっぽい。自分の席にも置く。

 大ヌシは、続いて、透明なようかんのような、ゼリーのようなものをそれぞれの前に置いてくれた。

 茶托も、ガラスの湯呑みも、分厚くて趣きのある四角いお皿も、ぜんぶ先生の私物だ。

 自分のところに透明なようかんを置いて、千菜美先生は着席する。

 「あ、いただきます」

と小ヌシの結生子さんが先生に言い、杏樹と仁子も小さく頭を下げた。

 お茶を入れて、冷やしてくれたのも、この透明ようかんのようなお菓子を作ってくれたのも千菜美先生だ。

 もういちど言います。

 お菓子を作ってくれたのも、千菜美先生なので。

 ほかの研究室では味わうことができないサービスだ。

 前に、学生のためにいつもいつもありがとうございます、と言ったら、

「あら。自分のためよ。自分のために作ってきてるのを、おすそ分けしてるの。一つ作るのも五つ作るのもあんまり変わりないでしょう?」

と言われた。

 五つというのは、ここの研究室には、正式のメンバーではないけど、もう一人社会人学生さんがときどき来るからだけど。ヌシ二人と学生二人と、あと社会人学生一人で五人。

 そして、このよいサービスには、もうひとつ、たいへんよいサービスがついてくる。

 大藤千菜美先生のたいへん懇切ていねいなご指導。

 お茶とお菓子と指導がセットになって、たいへんお得。

 そういうことにしておこう。

 大藤先生が着席したということは。

 ここから何か始まるのだろう。

 その先生が話し始めようとしたところで、

「冷たくておいしいです」

 泉仁子がお茶の感想を言う。タイミングを狂わせることを狙っているとしたら、とてもよいタイミングだが。

 「茎茶くきちゃなんだけどね。冷やすと、やっぱりちょっと薄味の感じになるわよね」

 と言われても、よくわからない。暑いので、とにかく冷たいだけでありがたい。

 「それで、結生子ちゃんね」

 大ヌシ大藤先生が指導の流れに戻る。

 「当時の漁船がどこまで沖に出たかとか、海女あま漁とか、そういうことを調べて、どうするの?」

 「もちろん」

 お茶を一口飲んで、結生子さんは、先生に向かって顔を上げる。

 「その前の時代を研究するためです」

 その前、というと、卒業論文で扱ったのの前の時代ということだろう。

 大学院に行くと、卒業論文の後にまた論文を書かなければいけないので、たいへんだ。

 また先生の粘着。

 「その前の時代を研究するのなら、どうして漁の研究が必要になるの?」

 「どの時代を知るにしても、その時代の社会をよく知っておくことが必要、って先生、おっしゃってますよね?」

 結生子さんも粘る。

 杏樹にわからないのは、何をはさんで粘り合っているか、ということで。

 「結生子ちゃんね」

 自分もその冷たいお茶を飲んでから、軽く前屈みになった。

 「同時代の文献に一度も出てこないお姫様のことをどうやって調べられるの?」

 結生子さんがにまっと笑う。

 「お姫様を調べるなんて一言も言ってません」

 よくわからないけど。

 その「お姫様を調べる」というのが、両方が粘っていたポイントなんだろう。

 「じゃあ、調べないのね?」

 「もちろん」

 これは小ヌシ結生子さんの粘り勝ち?

 「あ、葛餅くずもちも、おいしいです」

 泉仁子がまた話を逸らす。この透明なのは葛餅というものなのか?

 「葛粉じゃなくてじゃがいものデンプンだけどね」

 菓子フォークで切って、その葛餅を口に運ぶ。

 ようかんのような粘りはなくて、さくっと切れるその感触だけで涼しい。

 口に運ぶ。冷たさと期待を裏切らない甘さが広がった。

 「んふっ」と軽く笑いがこぼれる。

 「ただね」

と、杏樹と泉仁子が作った時間のすきに乗じて、結生子さんが言う。

 「そのお姫様が逃げたという伝説が残っている場所も、お姫様を神様としてお祭りしている場所も、海辺と漁村が圧倒的に多いんですよ。それはお姫様が実在しなかったとしても、その当時の漁村が置かれていた、その藩のなかで、とか、藩の政策とかで、漁村が置かれていた立場っていうのを反映しているはずです」

 結生子さんは言い切った。

 結生子さんのヌシである大ヌシ千菜美先生は、自分で自分のじゃがいもデンプンのようかん的なお菓子を食べた。

 口に入っている間はものを言わない。お行儀がよい。

 こんどは泉仁子も何も言わない。

 口に入っているものを食べてしまってから、千菜美先生が言う。

 「あのね、結生子ちゃん。その時代に、漁村の商業化と、漁村への本格的統制が始まった、それがその相良さがら易矩やすのりの改革っていうのの要点だった、っていうことは、もうわかってるわけよね?」

 「それを漁村がどう受け止めたか、です。または、漁村がどう変化したから、そういう改革が可能になったか」

 結生子さんは唇をきゅっと引く。

 こうすると、唇の自然なピンク色と、頬の白さが際立つ。

 すなおに、きれいだな、と思う。

 「この時代に、突然、魚がいっぱい岡平の沖を泳ぐようになったわけでもないですよね? じっさい、早浦はやうらっていうところの市政資料館に行ってきましたけど、早浦の漁獲量はほとんど変化ないって」

 早浦という土地は杏樹も知っている。岡平よりさらに遠くだ。

 「調べるのが早いわねぇ」

 先生のこの発言は、すなおに感心していると言っていいのだろうか?

 ところで。

 いまの話、杏樹が知らないうちに先に進んでしまったので。

 何がどうなっているかよくわからない。

 「あの」

 杏樹が言う。

 「その文献に出てこないお姫様って、何ですか?」

 「だれですか」だったかな?

 「それから、逃げた、とか、神様とか」

 杏樹も、先生の指導から逃げたら神様になれるかな?

 そんなはずも、ない。

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