第20章-6


 二匹の猫はずっとうつむいたままだった。体毛は風になびいてる。


「なあ、さっき先生が言ってたの、どういうことかわかるか?」


「ま、ここのばあさんかおばはんが出てくっから、それを追えってことだろ?」


「でも、そうなるとこっから降りなきゃならねえんだよな」


「そういうこった。いや、出てきてからじゃ無理だろうよ。降りきる前に見えなくなっちまう。つまりは――」


 祭りの音が聞こえてくる。二匹は顔を見合わせ、ヒゲをらした。


「こりゃ、若いもんの仕事になるな。クロ、そういうことだから降りてくれ」


「おい、簡単に言うなよ。登るのだってむちゃくちゃ大変だったんだぞ。降りるってなったら、」


 下を覗(のぞ)くと毛がさかった。ありゃ、ガラスじゃねえか。あんなのに落ちたら一発だろうな。


「そんなのわかってるよ。でも、しょうがねえだろ? この瞬間に出てきたらどうすんだ。ほら、早く降りるんだ」


「そういってもな、どうすりゃ早くできるんだよ」


「俺に考えがある。ほれ、あの木があっだろ? で、こっちに向かって伸びてる枝がある。まずはあれに飛び乗るんだ。なに、大丈夫だよ。枝ってのはしなるもんだ。お前の重さならえきれるはずだ。そしたら、今度はあっちの枝に移る。太いし、長いから、上手くやりさえすれば平気なはずだ。そしたらな、ほれ、もうあそこの屋根はすぐだ」


 マジで言ってんかよ。首を動かしながらクロは溜息をらした。それに、「はずだ」だの「上手くやりさえすれば」って、全然大丈夫じゃなさそうなんだけど。


「ほんとにやるのか?」


「そうなるな。ほら、クロ、飛び移るんだ。大丈夫だよ。お前は黒いだろ?」


「は? 色が関係あるんかよ」


「あるさ。俺はな、くろひょうってのを見たことがある。あいつはぴょんぴょんって木に登ったり降りたりすんだ。きっとお前にもその血が流れてるはずだ。だからできるよ」


 んなわけねえだろ。そう思いはしたものの、しょうがない。クロはおしりを振って飛び移った。


「おっ、上手くいったな。さすがだ。そしたら、今度はそっちだ」


 わかってるよ。っつうか、そんなに言うならお前がやれよ。クロはふたたびお尻を振って、第二の枝に飛び乗った。







「十二年前になにがあったかですか?」


 お茶をぎ足すとよしほほに手をえた。彼はうなずいてる。


「そうです。ふたたび線路向こうに住みはじめたかしわはほどなくして板橋に越してます。あなたの近くにいたかったはずなのにそうしたのには理由があるはずなんです。私はそれを平子さんのりんじんトラブルが原因と考えてるんですが」


「はあ、確かにありましたね、そういうことが」


「その隣人はなんてお名前でしたか?」


がわさんです。あそこも昔はそこそこのおたくだったんですが、今じゃ細切れに売られて見る影もなくなってしまって。――そういえば柏木さんに訊かれたことがありました。『あの家はどうなったんだ』って」


 彼は鼻に指をあてた。目は細まっている。


「どうなったんです? 細切れに売られたとおっしゃってましたが」


「奥様が自殺されたのは聴いてます? ――そうでしたか。それから間もなく引っ越されてね。それも、まるで夜逃げのように」


「夜逃げのようにですか。なぜです?」


「そりゃ、あんなことの後ではね。先生はどんなトラブルだったかもご存じなんでしょう? その、猫のふんを投げ入れてたそうで。いえ、平子さんの方にも問題はあったんですよ。あの方は若くに結婚されて、そう、ご主人は柏木さんと仲がよくってね。ただ、そのご主人がくなってからというもの、それは沢山の猫をいだして」


「そのようですね。有名な猫しきだったそうじゃないですか」


「ええ、そう言われてました。ですから他にもトラブルというか、そういうのはちょくちょくあったんです。ただ、長谷川の奥様ってのがそれはもうすごい方で。ご主人が大学教授をされてたのもあるんでしょう、お子さんが二人いらしたんですがしつけ方が厳しくって。それはそれで有名だったんです」


「なるほど。そういうお宅がならんでたわけだ。それはトラブルにもなりますね。しかも、平子さんの飼い猫は次々と死んでいったそうじゃないですか」


「そうでしたね。それであの方はちょっとおかしくなってしまって。――ああ、少し前にウサギが殺されたことがありましたでしょう? その後に柏木さんがみょうなことをおっしゃってて、」


「妙なことというのは?」


「その話になったとき、突然平子さんの名前を出して、――ええと、どう言ってましたかね。――そう、『本当にわいそうなことをした。猫が殺されたとき出るとこに出さえすれば』って。どういうことかと訊いたんですが、だまりこんでしまって」


「ということは、やっぱり平子さんのトラブルと関わってたってことですね。他に思い出せることはないですか? たとえばビラがどうとかは言ってませんでしたか?」


 ほうけた顔はてんじょうあおいだ。首のしわは薄く伸びている。


「いえ、とくには。ただ、あの人のことですから、そういう相談をされればひとはだごうってことになるでしょう。――あっ、じゃあ、あのときのあれも、」


「どうしました?」


「ちょっと待って下さい」


 指を止め、彼は浅く息をいた。瞳だけが動きまわっている。


「そうでした。その、言いづらいことなんですが、あなた方のことを書いたビラがあったでしょう。私もあれを見たんです。それで言ったんですよ。これじゃあんまりだって。そしたら、あの人は『自分もここまではしたくないんだ』って。そのときの顔が、こう、思いめたようで」


 彼は目をつむった。見てないものだったけど映像が浮かんでくる。十二年前、トラブルのあった隣人同士、次々と死ぬ猫。そして、けいしょから出てきた男。


「奥さん、夜逃げのようにいなくなったという長谷川さんですが、それからどうなったかわかりませんか? お子さんも二人おられたんですよね? 彼らがどうしたかは聴いてませんか?」


「わかりません。ただ、うわさに過ぎませんが、いっさんみたいになったと言ってる方もおりましたね。ご主人が奥様のしたことをひどくじていたようでしたから、そうなっても仕方ないのかもしれませんが」


「つまり、猫を殺したのも奥さんだったと広まったわけですか?」


「ええ、あそこの奥様は薔薇ばらを沢山育ててらして、殺虫剤とかもお持ちだったようなんですよ。そして、平子さんの猫はだいたいが毒殺だったんです。殺虫剤入りのえさでね」


「なるほど、そうでしたか。ところで、その家でも猫を飼ってたそうじゃないですか。その猫はどうなりました?」


「ああ――」


 胸に手をあて、嘉江はあごを引いた。唇はけいれんしたようになっている。


「先生はそれもご存じでしたか」


「いや、知りません。どうなったんです?」


「これもそういう噂があったというだけですが、長谷川さんのお宅が売りに出されたとき、しきから猫のものらしい骨が見つかったそうですよ。奥様が道連れにしたんだろうって話がありました」


 深く息を吐き、二人はしばらく見つめあった。ながだろう、にごった声が聞こえてくる。彼は腕を組んだ。


「まとめてみましょう。十二年前に柏木伊久男は以前住んでいた場所に戻ってきた。そこでかつて仲の良かった方から相談を受けた。間に入って話にいったが、相手はそんなことはしてないと言い張った。もしかしたらなんくせつけて脅迫してきたとでも思ったかもしれませんね。そこでビラをったわけです。しかし、そんなことをすればもちろん周囲に知れ渡る。なおかつ、猫も次々と殺されていった。長谷川の奥さんは自殺して、一家は離散。平子さんの方もおかしくなってしまった。それで、あの男は逃げ出したんでしょう。板橋に越すときはこちらに来てるはずですよ。そのときなにも言ってなかったんですか?」


 嘉江はうなずいただけだった。彼は指をき出している。


「奥さん、いま言ったことが最近起こった事件の原因になってるはずなんです。そこでもう一度確認なんですが、あなたはあの男に私のことを話しましたね? 自分たちの秘密を知ってるかもしれないと」


「はい、それは言いました。それに、柏木さんはうちで起こってることを全部知ってたんです。ゆかりが生ゴミを置きはじめたのだって教えてくれましたし、そのたいしょ方法も考えてくれたんです」


「ああ、なるほど。あなたが生ゴミを置きだしたのはあの男のじょげんによってでしたか。きっと見守ってるつもりだったんでしょう。だから、私のこともゆるしがたく思ったんですね」


「そうかもしれません。『そういうことなら、なんとかしよう』とおっしゃってました」


「それで、あの男は脅迫状をこしらえた。しかし、それが引っかかってたんですよ。私がこう言ったのを憶えてますか? 柏木伊久男という人物はで、まるで一人の人間がやってることに思えない。動機ははっきりしてるのに、それ以外がれんどうしていないってね。今日、お話を聴いてさらにそう思いました」


「はあ」


 彼はふたたび目をつむった。そうやってあふれかえる映像を整理しようとしてる。だいたいはつながった。十二年前にあったことが糸を引いてるのも確かなんだろう。後は――


「まあ、とりあえずはこれでいいでしょう。いろいろ教えていただけて助かりました」


「いえ、――先生? 訊いてもいいでしょうか?」


「なんです?」


 目を閉じたまま彼はほほをゆるめた。どう訊かれるか想像がついたのだ。


「あなたは柏木さんを殺した犯人を探そうとされてる。それはどうしてです? あの人はあなたにとってにくむべき相手ではなかったんですか?」


「そうですよ。私はあの男が嫌いだ。間違ったことばかりり返してた馬鹿な奴だとも思ってます。しかし、そのどこかにはすがすがしいくらいのところがある。平子さんやゆうくんを殺した人間とは違うんです。いや、私が憎んだのはそいつが柏木伊久男に落とした影なのかもしれない」


 嘉江は不思議そうな表情を浮かべてる。彼はほほんだ。


「わかりませんよね? でも、それでいいんです。今は理解しようとしないのがかんじんですよ。あなたにも危険がおよぶ可能性がありますからね。――だけど、どうでしょうか。これで悪霊はすべてはらいきったように思えますが」


 向けられた指を見て、嘉江も薄くだけ微笑んだ。


「はい、たぶんそうかと。先生、ありがとうございます」

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