第5話 小ヌシ登場

 小ヌシか、それとも別のだれかか?

 大ヌシの先生は「別のだれか」をたいへん警戒する。

 大学の何かの仕事を持ってこられる可能性があるから。

 でも、柱と壁と本棚のあいだを通って現れたのは、小さいほうのヌシ、大学院生の三善みよし結生子ゆきこさんだった。

 クリーム色のブラウスを着ている。たいへんスタイルがよい。色も白くて、美人、もうひとつ言うとやたらと酒に強い。本人は、酒に強いのではなく、酔ってからつぶれるまでの時間が長いのだ、と言っているけど……。

 よくわからない境地だ。

 このひとも色白なんだけど、温泉に入れたら湯気になって消えてしまいそうな泉仁子とちがって、何があっても消えなさそうな存在感がある。

 「ああ。四年生、揃ってるんだ」

 小ヌシの三善結生子さんが言う。

 この「小ヌシ」は、「こぬし」と読むより、「ちいぬし」と読んだほうが、似合ってるのか、ないのか。

 どっちでもいいけど。

 「それより、結生子ちゃん、今日はどこ行ってたの?」

 先生が絡む。

 「今日は姿を見なかったけど」

 大学院生になると、そこまで行動をチェックされるものなのだろうか?

 杏樹あんじゅだって、大ヌシ千菜美ちなみ先生に姿を見せたのは、今日はさっきが最初なんだけど。

 一週間の半分ほどここに来なければ「何かあったの?」ときかれるけれど、そうでなければ、そんな存在チェックはされないんだけどな。杏樹は。

 結生子さんは平気で答える。

 「ああ。漁業博物館です」

 「漁業博物館って」

 大ヌシが、その色っぽい目をぱちぱちと瞬かせる。

 「甲峰こうみねの?」

 あ、あそこだ、と杏樹は思う。

 この結生子さんの出身地だ。海辺の村だという。杏樹はまだ行ったことがない。

 「あなた、あそこに行ってだいじょうぶなの?」

 だいじょうぶなの、と言われた結生子さんは、杏樹の隣、大ヌシに近い椅子を引っぱって腰掛けた。

 とても普通のことのように言う。

 「もう、あそこに、わたしを見てだれかがわかるひと、ほとんど残ってませんから」

 つまり、それは「わたしを見てだれかがわかるひと」に会ったら、ややこしいことになる、という意味だ。

 出身地なのに。

 結生子さんが、出身地の村で、その村のひとの目を気にしなければならない事情は、杏樹は聞いて知っている。もしかすると、杏樹の知らない事情がもっとあるのかも知れないが、杏樹が聞いているだけでも十分に重い。

 自分の出身地に帰るにも、ひとの目を気にしなければいけない。

 その気もちは、杏樹には想像もできない。

 「ところで、結生子ちゃん、それについて」

 山のなかの、または温泉の近くのお城の検討は後回しになったみたいだ。

 まあ、杏樹の卒論とか、杏樹のレポートとか、杏樹のゼミ発表とか、そういう話にならなければ何でもいいのだけど。

 大ヌシ千菜美先生は結生子さんにきく。

 「二つほど、質問があるんだけど」

 「はい」

 結生子さんは「はい」と言うそのそぶりだけでいろんな雰囲気を振りまくことができる。

 「ちゃんと答えますよ」という雰囲気から、「わたしがいて場がゴージャスになったでしょ?」という雰囲気、「あんたたちもわたしを見習って先生には堂々とした態度をみせなさい」という雰囲気まで。

 正直に、うらやましい。

 「一つめは、漁業博物館まで何をしに行ったか、っていうこと」

 小ヌシの結生子さんはさっと答える。

 「資料見せてもらいに行ってました」

 大ヌシは粘着する。

 「何の?}

 「当時の漁法です。あ、つまり、一八世紀後半から文化文政時代の前半ぐらいですね」

 それが小ヌシ結生子さんが研究している時代だ。そうだったはず。

 それがどんな時代か、杏樹にはよくわからない。

 文化文政って、なんかこう、華やかで、すごく栄えてて、でもなんかすごくダメっぽい時代だったような……。

 「船で出るとして、どのあたりまで沖に行ってたか、とか、使ってた漁具は、とか、あと、海女あま漁がどこまで普通に行われてたか、とか。紙の資料はほとんど出てきませんでしたが、漁具とか船とか見せてもらいました」

 「あそこ、あんまりそういう資料は持ってないのよね」

 大ヌシの先生は冷たい。

 「あそこの博物館、そういう資料収集とか地道にやる前につぶれちゃったから」

 「ええ。知ってます」

 結生子さんが答える。

 「予算がまともについたのは一年めだけ、あとは、お客が入らない以上、予算なんてつけられない、とか言われて。まあ、最後にうちの大学が買い取ったわけですけど」

 「あれねぇ」

 大ヌシ先生がため息をつく。

 「生活科学部の水産資源研究室がちゃんと使ってくれる、って話だったのに。このままだと、予算のうちの学部持ちが増えそうで」

 そういう話は、よくわからない。

 でも、いいんじゃないだろうか?

 なぜかこの大学では日本史研究室は児童福祉学部に属している。その児童の福祉を学ぶところが博物館を持っているのは、いいことだと思う。

 それに、児童福祉学部は教職課程も持っているので、なおさら、自分のところで博物館を持っているのはいいことだと思うのだけど。

 「ま、しかたないけどね」

 先生はさらに大きくため息をつく。

 「女子大で水産業ってね。ちょっと前の、完全男社会、っていうのじゃなくなったけど、水産業で働く女のひとって、まだそんなに多くないって現状だから」

 よくわからないほうに話が行く。

 「で、第二の質問」

 あ。

 先生がため息モードから立ち直った。

 その立ち直った先生の声に、向かいで涼やかないずみ仁子じんこがさりげなく背を伸ばしているのが愛おしい。

 ん?

 「愛おしい」って?

 それ、いいのか?

 「交通手段は?」

 「あ、自転車です。いつもどおり」

 結生子さんはとてもあたりまえのように答えた。

 泉仁子がさりげなく凍りつく。

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